146話 「今は気が立っている」
「リリウム? ――久しぶりだね、元気だった?」
メレアは大きな扉の向こうから現れた少女に、笑みでもって声をかけた。
久々に見た彼女は、少し疲れているようにも見えたが、その気の強そうなつり目には、以前と変わらぬ紅い輝きが宿っている。
「……」
対するリリウムは、謁見の間へ足を踏み入れると、ずかずかと足早にメレアのもとへ歩み出した。
その様子を見たメレアは、なんとなく、自分が怒られることを予測する。
「第一声は、それじゃない」
ついにメレアの目の前にまで歩み寄ったリリウムが、ずいと顔を近づけてメレアに言った。
整った眉がいっそう鋭くつり上がっている。
「……た、ただいま?」
メレアは怯えた子犬のようにぷるぷると震えながら、わずかに首をかしげて言う。
ツ、と顔の横を汗が流れた。
「――おかえり、メレア」
合っていて良かった。
メレアはリリウムの答えに心底からホっとしながら、息をつく。
「それにしても、何かあったの? これから星樹城の方に戻ろうかと思ってたんだけど」
「ちょっとね」
リリウムはあたりをきょろきょろと見渡しながら、適当に答える。
「まあ座れ、〈アウスバルト〉」
と、今の間に近場の椅子を引き寄せていたハーシムが、メレアの隣にその椅子をおいてリリウムをうながした。
「ありがと、〈クード〉」
「今おれのことをそう呼ぶのはお前とセリアスくらいだな」
「あんたが急に〈アウスバルト〉なんて呼ぶから、それに合わせたのよ」
「親切なことだ」
ハーシムが苦笑する。
「あれ? 二人とも知り合いだっけ?」
「最初は気づかなかったけどね。――〈アイオース〉で少しの間だけ一緒に学んでいたことがあるのよ」
「えっ? そうなの?」
「そうだ。こいつはかなり優秀だったぞ。まあ、お互いに訳ありだったうえにアイオース在籍期間があまり被っていなかったから、さほど干渉はしなかったがな」
ハーシムが肩をすくめると、リリウムは不機嫌そうに頬を膨らませた。
「それが今じゃ王と魔王よ。人生わからないものね」
「まったくだ」
どうやら二人はメレアがいない間に旧知の仲を思い出したらしい。
意外な繋がりではあれど、そういうものが今になって判明するのは、さほど悪い感じでもないとメレアは思った。
「それで、何をしに来たんだ? メレアに会うのが我慢できなくなって、こっちに来てしまったのか?」
「あんたもメレア並に軽口が下手なんだからそういうこと言わなくていいわよ。用があってきたの」
リリウムは眉間を摘まみながら言ったあと、メレアへ紅い瞳を向けた。
「あんたたち、レミューゼの東門から帰ってきたのよね?」
「そうだよ? サルマーンたちから聞かなかった?」
「いや、聞いたわ」
「……ん?」
いまいち話がつかめない。
メレアはまた首をかしげた。
「……サーヴィスたちを見なかった?」
「サーヴィス? 見てないなぁ」
メレアはクリーム色の髪を持った少年の顔を思い出す。
〈術王〉の号を持つ少年。
自分をよく慕ってくれる三人の子どもたちの中でも、特に元気な少年だ。
「ララとカルトを連れて、いくらか前に東門に向かったらしいのよ。たぶん、あんたを迎えにだと思うんだけど」
「……」
「カルトの精霊があんたの気配を教えたんだと思う。カルトの話じゃ、あんた精霊にも好かれてるみたいだから」
そのころにはすでに、メレアの顔が険しいものに変化していた。
「カルトがいて、あんたにたどり着かなかったなんてことはありえない。あたしも精霊についてはくわしく知らないけど、それが実在して、カルトに不思議な能力のいくつかを与えてることは事実だから」
あの三人の子どもは、リンドホルム霊山に集まった最初の二十二人の魔王である。
長い旅を経る中で、彼ら彼女らの力の片鱗は何度も見てきた。
「ハーシム、今日はここまでだ。用ができた」
「――わかった」
ふと、メレアが険しい表情のまま立ち上がった。
ハーシムを一瞥もせず、そのまま謁見の間の扉へと歩いていく。
その歩幅は普段歩くときよりずっと広い。
「リリウム、俺は東門へ行くけど、どうする」
「もちろんあたしも行くわ。ほかのバカは疲れてそうだったから、あたしが来たのよ」
「そうか、ありがとう。でも、くれぐれも俺の傍を離れないように」
メレアはそう言って、謁見の間の扉を押した。
軽く押すような動作ながら、その軽い動きに見合わぬ勢いで扉が開く。
外に立っていた扉番のレミューゼ兵が、驚いた表情をしていた。
「メレア!」
すると、謁見の間から出る間際にハーシムの声が飛ぶ。
「――何かあったらすぐに言え」
「ああ」
短い返答を最後に、メレアとリリウムは扉の向こうへ姿を消す。
あとに残ったハーシムは、少し心配そうな顔で、外庭の星樹を眺めていた。
◆◆◆
「サーヴィスたち以外は全員そろってるか?」
メレアは謁見の間を出たあと、足早にレミューゼ王城の大広間を歩き抜けながら言った。
「ええ、今日メレアが帰って来るって知らせておいたから、全員城の方に――いや、金の亡者がいなかったわね」
「シャウか」
後ろをほとんど駆けるような体勢で追うリリウムが、少し息を弾ませながら返す。
「仮に何かあったとしても、シャウなら何かしらの『痕』を残す。タダでやられることはない」
「タダって言葉がものすごく嫌いだしね」
王城の正門を抜け、日の光が燦々と降り注ぐ表の路地へ出た。
レミューゼの環状街路は、昼時であるためかいっそう人で賑わっている。
あたりから香ばしい食べ物の匂いも漂ってきていた。
「東門だな」
メレアは王城の入口から周囲を見渡したあと、東へつま先を向ける。
「リリウム、手を」
「え?」
そうしてまた歩き出そうとしたところで、メレアがリリウムに手を伸ばした。
手を差し出された意味を、リリウムは一瞬深読みして、しかしすぐに、冷静な答えを導き出す。
「そうね。こんな人ごみの中でなんかされたら、あたしじゃ対応しきれないかもしれないものね」
「リリウムにまでなんかあったら、俺はまともでいられなくなる」
「それは大きな問題だわ。ただでさえまともじゃないあんたが激昂するのは、いろいろな観点から避けたいからね」
リリウムはメレアの手を取りながら言う。
「じゃ、行きましょ。ちなみに、まだ何かがあったって決まったわけじゃないからね。あんまり考え込んじゃだめよ」
「わかってる。――ありがとう」
平静を保っているように見えても、その実メレアの胸中が穏やかでないことはリリウムの目にあきらかだった。
だからリリウムは、焦る弟を諭すように、優しく言葉を掛ける。
それが彼の心にとって安寧の足しになるとは思えなかったが、そうせずにはいられなかった。
それから二人はレミューゼの環状街路を東へ進みはじめる。
メレアが獣染みた五感で違和を感じ取ったのは、それから一分も経たないうちだった。
◆◆◆
――っ。
左手でリリウムの手を引きながら歩くこと数十秒。
メレアは自分の左側に人を置かないよう意識しながら街路を歩いていた。
その途中。
右側面から言葉では言い表しづらい圧力――殺気のようなものを感じる。
だがそれは、おそろしく微細な殺気だった。
「っ!」
直後、メレアは一瞬、視界を『もがれた』気がした。
目をつむったときのように、パっと視界が暗転したような――。
――いや、確実に持ってかれた。
それは常人では感知しえない違和。
しかしメレアには確信があった。
自分の身体に『術式』が掛けられる感覚に、メレアはおそろしく聡い。
もちろんその感覚の鋭敏さは、英霊たちの鍛練による賜物だ。
「リリウム、このまま同じ速度で歩くよ」
「ん? 別に構わないけど……」
「あと、俺の左側から離れないように。できればもっと近づいて」
「えっ?」
メレアは手を引っ張ってリリウムの身体を引き寄せる。
驚く彼女に内心で謝りながら、その勢いを使って自分の左側にぴったりとくっつかせた。
「あっ、ちょっ、あ、あう……」
「少しの辛抱だ」
「べ、別にいいけど……でもやっぱり近すぎる気が――」
「――来た」
顔を真っ赤にしてもじもじしているリリウムをよそに、メレアが確信のこもった声をあげる。
メレアは右手をぶらんと自由にさせたまま、一定の歩調を保って歩き続けた。
「――」
リリウムは気づかなかった。
斜め前からやってきた赤髪の少年が、メレアの右側面をすれ違う瞬間に、楽しげな笑みを浮かべたことに。
そして――
メレアの右手が、誰にも感知しえないほどの速度で、その少年の懐に伸びていたことに。
何事もなかったかのようにすれ違った二人。
しかし、すれ違ってからお互いに数歩進んだあと――赤髪の少年の表情が不機嫌そうに歪む。
そしてその顔は、
「今は気が立ってる。返答によっては相応の覚悟をしてもらおう」
振り向いたメレアの赤い眼光に射抜かれて、今度は好戦的に歪んだ。
「――答えろ、何をしに来た」
少年の額から噴き出す大粒の汗とその好戦的な表情が、そのときの彼の相反する胸中を如実に現していた。