130話 「麗刀と黒剣」
「くっ!!」
心臓に悪い音が頭上で鳴った。
ミハイは思考を飛ばした反射的な動作でその場に伏せっていた。
――近接武器にあるまじき射程だ!
頭のすれすれを黒光の斬撃が通過する。
思わず自分の首が繋がっていることを手で確認した。
ミハイはすぐにメレアの方へ視線を移す。
メレアに覆いかぶさっていた霊体骸骨は、大鎌の通った軌道線に沿って見事にばっさりと切り落とされていた。
――こうも簡単に……。
ミハイは眼下の不気味な男――ネクロアが使う〈死霊術式〉の性質を知っている。
あの術式によって生成された霊体骸骨は、ちょっとやそっとのことでは消滅しない。
触れることこそできるものの、物理的な攻撃にはめっぽう強い。
だが、今の黒い鎌に切り裂かれた霊体骸骨は、漏れなくすべて霧散していた。存在の根本から切り裂かれた、という感じだ。
――対霊体兵装……、いや、それだけなはずがない。
と、ミハイが得体の知れない黒い鎌に畏怖を抱いていると、霧散した霊体骸骨の隙間からメレアの姿態がのぞいた。
直後、振り抜かれた状態で残っていた黒い鎌がふっと消え、今度はその場に一陣の風が吹く。
「〈風神の六翼〉」
次の瞬間、メレアの背中から爆発するように噴き出た六枚の風の翼が、周囲に残っていた霊体骸骨のすべてを吹き飛ばした。
ミハイは露わになったメレアを見て、一瞬ひるむ。
――……くそ。
メレアの髪は、まだ白いままだった。
ミハイにとってそれは、悪い知らせでしかない。
それはメレアがまだ追い詰められていないことの証明でもあった。
◆◆◆
――死霊術式か。
メレアは眼下でいまだに不敵な笑みを崩さない長身の男を見ながら、心の内につぶやいた。
今の一連の術式を実際に受けて、その性質におおよその見当はついている。
――とはいえ、まだどうにもきな臭さが拭えないな。
秘術であることを考慮すると、ただ霊体系の骸骨を使役するだけというのはどうにも安すぎる。
使われている術式の理論がやたらに古風なことも含め、まだあの死霊術師に対して不気味さが拭いきれなかった。
「――まあいい」
しかし、メレアは一息をついたあと、胸中の不安感をすべて振り払う。
「いずれにしても、俺はお前らを俺の後ろに通すわけにはいかない」
メレアは一度眼下から視線を切って、同じく屋根上にいるミハイに再び言葉を投げた。
「……貴様一人に何ができる」
「少なくとも、ここでお前を止めることはできる」
眼下の銀髪の男にもしっかりと意識を向けたままで、メレアはミハイの忌々しげな言葉に答えた。
「減らず口だ。本当に癇に障る」
「お互い様だ」
ミハイと銀長髪の男の両方を観察しながら、メレアはふと、ヴァージリアの北側が妙に騒がしいことに気づいた。
今立っている場所は西側の国門の真ん前である。ここから海に面する北側まで距離があるが、それでもなお確信を持って騒がしいと言えるほどの異変。
――砲撃の音。
芸術都市の一角が揺れた。
ちらと左奥に視線を向ける。
〈天魔〉アイズには及ばないものの、十分に常人離れしたメレアの視覚は、ずっと向こうの方で黒煙が立ち昇っているのを捉えた。
「――まさか」
メレアは眉をしかめた。
――北側の海から芸術都市を制圧するつもりか。
ムーゼッグが海賊都市と手を組んだという情報を得たばかりだ。
海に面した北側から砲撃の音が聞こえてきたことを踏まえると、その海賊たちの強襲を予感せずにはいられない。
だが、メレアは顔をしかめたままミハイを見て、自分の想像とはやや状況が異なっていることを知った。
「馬鹿な……、あれほど大人しくしていろと言ったろうに!」
ミハイもまた、驚きと不機嫌が混ぜ合わさった表情を浮かべて、悪態をついていたのだ。
「だから僕は嫌だったんだ……! あんな品の無い連中はムーゼッグに――いや、殿下にふさわしくないと!」
ミハイの悪態は、メレアにいくつかの事実を匂わせた。
しかしメレアは、それらの予感をこの場で精査することもなく、まずは目の前のミハイを退けるべく、隙を窺う。
「お互いなにやら大変だな。しかしまあ、魔王にとってお前らの慌てふためく姿は悪いものじゃない。だから、ついでだ――このままお前も沈んでくれ」
そして〈魔神〉が獲物を狩るべく動いた。
合掌による乾いた音が、また一つヴァージリアに木霊する。
◆◆◆
メレアの動きの軌道は至極単純なものだった。
まっすぐ獲物に向かって、懐に飛び込む。
ともすればカウンターの餌食になるような単調な軌道だが、その動きは常人に捉えきれぬほどに高速だった。
「っ!」
ミハイが傍に人の気配を感じたとき、すでにメレアはその懐に潜り込んで脇腹をえぐり込むような拳を打ち上げていた。
〈光魔〉の弟、〈術機使い〉アルター=ミナイラスを相手にしたときとは違い、〈雷神の白雷〉と〈風神の六翼〉を全開にしたメレアの身体は、それ自体が自然の猛威の化身であるかのように、凄烈な圧力を湛えている。
「くっ!」
対し、ミハイの反射的な回避も同じく常人離れして素早かったが、それでもなおその攻撃を完璧に避けるには至らなかった。
「ちっ」
メレアの拳はミハイの腹部すれすれをかすった。
かすった部分の服がまるで燃え散ったかのように奇妙な破れ方をする。
「ネクロアッ!!」
メレアの攻撃を天性の戦闘勘で避けたミハイは、二歩ほど後ろにステップを踏みながら再び例の男の名を呼んだ。
メレアもその声に反応し、眼下の銀髪の男を一瞥する。
「ネクロア、貴様!」
しかしあの銀髪の男は、長い前髪の間からわずかに見える顔に気味の悪い笑みを浮かべたまま、微動だにしていなかった。
ミハイの命令に対し、従う素振りもない。
楽しそうに、興味深そうに、ただメレアを見ていた。
――万全の協同体勢ってわけじゃないようだな。
メレアは内心に思う。
――やつが動かないというなら、先にセリアスの右腕を潰す。
身体にまとわりつくような不気味な視線はこの際無視し、メレアは再びミハイへ意識を向けた。
位置関係を確認。
距離にして三歩。
――届く。
「術式展開」
直後、メレアの身体からふっと白雷が消え去った。
それと同時に、メレアが左腰のあたりに手を添える。
そこに見えない鞘があって、今にも刀を居合抜かんとするような体勢だった。
「〈水神の麗刀〉」
そして次の瞬間。
この世で最も美しい刀剣と呼ばれた青い水の刀が、芸術都市の街並みに閃いた。
◆◆◆
――使うしかない。
ミハイ=ランジェリークは目の前のメレアを見て、内心に思っていた。
眼下の死霊術師はどうにも使いモノにならない。
一対二ならまだなんとか対応ができた可能性があったが、一対一ではこの〈魔神〉を止められない。
認めたくはないが、やはりこの男は自分よりも高みにいる。
――だから、殿下、手の内を晒すことをお許しください。
ミハイはそこで、右眼をつむった。
――僕はまだ死ぬわけには参りません。
次いで、右手と左手を軽く握る。
――あなた様が覇王となるところを見届けるまでは、僕は這いつくばってでも生き残ります。
そしてミハイは、『二つ』の術式を起動させた。
「――〈剣王の黒剣〉!!」
握り込んだミハイの手の中に、突如として黒い剣が召喚される。
ミハイはその二本の剣を縦に掲げて――振り抜かれてきたメレアの〈麗刀〉を受け止めにかかった。
◆◆◆
甲高い破裂音が鳴った。
メレアが振るった〈水神〉の麗刀は、ミハイの身体を切り裂くには至らなかった。
「……くそ、同じ術式剣でもここまで威力が違うのか」
メレアが切り裂いたのは、ミハイが両手に召喚した二本の黒剣である。
正確には、切り裂いたというよりも術式の圧力で打ち砕いた、という方が近い。
そのことを証明するかのように、ミハイの黒剣は麗刀の一撃を受けて木端微塵に粉砕されていた。
「〈水神〉の一撃を逸らしたのか」
とはいえメレアの方も、驚きを隠せないというように目を丸くしていた。
打ち合いとしてはメレアの圧勝である。
しかし、ほんの一瞬〈水神の麗刀〉を受け止め、そしてそのわずかな隙で見事に斬撃を避けて見せたミハイに、メレアも驚きを抱いた。
「その眼……」
すると、メレアが改めてミハイを見て、ある異変に気づく。
「〈魔眼〉か」
ミハイの右眼だけが、翡翠色に輝いていた。
しかも、その眼の中に複雑な術式紋様が浮かんでいる。
「〈術神の魔眼〉を持つ貴様に隠しても意味はないだろうから答えてやる。――そうだ、僕の右眼は魔眼だ」
ミハイの返答を受け、メレアはまた眉をしかめた。
「ムーゼッグが〈魔王〉から奪った能力か」
「さあな」
メレアは今ほどミハイの両手に召喚された『術式剣』が、普通の術式でないことにはとっくに気づいていた。
ヴァージリアに来てもう何度目かもわからない秘術式。
この時代が良い意味でも悪い意味でも魔王の再台頭を象徴していることを確信する。
「セリアス以外にも魔王の能力を継げるやつがいるとはな」
魔眼に関してはどういう仕組みかメレアにもわからない。
秘術を短期間で習得するにはよほどの才能と努力を要するのだろうと予測がつくが、魔眼を継ぐということに関してはそういったものと趣が異なりそうだ。
「いや、違う。もしかしてお前――」
と、そこでメレアはふとある可能性を思い浮かべた。セリアスを異常な才能の持ち主として例外においたとき、むしろ至極簡単に、そういう可能性に行き着いた。
「――もともと〈魔王〉なのか」
メレアの素朴な疑問は、このとき正鵠を射ていた。