140話 「黒い鈴と聖ベルセウスの黒龍」
「〈アーカム団長〉! 地竜がいますよッ!」
「うるせえ! 見ればわかる!」
黒鈴旅団団長、〈アーカム=シュトラウス〉は、遠くに見える獲物を見て、正直に戸惑った。
〈地竜〉。地上生物界の覇王。
実物を見るのは初めてだが、レミューゼに潜伏していたときに、ムーゼッグが地竜を捕獲しているのではないかという噂を耳にしたことがある。
――マジで〈魔王〉がいやがったのか。
加えて、レミューゼが引き入れたという魔王たちが、同じく地竜を引きつれていたという噂も最近になって聞いた。
アーカムは魔王の集団がレミューゼにやってきたという噂そのものを、まださほど信用していない。
レミューゼに潜伏していた時期がちょうどその少し前だったので、実際に魔王たちの姿を見たことがなかったのだ。
「だが、あいつらからは金の匂いがぷんぷんとしやがる」
長年の勘。あの十人ほどの集団が背負っている荷物からは、金の匂いがする。
「あ! 団長! 地竜が――」
黒馬の蹄の音にまぎれて、部下の声が聞こえたときには、アーカムもその異変に気づいていた。
――あ? なんで地竜がそっぽ向いてんだよ?
それどころか、今、まるでこちらを意に介していないような素振りで、地竜が駆けだした。
向かう先はこちらではない。真逆の方向だ。
「逃げ出したんでしょうか!」
――んなわけ……
ないだろうとも思うが、かといってこの地竜の離脱をうまく説明できない。
――いや……、好機だ。
黒馬の軍勢に気圧されたのかもしれない。地竜というのも存外普通の生き物だったということだ。
そのあたりで、チリン、と、腰の帯につけた黒鉄の鈴が耳を打った。
――今日は嫌に響くな。
〈黒鈴旅団〉の名の由来は、その腰帯につけた黒い鈴にあった。
この鈴の音がよく聞こえるときは、何か良くないことが起こる。
当初は特に感慨もなかったが、あるいくつかの出来事を経てお守りのごとくつけるようになった。
しかしアーカムはこのジンクスを、自身であまり好んでいない。
――好んじゃいねえが、捨てるに捨てられねえんだ。
鈴に助けられたことがあるだけに、余計重い。呪縛のようだ。
そんな内心の逡巡があって、とっさにその鈴の音に従おうかどうかと迷っていたら、いつの間にか獲物の集団に近づいてしまっていた。
――いや、今日こそこの鈴を捨てる。
そう思いながら、アーカムは前を見据えた。
部下たちが自分を慕ってつけている同じ黒鉄の鈴の音までもが、今日は嫌にうるさかった。
◆◆◆
――綺麗な鈴の音だ。
メレアは視界に百体の黒馬を捉えながら、耳をなでる鈴の音に心地よさを覚えていた。
一方で、メレアの身体はすでに戦闘態勢に入っている。
――ヴァージリアからレミューゼに戻ってくるまでで、ずいぶんと『深められた』。
闘争なき日常にあっても、決して闘争のことを忘れていたわけではない。
これまではさほどゆっくりと自分が継いできた術式について考えていられなかった。
ムーゼッグとの戦争。レミューゼにやってきてからの新体制への奔走。必要な情報の学習。
術式についてもリリウムやほかの魔王たちと協力していくらか理解を深められたが、周りにたくさんのやれることがあるという状態は、メレアにとって気の休まらない状態でもあった。
――不器用な俺には、ちょうど良い小休止だった。
ヴァージリアからの帰りの道中では、やれることが限られていた。だからメレアは、英霊たちから学んだ術式の復習と自分なりの研究に集中した。
――知れば知るほど、みんなの能力の高さに心を折られそうになるよ。
メレアは苦笑を浮かべながら彼らの姿を思い出す。
いつもふざけてちょっかいばかり仕掛けてきた〈風神〉。
術式の修行中はとても厳しかったけれど、術式を会得したときに誰よりも嬉しそうに笑った〈雷神〉。
〈土神〉や〈炎神〉の威風堂々とした姿も、思い出されてくる。
「でも俺だって、負けっぱなしは嫌だ」
英霊たちと、勝負をしたことがある。
いたってシンプルな勝負だ。
――英霊たちの術式を、すべて使いこなせるようになれば俺の勝ち。
使いこなせなければ彼らの勝ち。
本当は彼らが生きているうちにその勝負の判定をする予定だったが、彼らは思いのほか早くに行ってしまった。
だから、その時点ではメレアの負けだったのかもしれない。
けれど――
――手始めに、まずはヴァン、あなたからだ。
メレアはまだそのリベンジをするつもりでいる。
――〈魂の天海〉で見ていればいい。いずれ俺がそっちに行ったときには、目の前で勝ち誇ってやるからな。
芸術都市で魔王たちは成長した。
特に、アイズやエルマは一皮むけたところがある。
だが、何も成長したのは彼女たちだけではない。
メレアもまた、のびしろという点ではおそろしく成長の余地が残されていた。
「〈黒風〉――」
メレアは現時点ですでに頂点にいる。
闘争を生業とする魔王たちにとっては、メレアこそが目指す高みだった。
だから彼らには、メレアの『さらに上の空間』が見えない。
「噛み潰せ――」
ゆえにメレアは、周りからの助言を受けつつも、最終的には自らの手でその高みへと昇らなければならなかった。
――でも、こういうのは嫌いじゃない。
自分がまだ高くに昇れるという実感が得られるというのは、幸せなことだ。
メレアたちに黒鈴旅団が迫る。
その間際。
メレアが天に掲げた手の上に――
「〈聖ベルセウスの黒龍〉」
黒い風で象られた『龍』が、姿を現した。
それはかつて、〈風神〉と呼ばれた男が、とある戦で一国を滅ぼしたときに使った術式と瓜二つだった。
◆◆◆
アーカム=シュトラウスにとって、それからの五秒はおそろしく長く感じられた。
黒い龍の咢が目前に迫るまでに、三度過去を振り返った。
――俺は……
アーカムが乗っていた馬が、唐突な黒龍の出現に驚いてブレーキをかける。
アーカムの身体は前につんのめって、一回転しながら地面に落ちた。
痛みを感じる間もなく顔をあげると、黒い暴風が顔を打つ。――死を運ぶ風だ。
――俺は……ここで死ぬ。
本能が答えを出すと同時、視界が真っ黒に染まった。
身体から力が抜ける。
本能が生きることを諦めた。
「っ」
目を瞑る。
――が、痛みが来ない。
不審に思ったアーカムは、倒れかけた身体をありったけの意志の力で支えてとっさに上を見上げた。
「なん、で……」
黒龍が蛇のような体躯をくねらせ、天へと昇っていた。
おそらく自分の目と鼻の先で、飛翔の軌道を変えたのだ。
やがてその黒龍は雲を貫き、陽光の中に消えた。
「…………」
アーカムはなぜ自分が生きているのかすぐには理解できなかった。
「強欲が身を滅ぼしたな」
すると、今度は横から声が聞こえた。
条件反射的な動きで視線を滑らせると、いつの間にか自分の首元に剣を突きつけている女がいる。
黒い髪をなびかせる、美しい女だ。
「これ以降、無鉄砲な強奪は行わないことだ」
しかし、その佇まいはただの女とはかけ離れていた。――『自分たちとは違って』、戦いを生業にしている者の居住まい。それをアーカムは一瞬で感じ取った。
「無鉄砲……か」
たしかに黒い鈴の呪縛から逃れようと、近頃は無鉄砲な盗みが増えていたかもしれない。
「相手の力量を計れ。そのやり方では早死にするぞ。特に戦場に足を踏み入れるときには」
「戦場に足を踏み入れる予定は生憎ないんでな」
「そうか。やはり貴様らは『盗み』しか行わないんだな」
「……」
黒鈴旅団は殺しを行わない。
ほかの賊団に舐められぬようにと、それなりに荒々しさを演出はすれど、実際に命を取ることだけはしなかった。
「所詮は悪事だ。いずれにしても誇るようなことじゃない」
「そのとおりだ。だがほかの品性の欠片もないやつらと比べれば幾分マシだ」
ふと気づけば、自分の後ろで同じように馬から放り出されていた団員たちが、この女の仲間と思しき者たちに首根っこをつかまれていた。
明らかな人数差がある。
だが団員たちは動けずにいた。
――あいつか……。
一人、あきらかに存在感のレベルが違う男がいる。
白い髪を持った超俗的な容姿の男。
――さっきの黒い龍の術式を撃ったのもあいつだ。
その白髪の男は、地面に転げてうめいている団員たちのど真ん中に仁王立ちしていた。
ただ立っているだけ。
だのに団員たちは一歩も動けない。
動けない気持ちが、アーカムにもよくわかった。
「たとえ俺たちが今一斉に動いても、あいつはそれを一人で鎮圧できるんだろうな」
「意外だな。それを見抜く程度の目はあるのか。――それがわかってて、なぜ私たちを獲物にしたんだ」
「黒い鈴のせいだ」
「……?」
くわしく言うのは憚られる。
黒い鈴の呪縛から逃れようと、あえて無鉄砲な盗みを行おうとしていたなんて、口が裂けても言えない。なけなしのプライドがある。
「まあいい。ともかく貴様らは私たちが捕縛する。レミューゼの王が会いたがっているだろうからな」
「レミューゼの王が変わったのも本当らしいな」
「どういう意味だ?」
「近頃、レミューゼの警備のレベルが異様に上がった。それに、前の愚鈍な王なら、俺たちを捕まえようともしなかっただろう。なぜなら俺たちは、以前の王の『お得意さん』だったからな。招きこそすれど、捕縛なんてしない」
「……つくづく腐っていたな、あの王は。――まあ、実際のところ、捕縛に関しては私たちの独断だが、王が変わったことは事実だ」
そこまでを聞いて、アーカムは身体から力を抜いた。
「もういい、俺たちの負けだ。好きにしろ。俺たちにはもう、お前らに反抗する意志がない」
アーカムはどっと後ろに倒れ込んで、空を見上げた。
「潮時だ。黒い鈴は今日で捨てる。――くそ、こんなことならもっと早くに捨てておくんだった」
アーカムは言いながら、ふと満足げな表情を浮かべた。