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百魔の主  作者: 葵大和
第九幕 【魔王歌劇の幕が上がる】
100/267

100話 「時計塔の上で」

 空の風は、思っていたよりもずっと清々しかった。

 地上に人々の熱気がこもっているから、よけいにそう思うのだろうか。


 ジュリアナは、抱えられ、驚くべき速度で建物の屋根上へ飛びあがってから、数秒の(のち)に落ち着きを取り戻した。

 そもそも驚いたのはこの白髪の男のせいであるが、一方ですぐに落ち着けたのもこの男のおかげだ。


 ――この人は……


 揺れに耐えようととっさにつかんだ男の肩から、不思議なほどしっかりとした圧が返ってきていた。まるで暴風にも微動だにせぬ大樹に寄り添っているかのような、そんな印象を抱く。

 

 ――……。


 おそらくこの男は普通の旅人ではない。

 手から伝わってくる見た目とは裏腹な身体の重厚さが、ジュリアナにそれを知らせていた。

 

 しかし、今はそれさえもどうでもよかった。

 再び頬を打ったヴァージリア上空の冷涼な風が、面倒な思考をすべて吹き飛ばしてしまう。

 

「あのあたりに着地しようか」


 ふと、白髪の男が自分を抱えながら言った。

 彼の視線は眼下に向いている。

 気づけばすでに中央通りの人波は越えていて、手早く地面に下りようとしているのだろう。


「――いえ、よければもう少しこのままで」


 ジュリアナは頭の半分で『自分はなにを言っているのだろう』と思った。

 それでも、今でた言葉に冗談のつもりはない。

 

 ――ここは清々しい。


 こんな近くに、こんな清々しい場所があったなんて。

 人々の思惑という呪縛から、このときだけは解き放たれているようだった。

 きっと地面に下りてしまえば、また頭の冷静な部分がすぐにあの嫌な思いをひっぱり出してきてしまう。


「すみません、もう少しだけ、芸術都市の上を走ってはいただけませんか?」


 ジュリアナはまっすぐに白髪の男を見上げながら、そんな言葉を重ねてしまっていた。

 男はきょとんとして、こちらを見返している。


「お願い、します」


 今の自分がひどくずうずうしいのはわかっていた。

 こうして抱きかかえられて、助けられている身ながら、さらに願い事をかけてしまっているのだ。


「――いいよ。じゃあ、もう少し走ろうか」


 すると、男からついに答えが返ってきた。

 不思議そうな表情から一転して、その顔にはやわらかな微笑が乗っている。

 ジュリアナはその答えに思わずうれしくなって、目の端から涙があふれそうになる感覚を得た。我ながら、おおげさかもしれない。

 しかしそのことに気づくと、もしかしたら自分は思っている以上に疲れていたのかもしれないと、そんな思いも浮かんでくる。

 

「あんまり屋根の上をぴょんぴょん走っても変に目立ちそうだから、人のいない方向がいいかな?」

「できれば」

「どっち方向? 俺、まだあんまりこの街にくわしくないんだ」


 白髪の男が走るペースをゆっくりにしながら、困ったふうな笑みを浮かべてこちらを見下ろしてきた。


「では、あちらの方角へ。向こうは夜にひらく歌劇場が集まっている区画ですから、今の時間は人もあまりいないでしょう」


 ジュリアナはとっさに東を指差した。レーヴ=オペラ座のある方角だ。


「わかった。じゃあ向こうへ行こう」

「そのうち時計塔が見えてきます。芸術細工が四方に刻まれたとても高い時計塔です。そこへ、連れていってください」


 本当に、ずうずうしい。

 でも、これで最後だ。


 今日の夜に、自分は一線を越える。


 きっとその一線を越えたら、この街で今のような清々しい思いに浸れることはなくなるだろう。

 だから、最後。

 不意の出会いと、不意の状況に、最後のわがままを。


「よし、ならちゃんとつかまっててね」

「――はい」


 不思議なことに、会ったばかりであるのに、守られているという安心感が強くあった。この男が放つ独特な雰囲気のせいだろうか。

 

 ――できればもっと早くに、こういう人に出会いたかった。


 なにも知らない。

 自分の生まれを知らない。

 損得を考えずに付き合える――そんな誰かに。


 ジュリアナは心の中で静かに紡いだ。


◆◆◆


 メレアは芸術都市ヴァージリアの都市上を走りながら、腕の中の女が小さく歌を歌っていることに気づいた。

 

 ――綺麗な歌だ。


 彼女と出会ったのは偶然だった。

 絵画通りの画家がマリーザの肖像画を描き終えたあと、また別の通りを見に行こうと移動していた途中、差し掛かった中央通りの一角でなにやら困っている女性を見つける。

 そこで繰り広げられていたのは些細な言い合いだ。

 しかし、その商人の絡み方に嫌気が差して、とっさに声を飛ばしてしまっていた。


 ――シャウはああ言ったけど……。


 本当は手早く彼女の橋渡しをして、みなのところへ戻ろうかと思っていた。

 だが、彼女から思わぬ提案を受けて、もう少し付き合うことにする。

 彼女の目に切実な表情を見たのも、そう決断した理由のひとつだった。


「君は歌劇役者?」

「はい。歌はお嫌いですか?」


 ふと、ちょうどよく歌が途切れたので、メレアは腕の中にいる彼女に問いかけた。

 彼女は本当に楽しそうに歌を歌っていて、顔にはその余韻たる微笑がまだ残っていた。


「そんなことないよ。歌は好きさ。聴くのはね」


 昔、まだリンドホルム霊山にいたころ、よく〈楽王(ユルン=ユーラ)〉が歌を聴かせてくれた。

 彼は男だったが、おそろしく美しい音色で歌った。

 聴く者の感情をいかようにも変化させられる、魔性の歌と声。

 自分もその声帯を継いでいるが――


「でも残念ながら、俺は歌うのが苦手なんだ」

「そうなのですか? そんなに美しい声を持っているのに」


 腕の中の彼女は不思議そうに首をかしげた。その仕草には無邪気さがある。

 よくよく見れば、彼女はとてもきれいな顔をしていた。

 都市上空を吹く風が彼女の顔のあたりを隠していた布をはためかせ、その合間からちらちらと素顔をさらさせる。

 

 ――なんというか、ケチのつけようがないな。


 いまさら彼女の美しさに気づいて、メレアの心臓が少し高鳴った。

 エルマやマリーザに似た系統の美しさだが、彼女らのそれとも少し趣が違う気がする。

 彼女たちにあるような、戦闘者独特の鋭い雰囲気がないのが理由かもしれない。


「声は――そういう身体に産んでくれた親のおかげさ。でも、歌は練習しないとうまくならないから」


 ふと自分にそういう評価を下すと、今度は彼女の歌の裏に隠れた努力の積み重ねに気づく。


「君は、とても歌を練習したんだね」

「ええ。――好きですから。でも、努力というほどどろどろとしたものではありません。好きだから、ずっと歌ってきたのです。こうした積み重ねは、ほかの方から見たらとても大変でつらいものに見えるのかもしれませんが、私にとってはそこまでつらいものではないのです。それと同じくらい、楽しいですから。――あなたもそうやってなにかを練習したから、今こうして私のことを軽々と持ち上げていられるのでしょう?」


 訊ねられて、メレアは過去を思い返した。


「練習、練習か……」


 霊山での日々が、いくつも脳裏を駆けめぐる。

 それらの情景は、まだ鮮明さを保っていた。

 そのことをメレアは、嬉しく思った。


「うん、そうだね。たしかに練習はした。――楽しかったよ。大変だったけど、それと同じくらい楽しかった」

「では、同じですね」


 腕の中で彼女が笑った。

 と、そこで彼女が頭に巻いていた布がついに風に耐えきれずほどけて、その下から不思議なグラデーションのかかった長髪がふわりと舞い上がった。

 水色を下地に、まるで虹色石のように、光を受けて色を変化させる宝石のような髪だ。

 メレアはその髪の美しさに思わず見惚れた。


「あっ! すみませんっ、髪が――」


 彼女は自分の髪が宙を舞って、メレアの首のあたりにからまったのを顔を真っ赤にしながら見る。

 そしてすぐさま手を伸ばして、メレアの首から自分の髪を解いた。


「大丈夫大丈夫。綺麗な髪だね」

「っ、ほ、褒めてもなにもでませんよっ」

「見返りを期待したわけじゃないさ」


 腕の中で恥ずかしそうに頬を染めている彼女に、メレアは微笑みかける。

 彼女はちらちらとメレアを上目づかいで見上げながら、様子を窺っていた。通りで出会った瞬間に見え隠れしていた不安げな表情は、今は消えていた。


「お、時計塔ってあれか」


 メレアは一件飛ばしで建物の屋根から屋根へ飛び移った直後、さきほど彼女が言っていた時計塔らしき建物を見つけた。


「あ、はい、あれです」

「よし、一気に行こう。ひときわ高く飛んでみようか」

「ぜひ」


 意外に胆が据わっている。

 彼女は力強い視線を返してきて、「ならば」と思いメレアは思いきり屋根を蹴った。

 足下から屋根が軋んだ音が返ってきて、内心に申し訳なさを感じつつも、すぐに身体を覆った上空の空気に高揚感を覚える。


 芸術都市の景色が大きく広がった。

 空から見る昼のヴァージリアも、とても綺麗だった。

 街のずっと向こうに海が見えて、ここが港町であることを再確認する。


「――」


 腕の中ではまた彼女が美しい声で歌を歌っていた。

 〈楽王〉の歌に勝るとも劣らない、本当に美しい歌だった。


◆◆◆


「出会ったばかりで、わがままを言ってしまってすみませんでした」

「いや、構わないよ。俺も楽しかったから」


 時計塔の頂上。

 メレアは軽快に時計塔を登って、ついにその頂上部にまで足を掛けてそこに彼女を降ろした。


 かなり高い塔だ。

 下を見下ろせばぽつりぽつりとまばらな人影が見える。ここから見ると小さな点のようだ。


「怖かったら手をつかんでてもいいからね」

「お優しいのですね」

「女の人には優しくしろって、常々姉みたいな母に言われてたから」


 ――いや、母みたいな姉だろうか。


 メレアは内心で少し悩んで、


 ――……年齢的に姉の方が若いイメージだから、一応姉にしておこう。


 のちのち〈魂の天海〉で女英霊たちに怒られないように、「訂正、母みたいな姉に」と付け加えておいた。

 彼女はそれを聞いて、不思議そうに首をかしげていた。


 時計塔の上に手すりなどはなかった。

 そもそも人が登るべきではない場所に、メレアがその跳躍力で登ったのだ。

 それが彼女の希望でもあった。


「ふふ、こんなところ、絶対に一人では来られません。今日は良い日ですね」


 彼女はメレアの服の裾を左手でそっとつまみながら、それでも時計塔の頂上にしっかりと二本足をつけて立っていた。

 華奢な(てい)ながら度胸があるところを見ると、どことなくアイズにも似ている。

 

「ところで、なにも訊かずにここまで来てしまいましたが――あなたは旅人さんでしょうか?」


 と、彼女がメレアの方を向いて訊ねた。

 髪と同じくやや水色掛かった瞳が、澄んだ光を放ってメレアを見据えている。

 メレアもその瞳に応えるように視線を返しつつ、答えた。


「そうだよ。ちょっとヤボ用があってね。昨日ヴァージリアに来たんだ」

「そうですか。――さきほどの方々はご友人で?」

「まあ、そんなところだね」

「みなさんそれぞれ少し不思議で、楽しそうでしたね」


 メレアは彼女の言葉を受けて、照れるように頭を掻いた。

 

「たしかに不思議だね。でも君のいうとおり、楽しい友人なんだ。それに、頼りになる。彼らのおかげで俺もいろいろ助かってる」

「良い友人に恵まれたのですね」


 彼女がまた楽しげに笑った。

 その笑みに、メレアも思わず微笑を浮かべる。


「あ、私ばかりが訊いてしまっていますね、申し訳ありません」

「構わないよ」

「――やはりあなたは優しいですね。まだ私にはなにも訊きません」


 そう言う彼女にメレアはちらりと一瞥を入れて、それからすぐに視線を外した。


「訊いて欲しくなさそうだから」


 メレアは視界にヴァージリア外縁の海をはめこみながら、ふと言葉をこぼした。

 その言葉を受けた彼女は、驚いたように目を丸める。


「すごいです。会ったばかりなのに。もしかして読心術師だったりしますか?」

「いや、そんなたいそうなものじゃないよ。――最近こそ減ったけど、ちょっと前まではそういう表情をするやつが周りにたくさんいたんだ」


 一転して楽しそうに訊いてくる彼女に、メレアは苦笑して答えた。


「なるほど」

「俺自身、そのあたりには昔から気を遣っていたから、よけいにね」

「そんなに気を遣って、疲れてしまいませんか?」


 彼女が再び問いを重ねる。

 すると、その言葉のあとに、彼女は何かを思いついたように顔をパァっと明るくさせた。

 すかさずその口から、言葉が続く。


「――あ、それでは、今のうちに下では言えないことを私に吐いていってください。お互いに、たぶん知り合わないからこそ言ってしまえることがあると思います。――せっかくの機会ですから」


 不意に飛んできた言葉に、今度はメレアが眉をあげて彼女の方を振り向いた。

 彼女の言葉の中に、包み込むような優しさを見る。

 彼女は宝石のような長髪を風になびかせながら、やはり無邪気そうに笑っていた。

 

「実は、私もいろいろ言ってしまうかもしれません。今日が『最後』なんです。だから、お互いに、名前も知らないままとても大事なことを言い合うというのも、ちょっとロマンチックで良いと思います」

「ハハ、なんだか芸術都市っぽいなぁ」

「ロマンスにはうってつけの街ですよ、ここは」

「俺はそういうのに縁がなくてね」

「なら、今日だけ私のロマンスに付き合ってください。少しでいいんです。本当に、少しで」


 ふと、一瞬、彼女の無邪気な笑みにさみしげな色が混じる。メレアはそれを見逃さなかった。

 それはいつかのフランダーが浮かべていた微笑に、少し似ていた。


「わかった。じゃあ、もうしばらく話をしようか。お互いに、なにも知らないままで」

「ええ、きっとそれも楽しいですよ」


 すると、彼女がその場に座り込んだ。

 膝を腕で抱えるように、三角に座る。

 メレアもそれにならって、その場に胡坐をかいた。


 都市の上空を吹く風が、二人の頬を優しく撫でた。



お話的にはだいぶ途中で切れてしまいましたが、『百魔の主』も気づけば今回で100話でした。

ここまでこれたのも読者のみなさんのおかげです。

これからも応援よろしくお願いします。

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