132話 「悪徳の魔王と、英霊の子」
「馬鹿な、ありえねえだろ」
サルマーンは二度、自分の目元をこすった。
しかしいくら目をこすっても、視界の奥に映っているかの英雄の姿が消えることはなかった。
「いや、まさか――」
やがて、サルマーンは少しの冷静さを取り戻し、いくつかの推測を脳裏に浮かべる。
「〈死神〉の死霊術式か?」
サルマーンは自分が読み漁ってきた書物の中から、またも一つの仮説を作り出していた。
◆◆◆
「お前――」
メレアは身体に〈雷神の白雷〉と〈風神の六翼〉、さらに〈土神の三尾〉を装填させた状態で、眼下を凝視していた。
わずかに調整が可能になった〈暴神〉の精神術で、二つ目の門――〈王門〉までを開け、枠の広がった術式領域をフルに活用し、ミハイを打ち据えた直後のことである。
「なんだ、それは」
実際のところ、ミハイを打ち据えるにもある程度の苦労はした。
というのも、魔眼を使いはじめてからのミハイは強気な物言いに違わず、ずいぶんと動きが良かったのだ。
身体の速力が増したというよりは、妙に読みが鋭くなったという感じだった。そのあたりに魔眼の能力が関係しているのかもしれない。
だが、最終的には圧倒的に地力で勝るメレアが、ミハイを三尾で叩き伏せた。
そうして、とどめを刺さんとメレアがミハイに近づこうとしたところで、メレアは眼下のあの男が妙な動きをしたことに気づく。
「――ケハッ」
メレアのドスの効いた声を受けて、眼下の銀髪の男は不気味に笑った。
ネクロアと呼ばれたその男の隣には、ぼやけた輪郭を持つ男が一人、悠然として立っている。
「妙な身体。妙な魂。ときたま身体に別存在の〈因子〉を宿している人間はいるが、これほどまでに多数の因子を保持している人間は初めてだ。なおかつその因子たちをたった一つの魂で見事に統合させているとなれば、なおさら」
ネクロアという男は異様に長い前髪を手ですくい上げて、耳に掛けながら声をあげた。
「そしてまた、その一つ一つの因子がとても力強いのも興味深い。身体の内で巨星のように輝くさまは、まるでかつての英雄の魂のようだ」
ネクロアはその瞳を煌々と輝かせていた。
「何を言っている」
メレアはそこで、やや苛立った様子でネクロアに言葉を返す。
「わかっているでしょう? なんとなく見当はついているのでしょう? ほら、きっとアナタはワタシの隣に立つこの男を見たことがある」
ある。
だからメレアは腹の底に煮えるものを感じている。
「アナタの身体の中にあった〈雷神〉の因子から、ワタシがこの世に再び〈雷神〉セレスター=バルカを生み出しました。――アハハ、ワタシはやっと最高の供物に出会った」
メレアはこのとき、腹の底で煮える怒りの隙間で、悪寒を感じていた。
噛み合わないネクロアとの会話に、得も言われぬ異常性を察知する。
「ああ! もっと! もっとアナタの身体の中にあるほかの因子に触れたい! アナタはそれ自体が宝物だ!」
哄笑を交えて放たれた言葉に、メレアは端的な嫌悪を抱いた。
「お前はなんだ。魔王か」
「――ハハ、申し遅れました」
そしてついに、高揚した様子のまま、ネクロアがメレアの問いに答えた。
不気味な男の正体が、露わになる。
「ワタシの名は〈ネクロア=ベルゼルート〉。そう、アナタの言うとおり〈魔王〉だ。しかしたぶん、アナタ方の言う魔王とは、少し趣の違った魔王でもある」
「趣の違った魔王?」
メレアは訝しげな視線をネクロアに向け、問い返す。
「ワタシは――」
その視線を受けて、ネクロアは楽しげに笑った。
「〈悪徳の魔王〉と呼ばれた、最初の魔王の末裔ですから」
その日、メレアはまた新たな魔王に出会う。
メレアたちともミハイとも違う、もう一つの魔王。
過去から続いてきた因果が、また一つ、混迷の時代に発芽する。
◆◆◆
「悪徳の――」
メレアにとってそれは机上の存在だった。あくまで知識として、言葉としてしか知らない存在。
フランダーたちが英雄と呼ばれる根本の要因となった、最古の魔王。
「そう、ワタシの先祖は、アナタの身体に宿る英雄たちに滅ぼされた、『人類の敵』」
強大な力を持って世に君臨し、その力でもって無辜の民に危害を加えた、悪徳の化身。
「実際、その点にワタシは抗議などしません。その通りでしたから」
ネクロアは楽しげに笑いを浮かべたまま続けた。
「そしてワタシも、その先祖の血を色濃く受け継いでいます」
あらかじめ自分の先祖が悪徳の化身であったことを認めつつ、ネクロアは「自分もそうだ」と宣言した。そこにはメレアの思考を弄ぼうとするような、狡猾な知性の片鱗が見えた。
「何が目的だ」
メレアの中にいくつもの予想が生まれては消え、残骸が脳裏に漂う。
「それをここで言ってしまってはおもしろくない。きっとアナタとワタシは、この先で再び出会う。それに――」
ネクロアはそこでちらと視線を動かした。
その視線の先には、ふらつきながらもなんとか身体を起こしたミハイの姿があった。
「今はまだ、邪魔が多い」
ネクロアは再びメレアへ視線を戻した。
「だから今回は、ここまでです。本当はアナタからもっと多くの英霊と魔王の因子を読み取っておきたかったのですが、そう簡単にはいかなそうですしね」
ネクロアはメレアの身体から黒い煙のようなものが噴き出はじめたのを見て、ほのかな笑みを浮かべながら言った。
「それに、ムーゼッグの王子サマの方も気になっていますから。彼もまたずいぶんと、多くの因子をお持ちのようで」
言いながら、ネクロアは観衆の中へ一歩退く。
隣に立っていた〈雷神〉の幻影もまた、ネクロアに続いて観衆の中へ紛れそうになった。
「待て!」
メレアはその幻影に声を投げかける。立ち上がったミハイを無視して、二人を追いそうになった。
しかし、
「ッ、ネクロアァァァ!!」
メレアの動き出しを、ミハイの怒号が遮っていた。
「貴様ッ、初めから殿下に仇名す気で!!」
ミハイは傷だらけになった身体にもお構いなしという体で、怒号と同時に黒剣を召喚していた。
「アハハッ、あなたの『殿下』はすべてを見越したうえでワタシを使ったように思いますけどね。一応それなりに仕事はしてあげたじゃないですか」
すると、観衆の中からネクロアの声だけが返ってくる。
「それとこれとは話が別だ! 貴様が殿下に仇名すと言うなら僕がここでッ!」
直後、ミハイが頭上に召喚した黒い剣が観衆目がけて飛翔した。
狙いなど大してつけた様子もなく、このやり取りを『劇』としてしか見ていない観客たちもろごと凶刃にかけるような一撃である。
「アナタもずいぶん激情家になりましたね。少し前は大人しい貴族の坊ちゃんという感じだったのに。――まあいいでしょう。せっかくですから、そこにいる〈英霊の子〉への餞別に、良いものを見せてあげます」
と、今にも黒剣が観衆の群に飛びこもうとしたところで、それは何かに弾かれた。
甲高い音とともに力なく地面に落ちた黒剣は、まもなく『霧散』する。
メレアはその消え方に、なんとなく見覚えがあった。
「なにが――」
ミハイはなぜ自分の黒剣が弾かれたのか理解できないとばかりに目を丸くして、それからさらに三本の黒剣を召喚して撃ち放った。
メレアがとある確信を抱いたのは、そのあとのことだった。
「っ」
観衆目がけて飛んだ三本の黒剣。
それに対し、観衆の群の中から――
同じく三本の『白剣』が飛んできた。
造形は同じ。
メレアの〈術神の魔眼〉に映った構成術式は黒剣と瓜二つ。
まるで、鏡写しにしたように『反転』されて――
「馬鹿なっ!」
ミハイの黒剣はその白剣と寸分たがわず刃先から衝突し、またも霧散した。
メレアは誰よりも、その光景を多く見たことがある。
自分にはミハイの秘術を反転させることなどできないが、『彼』にならそれができてしまうかもしれない。
「――」
〈雷神〉の幻影を見たあとのメレアには、もはやある一つの答えしか思い浮かばなかった。
ミハイの悲鳴じみた声があがった直後、メレアは衝動的に叫んでいた。
◆◆◆
「ッ、フランダー!!」
◆◆◆
答えは返ってこない。
メレアの声は観衆のどよめきの中に紛れて消えた。
「メレアッ! 全員揃ったぞ!!」
と、メレアの耳を今度はエルマの声が打った。
凛とした声でハッと我に返ったメレアは、西門前の広場を振り返って、仲間たちが揃っている姿を捉える。
「メレア! 北から妙な連中がなだれ込んできてる! 早めにずらかるぞ!」
続けてサルマーンの声が聞こえた。
メレアはその声を受けて、とっさに街の北側を見る。
黒光りした巨大な砲弾が、空を飛んでいるのが視界に映った。
と、
「ッ!」
メレアはまた別の方角から殺気を感じて、すぐにその方角へ視線を移した。
観衆に紛れていた数人の黒衣の男たちが、自分目がけて炎弾の術式を放とうとしているのが見えた。
「まだいたのか!」
ムーゼッグの術師だ。
メレアは条件反射のように反転術式を組み上げ、躊躇いなく撃ち放つ。
「くそッ!! 結局僕はッ!」
その間に近場にいたミハイが悪態をついて屋根から飛び降りた。
顔には悔しさが滲んでいるが、退き時を見極める冷静さはかろうじて保っているようだった。
「逃がすか――」
メレアは反転術式を放ったあと、すぐに三尾でもってミハイを追撃する。
だが、
「メレア、くん! 上!」
次いでやってきたアイズの声で、三尾の動きが止まった。
アイズの声にしたがって斜め上を見上げると、ひときわ巨大なあの黒い砲弾が、飛んできていた。
「ッ!」
眼下の観衆たちから悲鳴があがる。
放っておけば彼らは潰れるだろう。
メレアはその瞬間、
「打て! 〈天王の剛槌〉!!」
天に手を掲げ、その先に空気の塊たる巨槌を召喚し、砲弾目がけて振るっていた。
躊躇いなく眼下の観衆を救いにいったこのときのメレアの選択が、結果的に魔王たちの『名の力』を増幅させることになる。
最初で最後の大がかりな劇の中で、いくつもの英雄の御業を使って観衆を救った魔王の姿は、芸術都市にやってきていた有力者たちの目に、まさしく『動く芸術』のごとく映っていた。