148話 「金色の涙と、白帝の碑文」
――笑えない冗談だ。
〈盗王〉クライルートは目の前の現実を即座には理解できなかった。
「――解けたか。感覚を盗む能力はさほど長持ちしないようだな」
クライルートが容赦なく首元に走らせたナイフは、メレアの親指と人差し指に挟まれてピタリと止められていた。
「……」
ただナイフを止めるにしても、もっと安全な方法があっただろう。
視覚も、聴覚もない状態で、全力で振るわれたナイフを摘まみ止めたのはまさしく神業と呼ぶにふさわしい。
しかしクライルートは、メレアの別の部分に対して畏怖を抱かずにはいられない。
「あんた、どうかしてるね。――わざと急所を晒したんだ」
たぶんこいつは狂ってる。
クライルートは率直にそう思った。
「僕も結構裏稼業の世界で生きてきたから危険中毒者は数多く見てきたけど、あんたほどのそれは初めて見たよ」
「俺だって命は惜しい。ここで死ぬわけにはいかない理由がある。だから、たとえ失敗しても死なないような方法を取ってる」
「これで? ハハ、本当に笑えない冗談だ」
引き抜こうとしたナイフがビクともしないことを確認しながら、クライルートは次の手を考える。
おそらくこのナイフはもう使い物にならない。
自分がすべての膂力を出しきって引っ張っても、この魔神からナイフを奪い返すことはできないだろう。
「こんなことなら彼と一緒に来るんだった。真っ向からの勝負は僕の性に合わない」
クライルートはそんなことを言いながら大きく三歩下がる。
それから何気ない動作で再び手をメレアに向かって開き、何かを握り込むようにすぐ閉じた。
その、直後。
「――」
メレアが飛んできた矢を避けるかのような動作で、首を振る。
「まさか……」
クライルートが浮かべていた不敵な笑みが、一瞬わずかに崩れた。
「今、僕の術式避けた?」
◆◆◆
それはメレア自身にとっても予想しなかった『変化』だった。
否、それをたしかな変化と呼べるほどの確信はメレアの中にすらなかった。
――見え、た。
クライルートの秘術式。
生憎と、今回もまたメレアの中の反射的反転術式は作動していない。
自分にもっと知識があれば、あるいは特定の秘術を解読して分解することが可能なのかもしれないが、今の時点ではそうもいかなかった。
だが。
それでもメレアは見た。
クライルートの手のひらに刻まれた秘術式から、紫色の半透明の手のようなものが伸びてきたのを。
最初は色も形もなかった。
だから三度も感覚を奪われた。
――なんで、見えたんだ。
メレアは自分自身に起こっている変化に理解が及ばない。
〈竜神の進因〉によって自分の身体が外界のさまざまな障害に対して最適化されやすいことは知っていたが、今回の変化はどうにもそれとは別な気がする。
――眼が熱い。
メレアは左眼に熱を感じた。
とっさに手で左眼のあたりをこする。
「あ――」
手の甲に、金色の涙が付着していた。
◆◆◆
「アイシャ」
「はい」
「メレアの眼に変化があったように見えたか?」
「……いいえ。少なくとも私が見たかぎりでは、なにも」
「そうだな。おれの目から見てもそうだった」
メレアたちが謁見の間から去ったあと、ハーシムは玉座に座りながら言葉をこぼした。
そんなハーシムの声に答えるのは、玉座の隣に立つ侍女衣装のアイシャである。赤銅の髪は汚れ一つなく、マリーザと同じくぴしりと整った立ち姿は凡人に真似のできるものではない。
「本当に、〈白帝〉の眼が宿っているのでしょうか」
ふと、アイシャが眉をひそめてハーシムに訊ねた。
「さあな。そればかりはおれにもわからん」
ハーシムは玉座の肘掛に腕を立て、頬杖をつきながら答えた。
姿勢こそ気だるげだが、その目は遠くを眺めて一糸も乱れない。
自分の中の思考に集中しているようにも見えた。
「レイラス=リフ=レミューゼの性格を考えると、どちらも考えられる。ほかの英霊たちと同じく、自分のもっとも特徴的な力をメレアに組み込んだかもしれないし、あるいはあえてメレアに〈魔眼〉の因子を込めなかったかもしれない」
「そもそも〈白帝の魔眼〉とは何を見るものだったのでしょうか。あの『碑文』を考えると、やはり未来なのでしょうか」
アイシャがつぶやくように言う。
ハーシムはその言葉にしばし間を置いてから答えた。
「……違うな。時を見る眼は『時の号』を持つ英雄たちの専売特許だ。むしろ、〈白帝〉はもっと根源的なものを見ていた可能性がある」
「根源的なもの?」
「そうだ」
アイシャが赤銅の髪を揺らして首をかしげた。
「たとえば、『世界の理』、とか」
想像がつきません、とハーシムの言葉を受けたアイシャがまたつぶやく。
「だからこそ、レイラス=リフ=レミューゼは世間一般的な〈白帝〉になった。ムーゼッグに喧嘩を売った、魔王の英雄――あるいは、英雄たちの英雄として」
「レイラス様は何を見たのでしょうか。あの〈碑文〉を読んでも、私には想像がつきません」
「おれも似たようなものだ。だが、レイラスにとって『それ』はおそろしく悲劇的なものだった。普通の人間なら心を壊していたかもしれない。そういう次元の悲劇」
「……」
「レイラスはそれを阻止するべくかの〈術神〉と奇策を弄した」
「それが、あのメレア様だと」
「いずれにせよすべては推測だ」
ハーシムは瞬き一つせずにじっと一点を見つめている。
「メレアは世界にとっての『特異点』だ。異界草の話を聞いて、それは確信した。レイラスは自分の見た『何か』を阻止するために、メレアという希望を遺した」
「希望……」
アイシャは釈然としないような表情を浮かべる。
「そうです……ね。彼らにとっては、希望かもしれません」
言いながら、アイシャはハーシムの顔をちらりと見る。
そして自分の主の顔に、得も言われぬ複雑な表情を見た。
喜びか、悲しみか、あるいはすべての物事を達観しているかのような。
それは、誰よりもハーシムの近くにいて、長年寄り添ってきたアイシャにしかわからない、特別な表情だった。
「それでも、私は――」
アイシャはそんなハーシムの表情を見て、思わず口を開く。
自分が言わなくていいことを言おうとしていることに、アイシャ自身気がついていた。
「あなた様にとって、悲劇の種になりうるあの方を――」
「言うな、アイシャ」
ハーシムが鋭い声でアイシャを制する。
どこかを眺めていた目は、いつの間にかアイシャの赤銅の眼に向けられていた。
「あいつはおれにとっても希望だ。あいつがいなければ、すでにレミューゼは亡んでいた。レイラスの〈碑文〉の一節はすでにメレアのおかげで潰れている」
「しかし、まだほかの〈碑文〉が残っています」
それでもアイシャは、引き下がらなかった。
そのときのアイシャは、レミューゼ王に忠実な侍女ではなく、ハーシムの最も近しい付き人として、言葉を発していた。
「私は、あの〈碑文〉のすべての節が否定されるまで、あなた様に『注意深く生きるように』警告し続けます。たしかにレミューゼが亡ぶ可能性はいったん否定されました。けれど、だからといってあなた様が亡ぶ可能性がなくなったわけではありません」
「……」
「むしろ、あなた様はよりおそろしい可能性へと、一歩近づいた。だから、私はあなた様の――侍女として、この言葉を言い続けます。――『どうか、油断なさらぬように』」
本当は『侍女として』というところに別の言葉を入れたかった。
しかしアイシャは、その言葉をとっさに言えなかった。
「お前は優しいな、アイシャ」
そんなアイシャに内心に気づいたのか気づいていないのか。
ハーシムはアイシャの腕を引っ張って、自分の方に引き寄せた。
そのままアイシャを横に屈ませると、その頭を優しく抱き寄せて膝の上に寝かせる。
「別に、油断はしていない。それに、おれは望んでこの道に踏み入った」
ハーシムは少し力を抜いたように、息をつく。
「最初は少し、悩んでいた。だが、実際にメレアに会ってみて、あいつの夢を聞いて、決心がついた。あいつはおれが追えなかった理想を、馬鹿みたいにまっすぐに進もうとしている。だから、おれも少し、手伝ってみたくなった」
「……」
アイシャはハーシムに抱き寄せられたまま、眼をつむる。
目を開けていると、涙が溢れてしまいそうだった。
「メレアが英霊たちの力を集約して、すべての〈碑文〉を否定することを望む。――でも、もしそれが叶わなかったときも、おれはやつらに何かを遺してやりたい。それは決してレイラスの遺言に縛られているからではない。おれはおれの意志で、その道を進む覚悟をしている」
「あなた様はそれで、幸せになれるのでしょうか」
「――なれるとも」
ようやくハーシムはアイシャを放して、今度は深く玉座に座りながら謁見の間の天井を見上げた。
輝かしい雲庭に飛ぶ天使が、優しく笑いかけているように見える。
「だから今は、できるかぎりでレイラスの〈碑文〉が記した未来に備えよう」
いずれ〈狂王〉と呼ばれる男は言う。
「――ハハ、もしおれがレイラスの碑文のとおりの存在になったら、セリアスは――ブラッドはなんと言うだろうか」
「……」
ハーシムは無邪気な子どものように笑っていた。
「まあいい。今はまだそのときではないんだ。深く考えるのはよそう」
そしてハーシムの顔に、いつもの王然とした表情が戻る。
「アイシャ、念のため訊いておくが、星樹城のレイラスの部屋の碑文は消したな?」
「――はい。跡形もなく」
「それでいい。まかり間違ってもあれをメレア本人に見せるわけにはいかないからな」
「あの方はきっと、お心を痛めるでしょうね」
「メレアもまた、優しい男だからな」
ハーシムは不思議な関係の中にある友人を思ってほのかに笑った。
その顔はどこか、寂しげにも見えた。