幼馴染の正室が農民の娘を側室に推してくる件
「殿。側室をお迎えください」
俺は茶を吹きかけそうになった。
危ない。土佐藩筆頭家老家の当主ともあろう者が、正室の前で茶を吹くところだった。家臣に見られていたら、明日から俺の名は深尾出羽守ではなく、吹尾出羽守になる。
だが、笑えなかった。
志津の白い指が、茶碗の縁で一瞬だけ止まっていたからだ。
正室から側室を勧められる。
話だけ聞けば、男なら一度くらい夢見る状況かもしれない。
だが、相手が幼馴染の志津だと話は別だ。
これは夢ではない。詰問である。
「志津」
「はい」
「今、なんと言った」
「側室をお迎えください、と申し上げました」
「聞き間違いではなかったか」
「殿のお耳は、まだ御無事かと」
無事ではない。
幼馴染であり、許婚であり、いまや俺の正室である志津が、まっすぐこちらを見ている。
白い顔。細い手首。咳を隠す癖。
志津は茶碗を取ろうとして、一瞬だけ指を止めた。
ほんの一瞬だ。
だが俺は、その一瞬を見るのが嫌だった。
昔から、志津は我慢がうまい。痛みも疲れも、帳面の隅に小さく書いて閉じてしまう。だからこちらが気づいた時には、たいてい手遅れに近い。
「わしには志津がいる」
「存じております」
「ならば」
「それとこれとは別です」
出た。志津の十八番。
それとこれとは別です。
この言葉が出る時、俺はだいたい負ける。七歳の時からそうだ。
「殿。深尾の家には、跡が必要です」
「分かっている」
「分かっておられる顔ではありません」
「分かっている顔とは、どのような顔だ」
「もう少し苦い顔です」
「今、かなり苦い」
「まだ甘いです」
俺は茶碗を置いた。茶まで苦くなってきた。
「側室の話は、前にも断った」
「ええ。五度ほど」
「三度ではなかったか」
「殿が忘れておられる分を足しました」
怖い。志津の記憶力は、武士十人分の槍より鋭い。
「家臣の娘は嫌だ」
「なぜです」
「家中が面倒になる」
「では郷士の娘は」
「それも面倒になる」
「商家の娘は」
「銭の匂いがする」
「では、どなたならよいのです」
「志津」
「わたくしはもうおります」
強い。この正室、強すぎる。
「志津。わしはな、別に側室というものが嫌いなのではない」
「知っています」
「知っているのか」
「男というものは、だいたい嫌いではないのでしょう」
「その言い方は傷つく」
「事実です」
また事実。志津は事実という名の小刀をためらいなく抜く。
「ただ、わしは」
言葉が止まった。
志津は黙って待っている。待たれると、逃げ場がなくなる。
「わしは、志津以外の女を奥へ入れることが、どうにも」
「嫌なのですね」
「そうだ」
「わたくしへの情ですか」
「当然だ」
志津は少し目を伏せた。ほんの少しだけ。
だが俺は見逃さなかった。志津が感情を外に出すことは少ない。だから、ほんの一寸の揺れでも、俺には大事件である。
俺は言い過ぎたかと思った。
だが志津はすぐに顔を上げた。
「その情が、深尾の名を細らせるなら」
「言うな」
「言います」
「志津」
「言わねば、殿は聞きません」
その通りである。
俺は昔から、志津の言葉だけは逃げられない。
剣術の師の叱責は聞き流せた。家臣の諫言は半分ほど聞いた。藩主の命は当然聞いた。
だが、志津の言葉は腹に残る。
厄介な女だ。
厄介で、大事な女だ。
「分かった」
俺は言った。
「側室の件、考える」
「考えるだけでは困ります」
「では、探す」
「探すだけでも困ります」
「志津、お前はわしを逃がさぬ名人か」
「幼馴染ですので」
理由になっていない。
だが、志津はすでに勝った顔をしていた。
これはまずい。俺が幼い頃から知っている顔だ。盤上で俺の駒が三手後に死ぬ時、志津はいつもこの顔をする。
「候補がいます」
「待て」
「待ちません」
「早い。あまりにも早い」
「殿が遅いのです」
「わしが今、ようやく考えると言ったばかりだぞ」
「殿が考える間に、家は待ってくれません」
俺は額を押さえた。嫌な予感しかしない。
「誰だ」
「尾川村の娘です」
「尾川」
「はい」
「百姓の娘か」
「はい」
俺は顔を上げた。
志津は涼しい顔をしている。
尾川村の百姓娘。
その一語だけで、家臣どもが卒倒する。筆頭家老家の側室に、百姓の娘を迎えるなど。
しかも、俺は初代藩主・山内一豊公の甥にあたる。
普通ならありえない。
普通なら。
だが俺は、その娘を知っていた。
名は、呂久。ろく、と読む。
土間で麻糸を撚っていた、尾川村の娘だ。
あの娘は、俺の前で震えていた。だが、言葉だけは震えなかった。
その年の尾川は、帳面の上では飢える村ではなかった。蔵の米も、庄屋の返事も、まずまずと言っていた。
だが呂久だけは、女たちの手を見ていた。
田に長く立った年なら、爪の際にはもっと泥が残る。赤子を負う紐の結びも、もっと固い。今年は皆、手が早く空きすぎている。
だから冬が危ない、と。
母が袖を引いて止めているのも、庄屋の顔色が変わったのも分かっていて、それでも呂久は言った。
冬は、蔵が空になってから来るものではございませぬ。
女らが黙り始めたら、もう来ております。
あの言葉は、まだ俺の耳に残っている。
糸は泣くか、と問うた。
撚りが甘ければ泣く、と答えた。
人は、と問うた。
泣く前に黙る、と答えた。
俺はあの日、領内を見に行ったつもりだった。
だが、見られていなかったのは俺の方だった。
帳面を読む目しか持たぬ領主だと、あの娘に教えられた。
あの時、俺は娘の顔ではなく、言葉を覚えた。
そのはずだった。なのに、名まで忘れられなかった。
「殿」
志津の声で、我に返った。
「なぜ、その娘を」
「殿が忘れておられないからです」
「何を言う」
「その顔です」
「顔?」
「いま、殿はその娘の名を聞いて、家臣の娘の名を聞いた時とは違う顔をなさいました」
俺は口を閉じた。
しまった。
顔に出たか。
いや、俺は出していない。出していないはずだ。少なくとも家臣には見抜かれない自信がある。
だが志津は別だ。
志津は俺の顔から、俺自身も知らぬことを読む。幼い頃、隠し持っていた菓子の数まで当てた女である。
「才を買ったのだ」
俺は言った。
「呂久は領内を見る目がある。庄屋も男どもも見落とすものを、あの娘は見る」
「そうでしょうね」
「佐川には必要な目だ」
「ええ」
「だからだ」
「はい」
志津は頷いた。
頷いたが、まったく信じていない顔だった。
「何だ、その顔は」
「半分は本当だと思っております」
「半分」
「残り半分は、殿の胸にお聞きください」
胸に聞くな。
胸などというものは、だいたい余計なことしか言わない。
俺は腕を組んだ。
「百姓の娘を奥へ入れれば、家中は割れる。呂久もただでは済まぬぞ」
声が、自然と低くなった。
志津の目が少しだけ変わる。ここからは、夫婦の話だけではない。
「これは俺とお前の話では済まぬ。佐川の話だ」
「承知しております」
「それでも推すのか」
「推します」
即答だった。俺はしばらく志津を見た。
この女は、強い。だが、傷つかぬわけではない。
「志津も傷つく」
「わたくしが傷つくことなど、些事です」
「些事ではない」
俺の声が、自分でも驚くほど低くなった。
志津が、初めて黙った。
「俺にとっては、些事ではない」
志津は目を伏せた。勝った気はしなかった。
むしろ、こちらの方が痛かった。
「……存じております」
志津の声は小さかった。
それから、ほんの少しだけ咳をした。
すぐ袖で口元を隠す。
俺は立ち上がりかけた。
「志津」
「座ってください」
「しかし」
「この程度で立たれると、話が進みません」
「お前な」
「殿」
志津は俺を見た。
「わたくしは、殿をお慕いしております」
不意打ちだった。
胸の奥が、強く鳴った。
志津は、こういうことを滅多に言わない。言わない女が急に言うから、こちらは刀を抜く暇もなく斬られる。
「だからこそ、殿の名を細らせたくありません」
「志津」
「わたくしは、殿の妻です。深尾の正室です。どちらか一つだけなら、もっと楽でした」
俺は何も言えなかった。
志津は笑った。
だが、その笑みは勝者のものではなかった。
自分の胸を、自分で少しずつ切り分ける者の顔だった。
「尾川の呂久を、奥へ」
志津は言った。
「わたくしが推します」
「本気か」
「本気でなければ、このような腹の立つことを口にしません」
「腹は立つのか」
「立ちます」
「そこは隠せ」
「隠してこれです」
俺は笑いそうになった。笑ってよい場面ではない。
だが志津があまりにも志津だった。
強くて、正しくて、面倒で、苦しいほど愛しい。
「志津」
「はい」
「わしは、お前を失いたくない」
「まだ失われておりません」
「そういう意味ではない」
「分かっております」
志津は少しだけ目を伏せた。
「ですが殿。人は、持っているものを守るだけでは家を残せません。渡すものを選ばねばなりません」
渡すもの。その言葉が、胸に落ちた。
俺は領地を預かっている。米を数える。水を調べる。家臣を動かす。藩主に仕える。
だが、俺が本当に渡せるものは何だろう。
深尾の名か。
佐川の暮らしか。
志津の覚悟か。
それとも、あの尾川の娘が見た、泣く前の声か。
「分かった」
俺は言った。
「呂久を呼ぶ」
志津は頷いた。
「はい」
「ただし」
「はい」
「志津が辛い時は言え」
「言えば、殿はどうなさいますか」
「困る」
「正直ですね」
「わしは今、かなり追い詰められている」
「存じております」
志津は少し笑った。
その笑みに、俺は負けたと思った。
たぶん俺は、この女に一生勝てない。
◆
その数日後、尾川へ迎えの者を出した。
家臣どもは、当然のように騒いだ。
家臣の娘ならまだしも。庄屋筋でもない。百姓の娘を奥へなど。
そういう声が、障子の向こうからいくらでも聞こえてきた。
俺は聞こえぬふりをした。
ふりをしながら、胸の奥で同じ問いを繰り返していた。
才を買った。
それは嘘ではない。
呂久は、領内を見る目を持っている。米蔵の数ではなく、人の腹を見る。男の報告ではなく、女の手を見る。
佐川には、あの目がいる。
だが、それだけか。本当に、それだけか。
答えは出なかった。
いや、出ていたのかもしれない。
ただ、俺が見ないふりをしていただけで。
やがて、呂久が来た。
駕籠から降りた娘は、ひどく緊張していた。着物は整えられていたが、膝の上には粗い布を抱えていた。
尾川の布だろう。売り物にもならぬ、目の乱れた木綿。
だが呂久は、それを手放さなかった。
志津がそれを見た。俺も見た。
この娘は、尾川を捨てて来たのではない。
尾川を抱えて来たのだ。
「呂久」
俺が名を呼ぶと、娘はびくりと肩を震わせた。
「怖いか」
呂久は少し考えた。
普通なら、ここは「いいえ」と答えるところだ。奥へ召された身で、殿の前で「怖い」などと言う女はまずいない。
だが呂久は、まっすぐ俺を見た。
「怖うございます」
「そうか」
「けれど」
呂久はまた少し考えた。
「殿の方が、少しお困りのように見えます」
俺は返す言葉を失った。
隣で、志津がかすかに笑った。
「なるほど」
俺は思わず呟いた。
「これは確かに、ただの百姓娘ではない」
呂久は困ったように目を伏せた。
その顔が、なぜか忘れがたかった。
◆
その夜、志津が言った。
「殿」
「何だ」
「顔が甘いです」
「また顔か」
「はい」
「どのように」
「隠しきれておりません」
「何を」
「それを、わたくしに言わせますか」
俺は黙った。
言わせたくなかった。
だが、言ってほしいと思ってしまった。
志津は茶を飲んだ。
俺も茶を飲んだ。
苦い。今日の茶は、やけに苦い。
だが、どこか温かかった。
話だけ聞けば、笑い話にもならぬ。
幼馴染の正室が、農民の娘を側室に推してくる。
俺にとっては十分に地獄だった。
だがその地獄の入口で、志津は正しく立っていた。
そして奥の向こうには、呂久がいる。
糸の泣く音を聞く娘。
人が泣く前に黙ることを知る娘。
俺はたぶん、とんでもないものを奥へ入れた。
鷹でもない。
茶壷でもない。
もっと厄介で、もっと手放せないものを。
こうして、深尾家の奥は静かに荒れ始めた。
その中心にいたのは、正室と、側室と、なぜか一番胃を痛めている俺である。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
創作の励みになりますので、評価・感想をよろしくお願いします。
本作は、土佐藩筆頭家老・佐川深尾家二代当主、深尾重昌と側室として伝わる、お呂久さまを題材にした歴史恋愛短編です。
正室が側室を勧める、というだけ聞くとなかなか重い題材ですが、本作では「妻に勝てない当主」と「強すぎる正室」と「ただの百姓娘ではない呂久」の三人が、これから深尾家の奥を静かに荒らしていく入口として書いてみました。
お呂久さまは、尾川村の百姓の娘でありながら深尾重昌の側室となり、才色兼備の賢婦として伝わる女性です。機織りや領内の新田開発・植林・治水事業にも関わったとされ、単に「殿様に愛された女性」ではなく、領民にも慕われ、佐川の土地に働きと名を残した人物だったようです。
また、お呂久さまについては、
佐川殿様お宝ものは、
野田の太兵衛さんに白斑のお鷹、
唐の茶壷にお呂久さま
という俗謡が伝わっています。
なお、深尾重昌の正室に関する史料はほぼなく、志津という名前や、幼馴染設定、奥向きのやり取りは創作です。史実・伝承の隙間に、ライトな物語として糸を通しました。
同じ題材で、文芸寄りに書いた『佐川様の御宝物』も投稿しています。呂久と志津を中心にした静かな話です。
ご興味ありましたら是非、ご一読ください。




