108話 「金の亡者」
メレアたちと一人別れ、別行動をしていた〈シャウ=ジュール=シャーウッド〉は、レーヴ=オペラ座近くのカフェテラスで誰かを待っていた。
片手に陶器製のカップをつまみ、ときおりそれを口元に持ってきては、中に入っている透き通った赤茶色の液体を流し込む。
もう一方の手は目の前の小さな円卓に乗せて、その上に広げていた何枚かの薄い植物紙を押さえていた。
「――ふむ、まずまずですね」
それがカップの中の紅茶に対する評価なのか、机の上の植物紙に描かれた内容を指しての評価なのか、いまいち判別はつかなかった。
それからしばらくして、シャウのもとに一人の男がやってくる。
「――終わったよ、金の亡者」
その男はかの道化師。――シーザーだった。
「そうですか」
シーザーは硬い表情でシャウの前に立っていた。二人以外に客はおらず、また席の位置もくたびれたカフェテラスの奥間。少し異様さの残る状況だが、それを不審に思う者もいない。
シャウはシーザーの言葉を受けてもまるで揺れず、また一口、カップの中の紅茶を胃に流し込んだ。視線はまだ机の上の植物紙に向いたままで、シーザーを一瞥すらしない。
すると、シャウは目の前のもう一つの椅子を顎でクイと指して、
「どうぞ」
シーザーに座るよう促した。
「……いまさら座って話すことなんて……」
シャウの促しに、シーザーはぶすりとして納得いかない様子だったが、
「いいから、座りなさい」
シャウのぴしりとした一言に、しぶしぶ従って座り込んだ。
片肘を円卓の上に立てて、頬杖をつく。
「で?」
シャウはついに白磁のカップを机の上において、ようやく視線をシーザーに向けながら訊ねる。
「ボクの勝ちだよ。キミと交わした約束もナシだ」
シーザーは肩をすくめて言った。
それからさらに続ける。
「キミの眼は『節穴』だった。彼はキミがいうほどの人物ではなかった。たしかに彼は普通の人間とは違う。大きな事をなせる人間だろう。……でも、最も大きな波にはそれでも勝てない。彼は今の『国家』というものたちが作り出すとても大きな波の中では、溺れるしかなかった。これが結果だ」
「――ふむ」
シャウはこともなげに小さくうなずいた。
「だから、『キミたちには彼女を任せられない』。キミたちが彼女をそうしたものから守れるほどに強靭であるなら、秘密裏に彼女を渡してもよかった。ボクは彼女に、よりよく生きて欲しいから」
「ハハ、シーザー、あなたは人情に篤すぎる。あなたがかねてよりそのどうしようもない衝動に振り回されているさまは知っていますが、相変わらずですね」
「――うるさい」
「大雨の日にいつも捨て犬を拾ってくるのはあなたでしたから」
「昔の話を持ち出すな。今と昔は違うだろ」
「いいえ、今も昔も同じです。――お互い、同じですよ」
シャウは小さく笑ってまた紅茶のカップに手を伸ばす。
だがシーザーがそれを先に手でとって、シャウから遠ざけた。
「そうやって余裕ぶるのはやめなよ。キミは昔からそうだ。あのときだって……キミの故郷がなくなったときだって、キミは涙ひとつ流さな――」
「私の一族は滅ぶべくして滅びた。私の国も、亡ぶべくして亡びた。だから、必要以上に動揺する必要はなかった。それだけです」
不意にシャウの目の中にそれまでとは一線を画す鋭い光が宿る。
普段はあまり見せないような硬い表情。
だがそこにはむしろ、感情があまり乗っていないようにも見えた。
そしてすぐ、その表情は消える。
いつもの何気ない剽軽さを内に含んだ表情が、シャウの顔に戻った。
「キミはどこで泣いているんだい。いつだってそうやって妖しげな笑みを浮かべているばかりで」
「どこででも。あるいは、今この場所でなら、少しも泣きやすいかもしれませんね。たぶん彼は私が寄り掛かっても大丈夫でしょうから」
「違う、彼もまたジュリアナの『眼』に落ちた」
「――なるほど、やはり精神に感応するタイプの魔眼でしたか」
「……そうだよ」
シャウが少し目を丸めて言うと、シーザーが観念するように言った。
「おや、断言しましたね」
「もうキミに明かしたところで支障はなさそうだから」
「なるほど」
「これでキミの願いも潰えた。また出直すといい。キミだけなら、まだ逃げられる」
シーザーは再び神妙な面持ちを浮かべて言う。
対するシャウは、
「ハッ」
それを鼻で笑った。
顔にはまだ、薄い笑みがあった。
「私が逃げる? この場においてその選択はありません。私は金の亡者ですが、そんな私にだってある程度の『意地』がある。私は、自分でも驚くことに、生きていて一度だけ誰かに命を預けてもいいと思ったことがあります。とても最近の出来事がきっかけでして」
「……」
唐突にそんな話をはじめたシャウに、シーザーは怪訝な表情を返した。
「まあ、お聞きなさい。――その男は私にできなかったことをしてしまいました」
「どんな? キミが金をつぎ込んでできないこととなれば、結構限られてくると思うのだけれど」
「簡単なことです」
シャウは笑みのまま言葉を切って、もったいぶったように一息をついたあと、言った。
「かのムーゼッグ王国を、ほとんどその身ひとつで圧倒したのです」
「――ばかげてる。ありえない」
シーザーは両手を投げ出した。
しかしシャウは続ける。
「しかも、その場には〈セリアス=ブラッド=ムーゼッグ〉もいました」
「ああ、あのうわさの天才児。時代の寵児というのもまた、言い得て妙だよね。時代は人が作り出すものなのに、まるで神に愛されているとでも言わんばかりに。彼を寵児にしているのが自分たちであることを民衆は理解していない」
「ですが、そう形容できるほど、アレは天賦の才を持っていた」
「……まるで実際にその戦いぶりを見たかのような口ぶりだね」
「見ましたよ? 正直、アレの正面には私も立ちたくないですね。まあ、私がさっきいった誰かに命を預けるのと同じくらい、アレに対してもいくつかの思いを抱いてはいます」
「……ねえ、いい加減もったいぶった言い方はやめて教えてよ。さっきから話がつかめない」
「バカですねえ、すごくわかりやすいじゃないですか。あなただって知っているでしょう? いくらか前にレミューゼの近くでムーゼッグが『撤退』したという噂を」
「……っ、まさか」
シーザーはそこでようやく目を丸めた。なにかに勘付いたようだった。
「あなた、あれがレミューゼのくたびれた軍事力と、かろうじて間に合った三ツ国の戦力のみによって引き起こされたものだと本当に信じているのですか?」
シャウは何挙手か前のシーザーを真似るように、両手を投げ出して続けた。
「――それこそありえない。あの戦は彼らがまともにやりあって勝てるようなものではなかった。ムーゼッグには赤い鱗の成体地竜までいたのに」
「たしかに……真っ二つに割れた気味の悪い地竜の死体があったってうわさは聞いたけど……」
「あれやったの、『彼』ですよ」
「……は?」
シーザーは大口をあけて首を傾げた。
「だから、それをやったのは、あの『白い髪の彼』ですよ。しかも彼、三ツ国が増援に来るまでにたったひとりで戦況を三十分近く押さえ込んでましたからね」
「冗談を言っているの?」
「私はこういうところで冗談を言うの、あんまり性じゃないんですけどね」
「信じられない」
「まあ、私もこう言っておきながら、そうなるのもわかります。しかし事実です。この私が命を預けてもいいと思った、という言葉の意味をよくよく考えて、それを根拠にしていただけると助かるんですが」
「仮にそれをやれるなら、彼はもう人間じゃない。怪物だ」
「あながち間違ってはいないでしょう。戦場における彼は、ムーゼッグに『魔神』と呼ばれました」
「ああ、その言葉の方がわかりやすい。いっそ神号でも足りないかもしれないけど。――本気で言ってるの」
「本気です」
最後に刺すように訊ねたシーザーに、シャウは真面目な顔で答えた。
そこで、わずかの間があった。
シン、と、静寂が空気をなでる。
すると、それから幾秒もしないうちに、ある変化が二人の元を訪れた。
カフェの向こう側から、声がする。
次いで、足音が近づいてくる。
それは足早に二人に近づいてきて、ついに正体を現した。
◆◆◆
「よう、シーザーも一緒か。……で、ちゃんと説明はしてくれるんだろうな? 金の亡者」
◆◆◆
〈拳帝〉サルマーン。
さらさらとした砂色髪を揺らす青年の姿が、そこにあった。
「――嘘だ」
「あ? 嘘ってなにがよ」
振り向き、サルマーンの姿を仰ぎ見たシーザーは、愕然とした様子で表情と動きを止めた。
対するサルマーンは片眉をあげて、「なに言ってんだこいつ」と言葉をこぼしている。
「やあやあ、災難でしたね、サルくん」
「おい、てめえ裏でなんかやってやがったな」
と、シャウが満面の笑みで片手をあげているのを見て、サルマーンは大きなため息のあと、シャウに詰め寄った。
そしてシャウに顔を近づけ――
その服の胸倉をつかんでいた。
シャウはサルマーンの少し怒ったふうな行動を受けて、少し困ったように笑う。
「ええ、ええ、まあ――少しだけ?」
シャウはその状態のまま、親指と人差し指を曲げて、「ちょっと」という仕草を見せた。
「……はあ。……あんときか。一番最初の夜、芸術都市に来てすぐの夜に、お前はシーザーと話してなんらかの情報と、それに準じた〈魅惑の女王〉へ近づく方策を思いついた。んで、その日のうちに速攻で手を打ってやがったな。近場にいた俺にもバレねえように、その良すぎる手際で『過激な手』を」
サルマーンはそれを受けて大きくため息をついたあと、すぐに得心したように言葉をまくしたてた。
そして、改めて鋭い視線でもってシャウの目を射抜き、言った。
「訊くぞ」
その言葉の意味と、これから起こるであろう事柄に、シャウはすでに気づいていた。
ゆえに、ただゆっくりと、シャウもまた普段はあまり見せない真面目な顔で、うなずいた。
それを見たサルマーンが、ついに口を開ける。
「……失敗したときのことは、考えてたか?」
「――ええ」
「あえて俺たちに今回の方策を話さなかった理由はあるか?」
「あります」
「あえてそれを言わないことで、俺たちはともかく、双子やアイズを危機にさらしたことに対する罪悪感は」
「――あります」
「でもお前は、『魔王』を助けるためにこれが必要だと思った」
「そうです」
「ちなみにメレアには知らせたか?」
「すべてではありませんが、可能性を示唆する程度に。メレアに今回のことを乗り越えるだけの可能性がまったくないと判断したならば、私はこの方法を取らなかった。――が」
シャウは真顔で言った。
「この程度で手をこまねかねばならないようなら、そもそもこれからのメレアに『可能性』なんてない。メレアがやろうとしていることは、いっそのこと夢物語にたぐいされるものです。それを本気で達成しようとするのに、この程度のことで躓いてもらっては困る。――『世界は広く、時代は悪辣としている』」
「……」
サルマーンは表情一つ揺らさずにそう言ったシャウを、まだまっすぐに見ていた。
まるで、シャウの表情の中に言葉にならない答えを探すような、そんな仕草だった。
すると、サルマーンは、やがて口を開いた。
その口からずしりと重い響きを持った声が、放たれる。
「――なら、もしメレアが失敗したら」
その言葉に、シャウは間髪入れずに答えていた。
なんの躊躇いもない、答えだった。
◆◆◆
「私も死にます」
◆◆◆
「……」
「それが、私が私自身のやり方に課す対価です。私はこういう性分ですから、それが良いと思えば躊躇わず今回のような手段を使います。――裏で何かをやる。ええ、それが必要なら、やります。敵を騙すために先に味方を騙す必要があるなら、それも行うでしょう。ですが、だからといってそこに覚悟を持っていないわけではない。私には――」
言う。
「――あくまで、〈魔王連合〉の一員であるという矜持がある」
それは、
「あの逃避行を経てレミューゼにたどり着いたとき、自分の中の『思い』が行き着いたところだ。私はあなたたちほど切羽詰ってはいなかった。私には金がある。シャーウッド商会という地盤もまだ残っていた。だがそれでも、メレアというあの男についてレミューゼへ向かい、その途中途中であの馬鹿な男を近くで見ているうちに、思わず願った。願ってしまった」
シャウは言った。
「あの男がその望みを完遂させる瞬間を見てみたい、と」
だから、
「私はメレアという男があの無茶な逃避行をその力と意志で成し遂げてしまったとき、判断した」
シャウは最後ににやりと笑った。
「この男は『金と同じくらい』、身を捧げるにふさわしい男だと」
その言葉を最後に、シャウは口をつぐんだ。
言いたいことはいったと、そう言わんばかりの仕草だった。
サルマーンはシャウの胸倉をつかんだままじっとその目を見ていた。
そして――
「……はあ。――お前も難儀だなぁ、『シャウ』」
サルマーンは大きなため息をついて、シャウの名を呼びながら、その手につかんでいた胸倉を放した。
そして顔を困り顔にしながら、
「お前変人すぎんだろ。わかりづれえんだよ。ああいや、俺もあんま人のこと言えねえけどさ」
サルマーンは片手で額を押さえて、もう片方の手でシャウを指差しながらまたため息をついている。
「別に、俺だってお前を心底から疑ってたわけじゃねえ。こういう役割が必要なことも頭のどこかじゃ考えてた。メレアは間違いなく俺たちの中で最も意志が強いだろうが、あの意志の強さはまっすぐに前を見させておくにかぎる。ただひたすらに、求める道を前進させるために。――んで、可能であればあいつの進む道の先にある障害物をできるだけ避けておくことも、必要だ」
「そうですね」
「進む方向が曲がったときに矯正させるだけじゃなくて、進みやすいようにフォローするのも、メレアの力に頼ろうとする俺たちがやらなきゃならねえことだ。お前はたぶん、そっちの方が性に合ってるんだな」
「かもしれません」
シャウは屈託なく笑った。
本当に珍しく見る、シャウの子どものような無邪気な笑みだった。
サルマーンはそれを見て、またため息をつく。
「はあ……。でもまあ、こっちはこっちでそんなお前にこういうふうに釘を刺す必要があることもわかってくれよ。たぶん俺たちはこうしてそれぞれにバランスを取っていく必要があるんだ」
「わかってますよ。だから、なされるがまま、あなたの問いに答えたのです。――いつも損で手のかかる役回りばかりで、大変ですね」
「ハッ、どの口が言うんだか」
サルマーンはシャウの言葉を鼻で笑い飛ばす。
されどその顔には、少し楽しげな笑みが乗っていた。
「――よし、んじゃてっとり早く状況を整理させろ。メレアたちは今サイサリスのやつらを追ってる。俺はお前のお守に飛ばされた。こっちにもなにか起きてないかって、メレアも心配してたぞ」
「まったく、懐が深すぎてそこに溺れてしまいそうです」
「やめろやめろ、なんか男のお前が言うと気持ち悪い表現だ」
「わざとですよぉ」
そうしてサルマーンは荒っぽく近場の椅子を持ってきて、シャウとシーザーの間に腰を下ろした。
「あの、えっと……」
そこでようやくシーザーが声をあげる。
道化の化粧を剥がさんばかりの狼狽えようで、ちらちらとサルマーンとシャウの方へ視線を入れていた。