おもちゃ
文学かどうかは疑問だ……。
君がぼくを見向きもしなくなったのは、一体いつからだっただろう。
初めてぼくらが出会った日、君は満面の笑みを浮かべて、ぼくを鷲掴みにして家の中をたくさん駆け回ったよね。しかも、後でこっぴどく怒られて。それくらい喜んで貰えたんだって、本当に嬉しかった。持ち主がいない時のあの不安は、君の笑顔ですっかり消え失せた。
くる日もくる日も君はぼくを側に置いて、友達に自慢したり、一緒にブランコに乗ったり、友達の持っている彼と共に遊んだり。
雨が降っては服にくるんで、風が吹けば飛ばされないように強く抱きしめて。ぼくはその間君の胸の暖かさを感じていたよ。
寝る時はベッドに一緒の入れてくれて、ほつれたりしたら、すかさず君の優しいおばあちゃんに頼んで縫ってもらって。汚れたりしたら君の恐いママが君を叱りながら洗ってくれて。ぼくは愛を感じていたよ。
虹色の日々だったよね。ぼくはおもちゃとして、最高に幸せだった。
けれど、いつだったかな。君が初めてぼくを家に置いていった日は。あの日、ぼくはこれまでにない寂しさを味わった。それは『誰も買ってくれないんじゃないか』というあれに少し似ていて、『このままぼくの存在を忘れさられてしまうんじゃないか』とも繋がって……。体は震えて、カタカタと音をたてていた。
その次の日も、また次の日も、ずっと君はぼくを置いていった。もうぼくには諦めしかなくて、しんしんと積もってくる埃に何度も咳き込んだ。
でもそれは、当たり前というか、むしろ祝うべき事なんだ。子供からだんだんと大人になっていって、自立していって。だけど素直に「おめでとう」となんか言えないぼくがいた。せめて……せめて別れの一言や「ごめん」くらいの言葉が欲しかった。ぼくの存在を……最後の一瞬だけでいいから認めて欲しかった。
君のママも最近は「このおもちゃ捨てるの? 捨てないの?」と言い始めたよね。ぼくの仲間たちはみんなその度にダンホールに押し詰められて、どこか恐ろしいところへ連れていかれるんだ。ぼくはその声があがる度に寿命なんかないんだけど寿命が縮む思いをして。涙が出ないぼくの目を悔しく思った。
君に声をかける事は簡単だった。やろうと思えばすぐにできる。この身を動かして君の頬をつねる事も、君の頭をぽかんと叩くことも。でもぼくたちおもちゃには暗黙のルールがあって『おもちゃは存在を誇示しちゃいけない』んだって。誰が決めたんだろうね。誇示なんて難しい言葉まで使って縛り付ける理由が、ぼくにはわからないよ。でもそうしないといけないんだ。何が起こるかわからないからね。もし神さまがこのルールを決めていたとしたら、それこそ破った時の罰も想像がつかなくて。何より君に会えなくなるのが恐い君に拒絶されるのが……。
そんな事を思いながら過ごす内にすっかり塵とも仲良しになってしまっていて、ダンボール行きの順番はぼくに回ってきた。
「これ、捨てるの?」
君のママは軽くぼくの付着物をはたいて聞く。友達はふわふわとフローリングの床へと落ちて、また新たな友を作っていく。
ここで、君が「うん」とでも言えばぼくはダンボールに……。紙に書きだしたら一行もいかない事にどれほど脅かされているんだろう。いっそ、全部忘れてしまいたかった。そうすれば楽になれるのに。
結局君はこちらを見もしないで、ソファーに腰掛けながらただ「うん」と答えた。
胸を握り潰されるような感覚だった。今までの虹色の日々を全て否定されたようで、全て無かった事にされたようで。泣きたかった。
いいや、泣いた。
神さまからの贈り物なのか、気づけば頬のあたりが湿ってて、君のママは「きゃっ」とぼくを手放した。フローリングは固くて痛かったけれど、ほんの少しだけ悲しみが晴れた気がした。
「どうしたのさお母さん、悲鳴なんかあげて」
「だ、だって人形が……」
たじろたじろしていて君のママは口を開いては何かを言おうとして言葉が出てこないようだった。唸りながら、必死に言葉を探している。
「人形がどうしたのさ」
相変わらず君はこっちを向かないまま。
「人形が泣いてるんだよ!」
ようやく見つけたのか、君のママは言い切った。
君はのそっと立ち上がって、こっちを眺めた。久々に拝んだその顔は、大人びていて複雑だった。そのまま歩いてきて床からぼくを拾いあげ、まじまじと見つめる。ぼくは固定された視線を保ったまま。それから君は大きくため息をついてこう告げたんだ。
「悪かったって。だから泣くな。な? いいか、お前を必要とするやつはまだまだこの世にいっぱいいる。お前の仲間が入ってるダンボール。あれどこに送ってるか知ってっか? まあ孤児院なんだけどな。俺はもう、お前無しでもやっていけるからよ、お前はあの時の俺みたいにお前無しじゃやってけないやつを探して側にいてやってくれ。そういうやつはな、側にいるだけで安心するからな。それと、『いつか自分を必要としなくなるんじゃないか』って考えるくらいだったら精一杯『今』を楽しめ。その方が何倍も幸せだろ? だから泣くな。新しい所に早く慣れて、幸せになれ。な? 俺は充分お前に幸せにしてもらったんだ。もう大丈夫だ。だから、さよならなんだ」
それからぼくをダンボールに詰めた。まだ頬は濡れていたけれど、さっきのそれとは違って清涼感があった。
その時の事は、親を失った子に鷲掴みにされて駆け回られている今でも鮮明に思い出せた。
ありがとう君。君との思い出は忘れないよ。