109話 「追走劇のはじまり」
「ん、そういやこの状況はお前が招いたものでもあるんだよな、シーザー」
「あ、う、うん……」
普通の着席体勢とは逆に、背もたれに抱きつくようにして持ってきた椅子に座りこんだサルマーンは、斜め下からシーザーの眼を覗き込んでいた。
顔にはいぶかしげな表情があるが、シーザー自身はそれを仕方のないことだと素直に受忍していた。
むしろ、この状況でまっさきに殴られないだけマシだ。
今回彼らをとある大きな流れに巻き込んだのは、なにを隠そう自分なのだから。
「――半分だ」
「え?」
ふと、サルマーンがシーザーから視線を切って、ため息交じりに言った。
その言葉の意味は、まだ判然としない。
「良い意味と、悪い意味。今回のお前の行動は、俺たちにとって二つの意味を持った」
「良い意味?」
まさか。悪い意味だけだろう。シーザーは内心で首を振った。
彼らは、ほぼ無防備な状態でジュリアナの魔眼にさらされた。
一歩間違えればそのままサイサリスの狂信者たちに心を操られていたかもしれない。
どうしてここにサルマーンがいるのかいまだに理由を想像できないが、その点において自分は彼らに悪いことをした。
それが、『良い意味』だなんて。
「悪い意味はお前の想像通り。その申し訳なさそうな顔に表れているように、お前が俺たちをサイサリスの魔の手の傍に押しやったこと」
「……うん。その点には、弁解のしようもない」
シーザーはうつむいて言う。
「だが――」
するとサルマーンが続けた。
「逆に言えば、俺たちに近道をさせてくれたのもお前ということになる」
「近道……?」
シーザーが首をかしげるのに合わせ、サルマーンはうなずいた。
「そうだ。――俺たちは魔王を救いに来た」
シャウと同じようなことをサルマーンは言った。
しかも、シャウよりずっと真っ直ぐな言葉で。
シーザーは、メレアたちがやってきた最初の夜にシャウとある会話をした。
その中でメレアたちの目的を、やや遠回しに聞いている。
当然最初は馬鹿げていると思ったが、いまさらになってその言葉が徐々に自分の中で現実味を帯びてきたことをシーザーは感じていた。
「だから、あの魅惑の女王、ジュリアナ=ヴェ=ローナの近くに俺たちを押しやってくれたことは、一方で俺たちにとって僥倖でもある。だから、結果論だが、今回はひとまず不問にしてやる」
サルマーンは顔の横で悪感を振り払うように手を振って、シーザーに言った。
しかし、それでいてその目に鋭い眼光を乗せ、もう一度だけシーザーに言い放つ。
「だが、二度目はねえからな。お前がこれから俺たちの敵になるというなら、そのときはそのときだ。――まあ、どこまで悪戯を許すかは俺じゃなくてメレアが決めるんだが。……はあ、あいつのことだから結構許しそうだな」
自分で言いながら、サルマーンはため息をつく。
「シャウの気持ちが多少はわかるよ。あいつはいったん怒らせるとおそろしいが、怒るまでが優しすぎる。――馬鹿なんだ。懐が無駄に深すぎるんだよ。そもそも包括的に『魔王を救う』だなんて言ってる時点で馬鹿なんだけどな。ともかく、その魔王のすべてがすべて、あいつの優しさに応えてくれるとはかぎらない」
まったくそのとおりだとシーザーは思った。
「だから、もしそれが決定的に全体にとって悪に成ろうとしたときは、今回のシャウのように、俺たちがある程度『やることをやらなければならない』。たとえそれがあいつの反感を買うことになっても、俺たちはそれをなすことを己に課している」
「口では言いませんがね」
ふとそこでシャウが口を挟んできた。
シャウは軽い調子の笑みを浮かべ、小さく息を吐いている。
「まあ、約一名、『あの方のために死にます』と言っている奇天烈なメイドもいますが」
「ハッ、よく言うぜ。お前も今さっき似たようなことを言ったじゃねえか」
「いやですね、金を使い切らないうちは死にませんよ。もののたとえですって」
「どうだかな」
シャウが珍しく語気を強めてごまかすように言うが、サルマーンは相変わらずその答えに鼻で息を吐くばかりだった。
「まあいいや。そういうわけで、今回はお前のやったことは不問だ。こっちも半分助かってる。俺たちにはさほど時間もないからな。……で、ここからはそれを踏まえた上での話なんだが――」
と、サルマーンが椅子に座りながら、その椅子ごとずいとシーザーににじり寄った。
顔には笑みがある。いつかのシャウと同じような、獲物を見つけたような笑みだ。
「取引をしないか?」
サルマーンの言葉に、シーザーはまたも首をかしげた。
しかしその提案に断れない自分がいることにも、頭のどこかでは気づいていた。
シーザーはサルマーンの言葉に、ややあってからうなずいた。
◆◆◆
「シャウとリリウムの手際の良さに感謝しなくちゃな」
シャウやサルマーンたちがレーヴ=オペラ座近くの喫茶店の中で密談をしているころ、メレアは後ろにマリーザとシラディスを従えて芸術都市を走っていた。
芸術都市の夜闇に紛れるように、あえて光の届きづらい裏路地を進んでいく。
「あらかじめ言ってもらえれば、もっと安全にいったとわたくしは思いますが」
ふと、メレアの後背から声がなった。
冷たく、落ち着いた音色ながら、その声音の奥底にはどこか怒ったふうな色合いが混ざっていることにメレアは気づいていた。
「マリーザからすれば、少し不満だったかもね」
「少しではございません。近場にあの金の亡者がいたら脇腹の肉を削いでおりました」
「はは……」
メレアはマリーザに答えながら、目の前に三つ又道が現れたことに気づいて、足を止めた。
すると、今度はシラディスの方を振り向いて訊ねる。
「ジュリアナの匂いはどっちから?」
「――右。こっち」
鎧姿のシラディスは、メレアの問いにすぐさま答え、路地の道のひとつにその身をすべり込ませた。
確信的な足取りは、もはやメレアたちに疑いを抱く余地をまるで与えない。
彼女のたぐいまれな嗅覚に感謝しつつ、またメレアは道を進んだ。
ここまで来る間に、幾人かの真っ白な装束を着た男たちとすれ違った。最初の白装束たちが舞台上へやってくる寸前にあの場を逃れたメレアたちは、その増援らしき白装束たちとすれ違っても特に目をつけられるということはない。
だが逆に、メレアたちからすればあの白装束たちは異様に目立つ存在となっていた。
彼らがあの劇場で何をしようとしていたか、すでにメレアたちは知っていた。
――あれが『サイサリス教国』の狂信者たちか。
狂信者狂信者とシャウたちが言うから、ついそう形容したくなるが、より平坦な言い方に直せば、彼らは『新派サイサリス』の信者たちである。
旧派サイサリス――つまり清貧と言われた最初のサイサリス教から分派したという扱いがなされているのだ。
その理由はすでに聞いている。
宗教国家を創ってまで派閥の拡大を目指す新派の方針が、旧派とズレていたのだ。
――だが、そんなことはどうでもいい。
こうして実際に彼らの脅威にさらされた手前、まったく気にならないわけではないが、メレアには今、それ以上に気にかける事由があった。
――無理やりに使わせたな。
あの〈魅惑の女王〉。
ジュリアナ=ヴェ=ローナ。
彼女の涙とその本心を、メレアはあの劇の狭間に知った。
ジュリアナがその魔眼を使って自分たちに催眠をかけたのち、救済と贖罪を求めるかのようにして紡いだ言葉を、メレアは覚醒した意識の中で聞いていた。
メレアだけはあのとき、ほかの観客たちとは違って――眠ってはいなかった。
「メレア様、どこまで追いますか」
「『どこまでも』。彼女を助けるまで、どこまでも。それと、余裕があればほかの情報も探る。今回こういう手段を取ったあいつらは、まだほかにも似たようなものを懐に抱えているかもしれない」
「そうで、ございますね」
「大丈夫、無理はしないよ」
メレアはシラディスの示す道を一心に進みながら、マリーザを安心させるように言った。
しかし、メレアの後ろにいたマリーザの顔には、毛ほども安心した様子はなかった。
◆◆◆
――こういうときのあなたの無理をしないという言葉ほど、信じがたいものはございませんよ。
マリーザは心の中でため息とともにそんな言葉を吐いていた。
いまさらではある。
だが、それゆえに間違いはない。
もう何度もこの男が無理をする様子は見てきた。
「メレア」
「ん?」
と、マリーザが内心にため息を吐いたところで、不意にシラディスの方からメレアに声が飛んだ。
彼女は兜と鎧をがちゃがちゃと鳴らしながら、アイズに似たやや遠慮がちなリズムで言葉を並べようとしていた。
「さっきから、ジュリアナ以外にも、同じ匂いがする」
シラディスは声音に少し緊張をともなわせて言った。
「もしかしたら、誰かがジュリアナと一緒にいるのかもしれない」
「――なるほど。やけに追いつきづらいと思ったら、向こうもそうやってジュリアナを引っ張っているのかもしれないな」
メレアが答える。
「ということは、もしやわたくしたちがジュリアナを追っていることがバレたのかもしれませんね」
「観客席にほかの誰かがいたとか? ――そういえば劇場の上階席がのきなみ封鎖されてたな」
「そこかもしれません」
メレアの率直な予測にマリーザがすぐに同意を示した。
「なら、もっと急ごう」
「でも、位置は近いよ。あっち側」
シラディスが再度指差しでメレアに方向を知らせる。
「よし」
するとメレアが、一気にその身を加速させた。強靭な脚力が前への推進力を与える。
メレアは軽業師のような身のこなしですばやく近場の建物の屋根へ登ると、そこから跳躍を重ねて飛ぶような速度でシラディスの指差した方向へ突き進んでいった。
「……メレア、速いんだけど」
「節操がありませんね」
シラディスがうんざりしたように言い、マリーザがそれにうなずきながら答える。
「わたくしたちも急ぎましょう」
「鎧がなければ、わたしも屋根走れるけど……」
と、そこでシラディスが申し訳なさそうに言う。
彼女は彼女で鎧さえ脱げばメレアと同じように素早く動くことができたが、それをするには魔王としてのトラウマをなんとかしなければならなかった。
しかし、すぐにはそれができない。
そもそも思いつきで決心できる程度ならば、とっくに鎧など脱いでいる。
「ここは無理をするべき場所ではありませんよ。衆目がまったくないわけではありませんし、まだ容姿を見せたくないならそのまま走っていなさい」
「……うん」
マリーザがそんなシラディスに優しく言葉を掛けた。
声そのものはいつもの冷めたものであったが、シラディスにはその内にこもった気遣いが不思議と感じられて、素直にありがたく思った。





