〜月の光〜弥也子と諒
☆☆☆
美しい男性だとは思った。けれど、夜中に敷地に入り込んだ青年に、警戒心を抱かせなかったのは、そんな理由ではない。
「おや?危ないなあ。女の子がこんな時間に出歩くものではないよ?」
勿論だ。
10才の少女は夜中に出歩いたりはしない。
綺麗な男性だ。
月を従えて、まるで物語の様だと思った。
キラキラした王子様。
莫迦げた発想だが……。
私は赤面モノの発想を脳裏から追い出した。
「普通。子供は夜中に出歩きませんわ。」
「うん?では此処は…君の家の敷地内なのかな?」
含んだ返事に気付き、王子様はぐるりを見回した。
「何処から私は入り込んだのかな?」
「さあ?お兄さんの事は、お兄さんが1番よくご存知では有りませんの?」
キョン?と首を傾げて聞いた。右手の人差し指を斜めに口許に寄せる。
私は小生意気なガキなので、そうと思われない様に、愛らしい仕草と笑顔の研究に余念がない。
王子様が面白そうな顔をした。
有り得ない美貌と、明らかに支配者然とした態度。その声の魔力は、子供にも有効と知った。勿論踏ん張った。
一瞬とは云え、命じる声に陶然とした。
もっと、何か云って欲しい。
何でも云う事を聞く。
いや。寧ろ命令して欲しい。
衝動は甘い誘惑で、子供であるから堪えられたのか、子供さえ狂わせるのか、微妙なところだと思う。
しかし気を強く持てば大丈夫だ。
それに、こんな人間がそうそう居るとも思えず、私は恐らく、彼の正体を知る。
「凄いな。世の中には面白い子が居るものだ。」
自分の声を聞いても媚びない子供は初めてだ…と云う彼に、それも何だかな〜と思うが、しっかり媚びた私の立場はどうしてくれる。
結構イケてる予定だったんだが。
肩を落として背を向けた。
私は子供だし、お近づき作戦失敗で良いや…とヤサグレたが、彼はゆっくりとした歩調でついてくる。
どうやら気に入られたようだが…何故だろう。
「云っておきますが。私はしっかり媚びを振り撒きましたよ?」
「うん?ああ無差別にね。」
おや…、そう云う意味か。なら良し。
「何処に行くんだ?」
「あちらに、ブランコと噴水が有りますの。噴水は、止まっておりますけど。」
ふうん、と呟いてゆったりと私の横や後ろを歩く青年は、退屈そうとも機嫌が良さそうとも見える、僅かな笑みを口許に含んで同行する。
お近づき作戦成功って事か。自宅の庭で随分な大物が釣れたな…びっくりな釣果だ。
だが大物過ぎて、とっさに利用方法も思い浮かばない。万能アイテム使うなら最後の手段だし、取り敢えず保管しとこう。とは云え連絡先くらいゲットしとかないと最終兵器にもならないけど…と内心苦笑した。
しかし、見れば見る程に、無駄に美形だ。
生きるのが面倒臭そうだ……退屈、と云う意味で。
子供の私でさえ命令を欲しがる声を持ち、圧倒的な存在感とその美貌。誰もが傅き、拝跪するだろう支配者のオーラ。
人間、もっと平凡に生きた方が倖せだよ?
と肩をポンポンと叩いてあげたい。
涙を誘う派手派手人生。
何かやりたくても周囲が命令待ち望むなら、縦の物を横にするにも人が群がりそうな勢いだ……想像に過ぎないが、実像に近い気はする。
煩わしいと人払いは出来ても、友達は出来ないな…。
ブランコの前まで来て、彼は私を振り返る。
「童話みたいなブランコだね………どうした?」
「済みません。」
僭越にも哀れむ眸で視つめてしまい、気付かれた。
「うん。で?どうした?」
何やら感情の起伏は少ない乍ら、彼なりの上機嫌らしき眼差しでキラキラと視つめられた。
「そんな眸で見られたのは初めてだ。」
それはそうだろう。
誰が世界を動かす男相手に同情などするものか。
普通、同情などは失礼な筈だが……この人程になると、それは面白い珍奇な出来事なのか?
ごまかして逃げたかったが、それで?と追求されて、どうやら好奇心が止まらなくおなりのご様子だ。
「子供の云う事です。お気に召さなくても、お怒りにならないとお約束戴けますか?」
自分で子供申告するのも虚しいが、致し方あるまい。
夜空の眸が悩ましい色気を振り撒き乍ら、楽しそうに煌めいた。
勿論と頷く王子様。
覚悟を決めた私。
あれだ。この人が少しでも目障りだの、煩わしいだの感じたら、簡単に吹けば飛ぶのが我が家である。だが、逆に可愛いと思って下さるならば、彼が手間とも思わぬ程のソレが、例えば…大人になった私に、パーティーで笑顔や言葉一つでもかけて貰えるだけで、ずっと助かるのだ。
知り合い。なだけで。
声をかけて戴ける存在になるだけで、好意を向けられたなら、もうそれだけで、色々な煩雑な仕儀が片付いたりする。
勿論、それ以上の便宜を望めばキリは無い。
世界を動かす人。
王子様って比喩は、あながちオカシイものではないが、寧ろ王と呼ぶべきだろうか?いや。聖野が創ったカリスマと呼ばれる人だ。やはり王子様が正しいかも知れない。
不遜な想像をしてしまった。これは流石に口には出来ない。
ほんの軽口でも、私自身の人生と我が家の未来を賭けるのだから。
「お友達が、居ないだろうなあと…、可哀相だと思いました。ゴメンなさい。」
わざとらしく、子供っぽい仕草で「怒る?」と見上げる。
涙目で見上げると、王子様はクスクスと微笑う。
どうやら上機嫌だ。
ん?大丈夫なのか?勝ったの?引き分け?まさか負けで、実はお怒り?
内心ドキドキしながら王子様の発言を待つ私。
煌めく魅惑の眸が覗き込んで来る。
「嘘泣き。」
ガーン!
自信あったのに!嘘泣き初めて見破られた!?
「でも同情は本気のようだな?」
ちっ。流石、聖野の誇るカリスマ。侮れないわ。いや勿論。一度もカケラも侮ったりなどはしていない。
もの凄く気を遣ってるのに、無惨な結果だ。
笑みを消したら。ますます美しい。空にかかる月が、まるで彼を飾る装飾品の如く輝きを増した気がする。
月以上に星々以上に煌めく青年が、冷たい美貌で私を見下ろした。
「君は面白い。」
「…………。」
それはどういう?
怒ったわけでは無いのか?
まだ負けでは無いのか?
覚悟を決めて、何らかの宣告を待ったが、差し出されたのは。
美しい人は手も美しい。
指先迄が眩しい。
長い指が、私に手渡したモノ。
「いつでも。君の為なら時間を作ろう。」
超破格!?
それって大勝利?でも、この人と付き合うのは精神消耗するからアンマリ嬉しくない!!
「もう少し…、父に逢ったらお嬢さんは元気ですか?とか聞いてくれるだけだと嬉しく思うのですが。」
!!!うっかり本音ダダ洩れだっ!!
両手で口を覆った。
上眸使いに見上げる。
びくびくしつつ宣告を待つ。
「私は君から垣間見える本音が気に入ったんだ。気にしなくても良い。」
気になるに決まっている。やっぱり物凄く心臓に悪い。
この人の前だと大分踏ん張らないと、フラフラと心持ってかれるし、子供にあるまじき淫らな衝動にはかられるし、跪いて命令を待ち望みたい気持ちになるし、本音がダダ洩れになりそうだし、体力と精神の消耗が激し過ぎる。
何故か失礼になりかねない想像ばかり膨らむのもヨロシクない。
両手で口を覆ったままジリジリ後ずさる。
じいっと私の様子を見下ろしていた山瀬さまが 云った。
何やら思いついたように、何気なく爆弾を落とされた。
「この辺りは塩野家かな?潰して欲しいか?」
「………本気で、おっしゃいますか?」
すぅっと、気持ちが冷えた。10才児ナメるなよ?少なくとも、此処は、我が家の敷地内だ。
地の利は私に有る。10才の美少女が、いくら美しいとは云え青年を殺すなら、普通は美少女に利が有るだろう。
問題は年齢を問わないセックスアピールだが…まあ当たり前に児童も魅惑する人が、たまたま手を出した児童が魅力を理解せずに抵抗する…ってのは、そんなに無理が無いと考える。
「…物騒な眸をするね?誤解をしないで欲しいんだが。」
「誤解……ですか?」
人の上に立つ者は、おおらかで無いとイケない。
詰まらない事で、小さな蟻を潰してはならない。それはまあ、煩い蟻を無意識に潰してしまう事は有ろうけれど、わざわざ近寄らぬ蟻を面白づくで殺そう等と、決して有ってはならないのだ。
私も、賭けた時は煩わしい蟻になる覚悟をしたが、静かに離れて暮らす蟻を攻撃しようと云うのなら、反撃されても仕方ないんじゃないかしら。
一寸の虫にも五分の魂。ただでは死にません。
「……たまに逢ってくれたら、問題はないと思わないか?」
「そうでしょうか?少なくとも、私は今の心を貴方に知られてしまいました。このまま、無事で生きていけますか?」
殺意を向けた相手を許せるだろうか?
だが、子供相手と侮るのだろうか?彼には怯えも怒りも無い。
「その心こそを愛でたい。不羇なる者は、私には貴重な存在だ。君が何を云っても、何をしても、怒らないし、君が望む見返りを塩野家に与えると誓おう。」
「…………。」
何故そこ迄。
正直、何を約束されても、この人の機嫌ひとつで塩野なんか吹き飛ぶから、そんな人と付き合うのは嫌だ。少しだけ、気に入ってくれたなら凄く有り難いのに、今聞いただけでも破格過ぎて面倒臭い。
「云っておくが、先程潰すかと云ったのは口先だけだぞ?」
「……。」
だとしても、それを真に受けた周りの人間が実行する可能性を考えたら、危険極まりない。
「今までにもそんな事はしていないし、周りがやりそうになっても留めた。」
「……別に疑う訳では有りません。」
私は何故夜の庭に出てしまったのだろう。子供は早く寝ろと大人は云う。正しい教えを破ると罰が当たる。
二度と、遅く迄起きていたりはしません。私に平穏な人生を返して下さい。
目を閉じて祈る。
魔力を持つ声が聞こえた。
「別にしょっちゅう逢え等とは云わない。最低でも年に一度。」
神様に声が届かないのは仕方がない。
この人に向かう寵愛が、私の願いを斥けるのだ。
だが譲歩は貰った。それくらいならヨシ。
塩野家は滅多にない光栄に浴した。
……とでも考えないとやってられない。
うんざりだ。
「年に一度もお逢い出来るなんて光栄です。」
「……うん。」
ごまかし様のない棒読みだった。
声をあげて笑うのも珍しい人だろうに、山瀬様は更に珍しい事だろうが、礼儀正しく笑いを堪えた。
「………ところで。」
私はニッコリと微笑う。皆が天使の様だと賛美を惜しまない笑顔を、気合いを入れて振り撒いた。
「物騒と仰有いましたが。勿論、非力な子供には何も出来ないと、ご理解下さいますわよね?」
山瀬様は小さく吹き出した。
「勿論。」
ホッとした。
「君の殺気は本物だったし、なまじな成人男性より手強いと気付いているよ。」
山瀬様には、ご機嫌麗しく、仰せになられました。
ああ、もう何かやだ。
面倒な人と出逢ってしまった。
過ぎたる倖福は、不倖に通じる。この人に気に入られるのはそう云う事だと思う。
だが、この人本人で在るよりは、余程マシな事ではあるのだろう。
「そんなに、可哀相に見えるかな?」
楽しそうに、山瀬様が云う。
もはや隠すのも面倒臭い。殺意迄知られて、今更隠すべき何が有ろうか?
「お友達、居ないでしょう?」
「なってくれる?」
嫌だ。
だが、まあ仕方ない。
「可哀相だと思ったら負けなんですって。」
山瀬様はクスクスと笑う。
「ありがとう。」
「恋も友情も。でも、山瀬様に勝てる人なんて居ませんのに、理不尽だと思いません?」
「うん。ごめんね。」
山瀬様は素直に謝って下さった。嬉しそうに。楽しそうに。
そうして、私達はお友達になったのだけど。
山瀬様は友達を騙したら不味いだろうね?と仰有り、ゴメンね?ともう一度謝罪なさった。
曰く、実は友達が二人居たのだ…と。
けれど、内一人は亡くなり、もう一人は奥様だと云うから、やっぱり可哀相になって、私は怒るのを止めてあげたのだ。
実際。こんなに綺麗で、強くて、魅力に溢れてて、権力も振るいたい放題で、なのに何でこんなに可哀相なんだろう?
自覚が無さそうなのが、また憐れを誘う。
手に入らない月。綺麗な月。誰もが崇めて欲しがるけれど、誰もが月も自分と同じ人間だなんて思わない。
仕方ないか。
多分、二人のご友人とやらも、同じ様に思ったんじゃないかな?
仕方ないから、友達になってあげる。
慰めてあげる。
たまには笑わせてあげるから、遊びに来たいなら来たら良い。
面倒だけど、もう諦めたから、仕方ないよね…だって、可哀相なんだもん。
勿論。惚れた訳では無いけれど。
最後の砦くらいは、護らせて貰うつもりだ。
実際、魅力的だけれど、子供の内に出逢ったのは倖いなのか不倖なのか。いつか誰かをちゃんと愛せるだろうか?余りに圧倒的な魅力と接したから、普通の男性の魅力とやらが理解出来なくなったかも知れない。
そう。勿論。
彼に恋などした訳では無いけれど…、彼を恋うる事さえしなかった私が、誰かを愛する日は来るのだろうか?
この日。
私は空の月を眺め乍ら。
夜の闇に帰った、もうひとつのお月様の事をずっと考え。
結局、朝迄眠れなかった。
☆☆☆
私が少しだけ大人になった頃、山瀬様は盛大に文句をたれた。
「あの日。俺は非常に不本意だった。」
「何がでしょう?」
年月を感じさせない月の容貌は、過去を振り返り不満を述べた。
「今も昔も。俺は子供を相手にした事だけはない。」
変に執着される事は確かに有るが、来る者拒まずの山瀬様の例外が児童だった。と、長じて知った事実であった。
私は困惑した。
「まあ。勿論、疑った事も有りませんわ……。」
どうしてそんな事を云われるのか、私がそんな疑いを抱いたと思われたのだろうか?と、非常に不本意だと哀しみを湛えた眼差しで視つめた。
山瀬様は微笑った。
「うん。絶対的に君は俺を変態野郎だと思っていた。老若男女、来る者拒まずの変態だと思っていただろう?」
追求は厳しい。
長じて、これと決めた相手を騙せない事など無いのだが、山瀬様だけは例外のままだった。
「今は、ちゃんと理解してますわ。分別の無い子供の戯言など、お気になさりませんわよね?」
勿論、あれから数年を経たとは云え、今も私が子供で在る事に違いはない。
済まなそうに、愛らしく、上目使いに視つめて、けれど謝らない私に、山瀬様は苦笑する。
「勿論。気にして無いとも。だから云ってご覧?分別の有る今の君が、俺を何て思っているか云ってご覧。」
にこやかだった。
私もニッコリと微笑う。愛らしい天使の笑みだと、同性からも讃えられる笑顔は、けれど山瀬様には通じた事がない。
「うん?どうした?云ってご覧。」
上機嫌だった。
こうなると逃げられはしないと最早悟らずにいられない私である。
どんな約束が有ろうと、この人を前に本音を云うのは気合いと度胸が半端なく必要だった。
それは、一人称に「俺」を使う程、親しくなっても変わりはしない。
殆ど神風、特攻気分だ。
死ぬ気でニッコリと微笑う。
「勿論。来る者拒まずの変態ホモ野郎だと思ってますわ。」
老若男女問わずにタラシて歩く、有害麻薬なフェロモンダダ洩れ垂れ流し、の美貌の男は、女と子供は相手にしない。とは云え、好みと掛け離れる男も相手にはしないから、来る者拒まずは云い過ぎかも知れない。
自分に暴言を吐かれる事を、新鮮に感じる男がクスクスと微笑う。
「一応、愛妻家としては多少の苦情を述べたいね。」
妻を愛しているからと、妻以外の女性には一切靡かない男。だから男を相手にしても良いって法が有ろうか?いや無い。
そんな奴は変態ホモ野郎と呼ばれて当然だと思う。
だが、そんな奴が山瀬様だ………となれば、誰もそんな事は云わない。云わないだけでは無く、思いも拠らないのだ。
何年経とうとも、きっと何十年経ったとしても、月は月のまま、人間の理解を超えている。
人を狂わせてばかりで、理解もされず、愛する事も知らず。
だが、妻たる女性とは愛しあっていると云うし、最近は恋人も出来たと云うから、同情の必要は無いだろう。
と云うより、結婚してるのに恋人作ってる時点で何様?勿論、山瀬様。とか、ボケツッコミな思考にため息が洩れる。
まあ。
普通に友達増やしたり出来る人でも無いし、恋人の一人くらいは居ないと、哀れが過ぎるかも知れないし。と思った。
相変わらず付き合うのは面倒だと思うけれど、勿論嫌いではないし、長年付き合えば、情も湧く。
「友達、出来ましたか?」
問えば、いつも同じ解答が返る。
「奥さんと君が居れば良いよ。」
可哀相な人。
月の光りの様に強くて綺麗で、孤独な人。
こんなに、何もかもを持っているのに、少ししか持ってない人。
しかも、その小さな倖せを凄く大事にする人だから、憐れが募るのよね。
私は少しだけ大人になって、出逢った頃より、彼に対する同情を深めた。
倖いな事に、幼い時分に己にかけた暗示は効いていた。
私は、この人に恋はせずに済んだ。
時々。心の奥底で、嵐のように、叫び出したい様な切ない気持ちが暴れるが。
勿論。
それは、この男が可哀相だからに外ならない。
思い込みは大切だ。
私は自分自身に言い聞かせる。
もしも、うっかり恋なんかしたなら、私の不倖は決まり切っている。むざむざとそんな撤は踏めない。
私は多分。独占欲が強い。
誰かを愛するなら、その人の総てが欲しい女だ。多少の浮気ならともかく、心を共有など出来はしない。
この人を愛して、自分をコントロール出来なくなったら?
そんな無様を曝すくらいなら、それこそ、私は幼いあの日に死ぬべきだった。
この人と刺し違えてでも、死ぬべきだったのだ。
だが生きている。
それは、私がこの人に恋をしないからだ。私は、恋など理解はしない。
愛だの恋だの、そんなものの為に自分を棄てる訳にはいかない。
幼なじみの婚約者が、私を恋い慕うから、多分、いつか恋をする振り…くらいはしなければならない。
実際に恋をした人たちは、相当愚かで莫迦な真似をしている。簡単な問題を間違える。
ならば。
恋をしない私なら、勝利を収めるのは間違いない所だろう。
そう。
間違ってこんな魔性に恋さえしなければ、私の未来は安泰だ。
可哀相な月の美貌に、同情するのは良い。友達なら構わない。
友愛なら良い。
恋さえしなければ。
トキメキを知らないのは、この人に狂ったからではない。
ただ、私が恋を理解出来ない性質であるだけだ。
云い聞かせる。
勿論。本当に恋などしていないが、この人の前では、やはり相当踏ん張らないと、魅了されてとんでもない事になる。
そう。
恋ではない。魔性に狂いそうになる衝動は、ごくごく一般的なモノ。
勿論。愛ではない。
私は、少し魔力を浴びすぎて、ほんの少し、情動が麻痺しただけで、この人に狂う所為で誰も愛せなくなった訳ではない。
時々、不安になるけれど、多分大丈夫。
私は、誇り高く生きていく。
ただ、こんなのに同情した所為で、自分の情緒まで蝕まれたのは、少しばかり不条理だと思う。
綺麗な月の光を浴びて、私はいつか自分が誰かを愛せるのだろうかと疑問視する。
だが、恋など知らないままでも生きてはいける。
多少、不満なのは……
「もしかして、私はこの月を恋い慕うが故に、誰も愛せないのでは?」
などと、ふざけた考えが浮かぶ瞬間が有るからだ。
苦々しく思う。
この屈辱だけで、この男を殺しても許される気がするくらい、腹立たしい。
勿論、思うだけで実行はしない。しようとも思わない。
なのに。
「随分物騒な笑い方をするね。」
こんな時は、彼は面白がらずに、私から距離を取る。
なんて失礼な男だろう。
可哀相だけど、こんな男は私の趣味ではない。
問題は、恋など理解した試しが無いから、どんな好みか自分自身で知る事も無い……と云う事実だ。一応、婚約者は結構好きだけど。違うのかな?違う気もするなあ。
でも、なら、やっぱり。
恋なんかしたら却って困るだろう。
負け惜しみではなく、そう思う。
未だ、子供だからそう考えるのだろうか?
私は、誰も不倖にしたくはない。
月の光を見て、たまに妙な感慨に浸るとしても、私に恋は不要だと、自覚して生きていくのは、決して私の不倖ではない。
ニッコリと天使の様に微笑って、倖せな女性に、なって見せよう。
「君も相当」
と月が苦笑する。
「負けず嫌いだな。」
麻薬の様な声が云う。
私は微笑う。ニッコリと微笑う。
「だから何?」
私は私の心を護る。美しい魔物から、私に恋をする婚約者から、私に期待する家族や友人から。
私は私を護る。彼らの理想通りの姿を護る。
慎重に、爪を研ぎ、いざと云う時の為に、不羇の心を失わず。ニッコリと、倖せに微笑う。
愛らしく、たまに毒を吐く。
周囲の望む自分を、誇り高く生きていく。
その二つは、今の所、矛盾する事はない。
月の光を浴びても、私が変わる事は無い。
☆☆☆