1話 「とても綺麗な異界の花を」
余命いくばくもなかった。
極端に悪くなることも、良くなることもない不治の死病に侵されながら、ゆらりゆらりと迫ってくる死神を迎えるべく、真っ白な病院の一室でいつもぼうっと空を眺めていた。
そんなある日、最後の心遣いとばかりに一度だけ外出が許されたことがあった。
かつて想像だにしなかった自分の痩せ細った腕。
足は自重を支えるのにも震えている。
そんな身体を叱咤しながら、病院の広々とした庭を散歩することにした。
――まあ、これも一つの人生だろう。
最初こそ未練はあったが、最後の散歩が許されたときにはすでにその未練すら心から消えていた。
今はどちらかというと、死の先に何があるかの方が気になる。
「……ふう」
病院の庭をゆっくりと二周。
変わり映えのしない景色を目に収め、ようやく部屋に戻る決心をする。
――そんなときだ。
「あれは……」
芝生の植えられた庭の一角に、悠然とたたずむ大きな樹がある。
その樹の下に、見たこともない淡い紫色の植物がひょっこりと生えていた。
――なんの植物だろう。
まともに動けなくなってからもまだ気力が残っていたうちは、この世のことを少しでも多く知っておこうと思って、植物図鑑や動物図鑑をよく眺めていたものだが、そんな自分の記憶の中にもその植物の情報はない。
単純に自分が知らないだけかもしれないが、その植物がどうしても気になって、付き添いの看護師にお願いして病室へ持って帰ることにした。
ところが、若い看護師はいつまで経っても「どれですか?」と首を傾げるばかりで、最終的には自分でそれを掬いあげる。
病室に戻ってから適当な瓶に土を詰め、そこに植物を移し替えた。
それから死ぬまでの間、自分とは対照的にみるみる育っていくその植物を見つめ、穏やかな日々を過ごした。
◆◆◆
さらに五日ほど。
『――やあ、はじめまして』
何度目かの浅い眠りから覚めると、死神がベッドの横に立っていた。
『君を迎えに来た』
長い灰色の髪と、やたらと整った中性的な美貌。
それでも男だとわかったのは、声音が心地よい低音だったからだ。
「……そっか」
死神は病室に似つかわしくない小奇麗な格好をしている。
けれど、その手足は半分透けていた。
『なにかやり残したことは?』
「ないよ」
『この世界に未練は?』
「――ないよ」
嘘だった。
――せめて、この植物が花を咲かすのを見たかったなぁ……。
あの淡い紫色の植物は、今にも花を咲かさんとばかりに蕾をつけていたのだ。
せっかく拾って、自分の最期の時まで育ててきた植物だから、正直に言うと……その花を見たかった。
すべてを捨て去ったと思ったところから、最後の最後に芽生えてしまった新たな未練だ。
『大丈夫。その花は今に咲くよ。ほんの少し、あと何十秒か』
そんな自分の心を見抜いたかのように、死神が微笑を浮かべて言った。
『花が咲いたら、君の旅立ちの時だ』
傍に来た死神が慈しむように蕾に触れる。
そうしてまた自分の方を振り向いて、優しげな笑みを浮かべた。
「そっか。……うん、花が見れるなら、それでいいよ」
『じゃあ、僕と一緒に花が咲くのを待とう』
それからほんの少しの沈黙があって。
時計の針が静かに時を刻んだ。
重かった身体が今度は徐々に軽くなっていく。
まぶしげな陽光に目を細めた。
そして、ついに――その時はやってきた。
蕾が、身じろぎをする。
花を咲かせようか、咲かすまいか、悩むように、その身を揺蕩わせた。
――いけ。
声はもう出ない。
――がんばれ。
それでも強く願った。
――最後にお前の花を、俺に見せてくれ。
そして、花が――
『――咲いた』
とても綺麗な、淡い光を放つ――
本当に――
綺麗な――
―――
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