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『絶対記憶』の鑑定士が、勇者の嘘を暴くまで

作者: キュラス
掲載日:2026/06/24

私の脳は、呪われた羊皮紙によく似ている。

一度書き込まれた情報は、それがどれほど些細なものであろうと、あるいはどれほど忘れてしまいたい悲惨な記憶であろうと、二度と消え去ることはない。


私が八歳の春、王都の広場で見た大道芸人がジャグリングで落とした林檎の数。

十歳の秋、流行り病で息を引き取った母が、最後に零した血の飛沫の形。

そして、この鑑定士という職に就いてから、私の目と指先が触れてきた、数万点にも及ぶあらゆる物品の『完全なる情報』。


長さ、重量、重心、傷の一つ一つ、素材の経年劣化の度合いに至るまで。

私――エミール・ルミエールの脳内には、それら全てが寸分の狂いもなくファイリングされ、いつでも鮮明な映像と数値として引き出すことができる。

世間はこれを『絶対記憶』という都合の良いギフトとして持て囃し、私は若くして王宮筆頭鑑定士という栄誉ある地位を手に入れた。


だが、この能力がもたらすのは栄光ばかりではない。

今、目の前に置かれた『絶望の証』を前にしても、私の脳は冷徹に、そして残酷なまでに、過去の記憶との照合を始めてしまうのだから。


*****


「……エミール殿。どうか、頼む。これは、我ら人類にとっての悲報であり、同時に、歴史に永遠に刻まれるべき英雄たちの生きた証なのだ」


重々しい声が響く。

王城の最奥、厳重な結界が張られた宝物庫の特別室。

私に頭を下げたのは、白髪の混じった髭を震わせる、この国の宰相だった。


宰相の視線の先、純白のベルベットが敷かれたテーブルの上には、泥と赤黒い血に塗れた、いくつかの遺品が並べられていた。


魔王討伐の旅に出ていた勇者パーティー。

人類の希望を一身に背負った四人の若者たち。

彼らが魔界へと旅立ってから三年。昨日、その結末が王都に知れ渡った。


帰還したのは、勇者レオンハルトただ一人。

右目を失い、左腕は肘から先が欠損し、全身に無数の呪いを受けた凄惨な姿で、彼は王城の門の前に倒れ込んだ。

そして、駆け寄った近衛騎士たちに、掠れた声でこう告げたのだという。


『すまない……魔王の力は、あまりにも強大だった……。俺以外の仲間は、全員……』


勇者レオンハルトの口から語られた事実は、王都を深い悲しみの底に突き落とした。

聖女、大魔導士、重戦士。彼の無二の親友であり、最強の仲間たちは、魔王の玉座を目前にして全滅した。

勇者自身も致命傷を負い、折れた聖剣と仲間たちの遺品を回収して、命からがら逃げ帰ってくるのが精一杯だったという。


王都中には弔いの鐘が鳴り響き、人々は涙に暮れている。

現在、勇者レオンハルトは王城の特別医療室で、高位神官たちの懸命な治療を受けている最中だ。命に別状はないらしいが、仲間を失った精神的ショックから、虚ろな目で宙を見つめるばかりだという。


「彼が持ち帰ったこれらを、国家の最高機密遺物として保存する。その前に、エミール殿の『絶対記憶』をもって、これらが間違いなく彼らの持ち物であったか、そして、魔王との戦闘においてどのようなダメージを受けたのかを、詳細に記録文書に残してほしいのだ。……魔王の脅威を、正確に後世に伝えるために」


「……承知いたしました。私の目と記憶にかけて、必ずや」


私が静かに頷くと、宰相はハンカチで目頭を押さえながら退室していった。

分厚い鉄の扉が閉まり、室内には私と、数点の遺品だけが残された。


静寂の中、私は深呼吸をして、白い手袋をはめた。

テーブルの上に並んでいるのは、三つの物品。


一つ目は、聖女が身につけていた『女神の涙』と呼ばれる魔石のペンダント。

二つ目は、国王陛下が旅立ちの日に勇者に直接下賜した『誓約の金貨』。

そして三つ目が――人類の至宝、魔を祓う神の武具、『聖剣デュランダル』の折れた刀身と柄だ。


「まずは、ペンダントからか」


私は、血に汚れ、魔石の部分がひび割れたペンダントを手に取った。

目を閉じ、三年前の記憶を引き出す。


『王暦四百十二年、三月五日。聖女アリアの壮行会にて鑑定』

『チェーンの材質:ミスリル銀。長さ:四十五センチ。総重量:十二・五グラム』

『魔石のカット数:五十八面。内包物インクルージョンの位置:右下十五度の位置に微小な黒点』


目を開き、手元のペンダントを特殊なルーペで覗き込む。

血汚れを慎重に拭き取り、ひび割れた魔石の内部構造を確認する。右下十五度の位置にある微小な黒点。チェーンの編み込みのパターン。

間違いない。これは間違いなく、三年前のあの日、聖女アリアの胸元で輝いていた本物の『女神の涙』だ。

ひび割れの形状から、強大な闇属性の魔法を至近距離で受け、持ち主の身代わりとなって許容量を超えた魔力を吸収し、砕け散ったことが推測できる。


「……アリア様。貴女は最後まで、仲間を守る盾となったのですね」


私は静かに黙祷を捧げ、所定の羊皮紙に鑑定結果と状況推測を書き込んだ。


続いて、二つ目。

国王陛下が勇者レオンハルトに授けた『誓約の金貨』。

これは単なる貨幣ではない。王家の血を混ぜて鋳造された特殊な魔法具であり、所持者の生存を王城の魔力盤に伝える役割を持っていた(仲間が全滅した魔界の最深部では、瘴気に阻まれて通信が途絶していたようだが)。


私はその金貨を指先でつまみ上げ、掌に乗せた。

三年前の記憶が、鮮明に蘇る。


『王暦四百十二年、三月四日。下賜の儀の前夜に鑑定』

『材質:王家の純金及び霊血。直径:三十ミリ。厚さ:二・五ミリ』

『重量:十五・〇二グラム』

『特徴:鋳造時の微細なエラーとして、裏面の王冠の紋章、左から三番目の飾りに、肉眼では見えない〇・一ミリの引っかき傷あり』


私は、手元の金貨をルーペで確認する。

激しい戦闘のせいか、表面は傷だらけになり、一部は熱で溶けかかっている。

だが、裏面の王冠の紋章部分は奇跡的に原形を留めていた。


ルーペの倍率を上げ、左から三番目の飾りを確認する。

傷はある。

だが――。


「……ん?」


私は、ふと違和感を覚えた。

傷の位置が、違うのだ。

私の記憶では、傷は左から三番目の飾りの『右下』から『左上』に向かって斜めに入っていた。

しかし、今手元にある金貨の傷は、『左下』から『右上』に向かって入っている。

まるで、鏡に映したかのように、傷の向きが完全に『反転』しているのだ。


「そんな馬鹿な……」


私は急いで、精密天秤を引っ張り出し、その金貨を乗せた。

天秤の針が揺れ、ピタリと止まった数値を見る。


『十五・〇七グラム』


冷や汗が、背筋を伝い落ちた。

純金の質量は、どれだけ傷がつき、熱で変形しようと、削り取られない限り重さが増えることは絶対にない。むしろ、傷ついている分、軽くなっていなければおかしいのだ。

それなのに、記憶よりも『〇・〇五グラム』重い。


私の『絶対記憶』が間違っている?

いや、あり得ない。私の脳は、ただの記録媒体ではない。世界の真実をそのまま写し取る鏡だ。十五・〇二グラムという数値に、一ミリの疑いもない。


ならば、この金貨はなんだ?

本物の金貨と全く同じ魔力を放ち、王家の血の匂いすら再現されている。だが、物理的な構造が、私の記憶と決定的に矛盾している。


「……まさか、偽造品(贋作)……?」


誰が? 何のために?

いや、そもそもこんな完璧な偽造品(重量の僅かな誤差と傷の反転を除けば、完璧だ)を、魔王城の奥深くで戦っていた勇者が、どうやって用意したというのだ。


動悸が激しくなるのを感じながら、私は最後の遺品――折れた『聖剣デュランダル』に手を伸ばした。

柄の部分と、中腹から無惨にへし折れた刀身。


『王暦四百十二年、三月一日。国宝庫にて鑑定』

『材質:神鳥の羽を練り込んだオリハルコン。全長:百五センチ。重量:二・一キログラム』

『内部構造:百二十層に折り重なった神鋼の結晶体』


私は、折れた刀身の『断面』をルーペで覗き込んだ。

聖剣が折れるほどの凄まじい衝撃。どのような攻撃を受ければ、これほどの神の金属が砕けるのか。その軌跡を読み取ろうとした、その時だ。


「――っ!?」


私は思わず、手に持っていた刀身をテーブルに取り落としそうになった。

カチン、と高い音が特別室に響く。


断面の構造が、狂っている。

オリハルコンを鍛え上げた聖剣の内部は、本来、緻密な層を成した結晶構造になっているはずだ。

しかし、この折れた断面に見えるのは、ただの均一な金属の塊……例えるなら、鉄を溶かして型に流し込んだだけの『鋳物』の断面だった。


外見は、完全に聖剣デュランダルだ。

刃こぼれの位置、柄の革の擦り切れ具合、全てが本物と見紛うばかりの精巧さ。

だが、その『内部』は、ただの鉄の塊に聖なる魔力を纏わせただけの、ハリボテの粗悪品。

折れたことで初めて、その内部の偽装が露呈したのだ。


「……贋作だ。金貨も、聖剣も。全て、本物そっくりに作られた偽物……!」


私は口元を手で覆い、荒い息を吐いた。

どういうことだ? 勇者レオンハルトは、偽物の聖剣と金貨を持って帰還したというのか?

聖女のペンダントだけは本物だった。だが、他の二つは明らかに作られたものだ。


その時、私の脳裏に、一つの恐るべき『魔物』の伝承が閃いた。

魔界の最深部に棲まうとされる、最悪の精神干渉型魔族。


対象の脳に侵入し、その『記憶』と『姿形』、さらには『魔力波長』までを完全にコピーして成り代わる魔物――『ドッペルゲンガー』。


ドッペルゲンガーは、対象の記憶を読み取り、その記憶を元にして自らの肉体や持ち物を「再構築クリエイト」する能力を持つ。

もし、勇者レオンハルトが魔界でドッペルゲンガーに殺され、成り代わられていたとしたら?


ドッペルゲンガーは、勇者の記憶を頼りに、折れた聖剣や金貨を偽造した。

しかし、勇者自身は、金貨の重さが正確に何グラムであるかや、顕微鏡レベルの傷の向き、ましてや聖剣の内部の結晶構造までは知らなかったはずだ。

だからこそ、ドッペルゲンガーが勇者の記憶から再構築したアイテムには、外見だけをなぞった『解像度の低い矛盾』が生じてしまった。


金貨の傷が反転していたのは、勇者が金貨を鏡の前で見た記憶、あるいは頭の中で思い描いた際のイメージの反転を、そのまま物質化してしまったからだろう。


「……勇者は、偽物だ。魔王軍の刺客が、勇者の姿で王城ここに入り込んでいる……ッ!」


血の気が引く。

この王城は、強力な対魔族結界に覆われている。いかなる上位魔族であろうと、結界を抜けようとすれば即座に灰となる。

だが、勇者の記憶、肉体、そして『魂の波長』までを完全にコピーしたドッペルゲンガーであれば?

結界は彼を「勇者レオンハルト」と誤認し、素通りさせてしまう。


今、医療室には国王陛下自らが慰問に向かっているはずだ。

もし、あのボロボロの姿が、王の懐に潜り込むためのドッペルゲンガーの擬態だとしたら。


「陛下が危ない……!」


私は手袋を剥ぎ取り、鑑定室の扉に向かって駆け出そうとした。

だが。

ドアノブに手をかけた瞬間、私の『絶対記憶』が、頭の中で強烈なアラートを鳴らした。


待て。

何か、致命的なピースが欠けている。


私は足を止め、再びテーブルの上の贋作たちを振り返った。

ドッペルゲンガーの生態について記された、王立図書館の禁書指定セクション、第三棚の上から二段目にある黒革の魔導書。

そこに記されていた一行のテキストが、脳裏にフラッシュバックする。


『――ドッペルゲンガーによる完全なる記憶と魂の複写は、対象が激しい抵抗を見せた場合、必ずノイズが生じる。王城の結界を欺くほどの完璧な魂の複写コピーを行うためには、対象が自らの意志で、精神の防御を完全に解き放ち、魂を明け渡す「同意」が不可欠である――』


同意。

自らの意志で、魂を明け渡す。


「……まさか」


勇者レオンハルトは、不意打ちで殺されたのではない。

激しい戦闘の末に敗れ、無理やり成り代わられたのでもない。


彼は、自らの意志で、ドッペルゲンガーに自分の記憶と姿を渡し、この王城に送り込んだのだ。

人類の希望である勇者が、魔王の配下である魔族と結託し、あえて彼らを王都の心臓部に招き入れた。


なぜだ?

正義感に溢れ、誰よりも人間を愛していたあのレオンハルトが、人類を裏切ったというのか?


私は、額に浮かんだ冷や汗を拭うことも忘れ、その場に立ち尽くした。

思考を加速させろ。私の絶対記憶の中にある、全ての情報を繋ぎ合わせるんだ。


勇者が旅立つ前、最後に私が彼と交わした会話。

金貨の鑑定。聖剣の傷。

そして……三年前、勇者パーティーの結成式典の際、国王陛下が彼らにかけた言葉と、その時の陛下の『影』の形。


『――頼んだぞ、若き英雄たちよ。忌まわしき魔王を討ち、この世界に光を取り戻してくれ』


あの時、国王陛下の背後に伸びていた影は、シャンデリアの光の角度から計算される物理的な形状とは、ほんの数ミリだけ異なっていた。

当時、私はそれをただの目の錯覚か、あるいは魔法石の反射の揺らぎだと処理して記憶の奥底にしまい込んでいた。


だが、もしあれが錯覚ではなかったとしたら?

もし、この王都の心臓部そのものが、とうの昔に『黒』に染まっていたとしたら?


「……反転しているのは、金貨の傷だけじゃない」


私は震える唇から、恐るべき仮説を紡ぎ出した。


「勇者たちが討伐に向かった先……魔界にいたのは、魔王なんかじゃない。本物の魔王は、最初からずっと、この王城の『玉座』に座っていたんだ……」


勇者レオンハルトは、魔界の最深部でその真実に気づいたのだ。

自分たちが討ち果たすべき巨悪は、魔界ではなく、自分たちを送り出した故郷の王城にいることに。

しかし、玉座に座る魔王は、強固な対魔族結界(本来は人間を守るためのものを、魔王が人間を装って悪用しているのだ)と、何も知らない近衛騎士たちに守られている。

真正面から帰還して刃を向ければ、勇者は「王に反逆した狂人」として人間たちの手によって殺されてしまうだろう。


だから、勇者は魔界の者(魔族ではなく、魔王の支配に抗うレジスタンスのような存在だったのかもしれない)と手を組んだ。

自分の魂と記憶を彼らに託し、悲劇の生存者を装って結界を抜けさせ、玉座の魔王を暗殺させるために。


今、特別医療室にいるのは、王を暗殺するために潜入した決死の刺客。

そして、私に見せられたこの『贋作の遺品』たちは……私の絶対記憶を信頼した勇者レオンハルトからの、無言のダイイング・メッセージだったのだ。


『エミール。お前なら、これが偽物だと気づくはずだ。そして、俺がなぜこんなものを持ち込ませたのか、その真意に辿り着けるはずだ。……後のことは、頼んだぞ』


そう、声が聞こえた気がした。


ガンッ!!


突如、重厚な鑑定室の扉が外から激しく叩かれた。


「エミール殿!! おられるか!! 大変だ!!」


宰相の悲痛な叫び声だった。

私は息を呑み、テーブルの上の遺品に布をバサリとかけて隠すと、扉の鍵を開けた。


血相を変えた宰相が、転がり込むように入ってくる。


「……宰相閣下。いかがなされました」

「い、医療室で……勇者レオンハルトが……!!」


宰相は、恐怖に顔を引き攣らせ、ガチガチと歯を鳴らしながら言った。


「慰問に訪れた国王陛下に、突然、隠し持っていた短剣で襲いかかったのだ!! 陛下は咄嗟に身を躱されたが、近衛の刃を受け、勇者は……勇者は、死亡した……!!」


遅かったか。

いや、違う。暗殺は失敗した。

魔王である国王は、勇者の姿をした刺客の攻撃を紙一重でかわし、返り討ちにしたのだ。


「……なんということだ。仲間を失った絶望で、勇者の精神は魔に魅入られ、狂ってしまっていたというのか……!」

宰相は頭を抱え、涙を流している。彼は何も知らないのだ。


「エミール殿。鑑定は終わったか!? 勇者が狂気に陥った原因が、その遺品に宿った呪いかもしれない! 今すぐ破棄しなければ……!」


宰相がテーブルに手を伸ばそうとする。

私は、それを遮るように立ち塞がった。


ここで私が、「これは贋作だ」と真実を告げればどうなるか。

勇者の暗殺計画は完全に露見し、魔王である国王は、魔界の勢力に対する粛清を大義名分のもとに開始するだろう。

人類は、魔王の手のひらの上で、本当の味方を滅ぼすための戦争に駆り出されることになる。


私の絶対記憶が、一つの冷酷な最適解を弾き出した。


勇者の嘘を暴くのは、今ではない。

この真実は、私が一人で抱え込まなければならない。


「……宰相閣下」


私は、極めて冷静な、王宮筆頭鑑定士としての仮面を被り、宰相を真っ直ぐに見据えた。


「鑑定は、完了いたしました」

「おお! では、これらは……!」


私は、背後のテーブルにある贋作たちを背中で庇いながら、はっきりとした声で宣言した。


「これらは全て、間違いなく彼らの本物の遺品であり……一切の呪いは感知されませんでした。勇者様は、ただ純粋な絶望と悲しみによって、心を病んでしまわれたのでしょう。……人類の英雄として、彼を名誉ある国葬で見送るべきです」


私の言葉に、宰相は安堵したように深く息を吐き、「そうか……ならば、急ぎ国葬の手配を進めねば」と呟きながら、足早に去っていった。


再び一人になった鑑定室。

私は、自分の手首を強く握りしめた。震えを止めるために。


私は今、人類国家に対して決定的な『嘘』をついた。

鑑定士としての誇りを捨て、偽物を本物であると証言した。

だが、後悔はない。


「……レオンハルト。お前のダイイング・メッセージは、確かに受け取った」


私は、テーブルの上の贋作の金貨と、折れた聖剣の柄を、自らのインベントリの奥底へと隠した。


お前が命を賭して暴き出した真実を、無駄にはしない。

玉座に座る偽りの王を引きずり下ろし、本当の光を取り戻すための、孤独で長い反逆の戦い。

それを成し遂げるための武器は、剣や魔法ではない。


この、絶対記憶すべてをわすれないの脳髄一つで、私は魔王の嘘を暴き、世界をひっくり返してやる。


*****


勇者レオンハルト――正確には、彼の姿と記憶を受け継いだ名もなき暗殺者――の国葬は、王都中が悲しみに暮れる中で厳かに執り行われた。

彼が持ち帰った『遺品』は、人類の至宝として王宮の宝物庫の最深部に安置されることとなった。王宮筆頭鑑定士である私が「本物であり、呪いなど一切ない」と完璧な鑑定書を作成したことで、誰一人としてそれらが『ドッペルゲンガーが勇者の記憶から生み出した贋作』であると疑う者はいなかった。


国葬から二週間。

悲しみを乗り越え、王都は今、かつてないほどの熱気に包まれている。


『忌まわしき魔界の王よ! 我らの希望である勇者を奪い、あまつさえその精神を蝕み狂気に陥らせた罪、決して許すことはできない! 我ら人類は今こそ立ち上がり、魔界をこの世から浄化する聖戦を開始する!』


バルコニーから民衆に向けて放たれた、国王陛下の力強い演説。

それに呼応する民衆の歓声は、地鳴りのように王城を揺らした。


(……見事なものだ)


私は自室の窓からその光景を見下ろし、冷たい紅茶を喉に流し込んだ。

人類を扇動し、魔界へと進軍させる。それは一見、人間側の正当な怒りによるものに見える。

だが、あの玉座に座っているのが『魔王』そのものであるという真実を知ってしまった今、この聖戦の構図はひどく醜悪な喜劇でしかなかった。


魔王は、勇者という危険分子を排除し、さらに人間の怒りを煽ることで、自分に反抗する魔界の勢力レジスタンスを、人間たちの手によって殲滅させようとしているのだ。

人間と、魔王に逆らう魔族。両者を潰し合わせ、自分は安全な王城の結界の内側で高みの見物を決め込む。

それが、王の皮を被った怪物の描いたシナリオだった。


「……だが、お前のシナリオには一つだけ、致命的なバグがある」


私は窓を閉め、分厚い遮光カーテンを引いた。

部屋の明かりを落とし、私は脳内に広がる広大な『記憶の書庫』へと意識をダイブさせた。


この二週間、私は通常の鑑定業務の傍ら、脳内の記憶を総動員して『国王陛下』に関するあらゆる情報を洗い直していた。

王暦四百十二年の現在から遡ること十五年。

先代の王が崩御し、現在の国王が即位した『王暦三百九十七年』の記録。


私の絶対記憶は、彼が即位した日から現在に至るまでの、王城内のあらゆる『物品の変化』を正確に捉えていた。


『王暦三百九十七年、九月十二日。戴冠式』

当時の王冠の重量、装飾の配置。そして、それを受け取る国王の指先の動き。

当時の国王は、緊張した際に左手の薬指の腹を、親指で軽く擦るという無意識の癖があった。戴冠式の最中、彼はその動作を三回行った。


しかし、その癖は『王暦四百二年』を境に、完全に消失している。

さらに、王暦四百二年の春、王城を覆う大規模な『対魔族結界』の魔力回路の大規模な修繕工事が行われた。

表向きは結界の強化。だが、私の脳内に記録されている当時の魔力波長のスペクトルと、現在のスペクトルを比較すると、恐るべき事実が浮かび上がる。


(波長の性質が、『外部からの魔族の侵入を防ぐ』ものから、『内部の強大な魔力を外部に漏らさない』ための隠蔽型へと反転している……!)


間違いない。

今の国王が『魔王』にすり替わったのは、今から十年前の王暦四百二年だ。

十年間、彼は完璧な名君を演じ切り、人類のトップに君臨し続けてきた。その間、王の身の回りの世話をする側近たちは何度か入れ替わっているが、表立った不審死はない。極めて狡猾で、知能の高い怪物。


私がこの事実を広場の中央で叫んだところで、誰も信じないだろう。

「筆頭鑑定士が狂った」と処理され、地下牢に放り込まれて終わりだ。

魔王を討つためには、絶対に言い逃れのできない『物理的な証拠』と、王を直接討ち取ることができる『力(戦力)』が必要だ。

私のような、戦闘力皆無の非力な鑑定士一人ではどうにもならない。


コンコン。


その時、自室の重厚なマホガニーの扉が、控えめに、しかし確かな威圧感を持ってノックされた。


「……どなたですか」

「近衛騎士団長、ヴァレリウスです。エミール殿、国王陛下が直々に貴殿をお召しです。至急、謁見の間へ」


心臓が、ドクンと冷たく跳ねた。

国王からの、直接の呼び出し。

勇者の遺品の鑑定から二週間。魔王はついに、私という存在に疑いの目を向け始めたのだろうか。


「……承知いたしました。すぐに向かいます」


私は自らを落ち着かせるため、記憶の中にある『円周率』を千桁まで暗唱しながら、制服のシワを伸ばし、扉を開けた。


*****


謁見の間は、重苦しい静寂に包まれていた。

真紅の絨毯の奥、黄金の装飾が施された玉座に、国王が深く腰掛けている。

その左右には、近衛騎士団長ヴァレリウスをはじめとする完全武装の騎士たちが、微動だにせず立ち並んでいた。


「よく来てくれた、我が誇る筆頭鑑定士エミールよ。近う寄れ」


威厳に満ちた、深く温かみのある声。

民衆が慕い、家臣が忠誠を誓う、完璧な『人間の王』の姿がそこにあった。

だが、その実態を知る私の目には、玉座に座るその男の輪郭が、どす黒い瘴気の陽炎を纏っているように見えて仕方なかった。


私は絨毯を進み、玉座から十歩手前の位置で、流れるように完璧な臣下の礼をとった。


「お呼びとあらば、いかなる時でも。陛下、本日はどのようなご用命でしょうか」

「うむ。他でもない、先日のレオンハルトの遺品についてだ」


王の言葉に、周囲の空気がわずかに張り詰めたのが分かった。

私の心拍数が上がりかけるのを、脳内の記憶で『海底の静寂』を呼び起こし、強制的に抑え込む。

血圧、脈拍、呼吸、瞳孔の開き具合。

全てを完璧にコントロールしなければ、この怪物の前では一瞬で喉笛を食い破られる。


「先日、お前はあれらを『間違いなく本物であり、呪いの類はない』と鑑定したな」

「はい、陛下。私の絶対記憶と鑑定眼にかけて、間違いございません」

「……そうか。だが、余は少し心配なのだ」


王はゆっくりと立ち上がり、玉座の階段を下りて私の目の前まで歩み寄ってきた。

彼が動くたびに、高価な香水の奥底から、微かにだが鼻を突くような『鉄錆と腐肉』の匂いが漂ってくる。


「レオンハルトは、余の目の前で狂刃を振るい、死んだ。彼の心は魔界の瘴気に完全に侵されていたのだ。ならば、彼が持ち帰った遺品にも、我々の目に見えない……あるいは、お前の鑑定の目をすら欺くような、未知の魔力が仕込まれていた可能性はないだろうか?」

「……未知の魔力、でございますか」

「そうだ。例えば、対象の精神に干渉し、狂気を伝染させるような遅効性の呪い。余は、国宝としてあれらを王宮に置くことに、一抹の不安を覚えてな」


王の灰色の瞳が、私の目を真っ直ぐに射抜く。

まるで、私の心の奥底まで全て見透かそうとするような、爬虫類を思わせる冷酷な眼差しだった。


これは、カマかけだ。

魔王は、勇者が偽物ドッペルゲンガーであったことを、当然知っている。

なぜなら、暗殺の刃を向けられた際、その一撃の速度や魔力波長から、相手が本物の勇者ではないことに気づいたはずだからだ。

しかし、だとしたら一つの矛盾が生じる。


なぜ、筆頭鑑定士であるエミールは、ドッペルゲンガーが作った『粗悪な贋作』を『本物』だと鑑定したのか?


無能ゆえの見落としか。

それとも、勇者の暗殺計画に加担している反逆者レジスタンスなのか。


魔王は今、私を試しているのだ。


「……恐れながら、陛下。私の絶対記憶は『過去の事実』との完全なる照合を行うものです。もしあの遺品に、三年前の出立時には存在しなかった未知の魔力や呪いが付与されていれば、それがどれほど微弱なものであっても、私の脳は即座に『異常』として検知いたします」


私は、伏せていた顔を上げ、魔王の眼差しを正面から受け止めた。

瞬きすらしない。一切の動揺を見せない、完璧な機械の瞳で。


「聖剣デュランダルの刀身は百二十層の結晶構造を完全に保っておりました。誓約の金貨は、十五・〇二グラムの質量と、左から三番目の飾りの右下から左上への微小な傷まで、三年前と完全に一致。聖女アリア様のペンダントも同様です」


私は、すらすらと『本物のデータ』を読み上げた。

実際に私が見た贋作のデータ(十五・〇七グラムや、反転した傷など)ではなく、私の記憶の中にある『絶対に揺るがない本物の真実』を。


「あの遺品は、物質的にも魔力的にも、三年前と同一のものです。もしアレが偽物だとしたら、神すらも欺く完全なる物質創造の奇跡が起きたことになります。そのようなことは、あり得ません。ゆえに、あれは本物です。勇者様が狂気に陥ったのは、遺品の呪いではなく……純粋な心の限界であったと、私は鑑定いたします」


私の言葉が謁見の間に響き渡り、やがて静寂が戻った。

王は、私の顔をじっと見つめたまま、数秒間、彫像のように動かなかった。


私の背中を、嫌な汗が流れ落ちていく。

バレたか?

私が嘘をついていることを見破られたか?


やがて、王の口元がゆっくりと吊り上がった。


「……ふむ。見事だ」


王は鷹揚に頷き、元の優しげな為政者の顔へと戻った。


「お前のその揺るぎない自信。そして、細部に至るまでの完璧な記憶力。まさに我が国の至宝と呼ぶにふさわしい。……疑うようなことを言ってすまなかったな、エミールよ」

「とんでもございません。陛下の御心を安んじることこそ、私の責務にございます」

「うむ。お前がそこまで言うのであれば、あれは本物なのだろう。余も安心した。大義であった、下がってよいぞ」


「はっ」


私は一礼し、ゆっくりと後ずさりしながら謁見の間を退出した。

分厚い扉が閉まり、廊下に出た瞬間。

私は壁に手をつき、肺の奥に溜まっていた息を大きく吐き出した。

手袋の中の手は、じっとりと冷や汗で濡れていた。


(……誤魔化せた、のか?)


いや、魔王が完全に信じたとは思えない。

だが、私が『本物のデータ』を完璧に暗唱してみせたことで、少なくとも「エミールは偽物だと気づいた上で隠蔽している」という確信は持てなかったはずだ。

もしエミールが本物のデータと完全に一致していると「本気で勘違い」しているのだとすれば、殺す理由はまだない。


猶予は得た。

だが、長くは持たないだろう。

急がなければ。魔王を討つための具体的な『証拠』と『手立て』を見つけ出さなければ。


私は速足で自分の執務室へと戻った。


執務室の鍵を二重にかけ、周囲に盗聴や監視の魔法がないかを入念に確認する。

そして、部屋の隅にある隠し金庫を開け、厳重に封印を施した小さな木箱を取り出した。


箱の中に入っているのは、勇者の遺品のうち、唯一の『本物』。

聖女アリアが身につけていた『女神の涙』のペンダントだ。


なぜ、聖剣と金貨はドッペルゲンガーが作った贋作だったのに、このペンダントだけが本物だったのか?


(勇者レオンハルトは、わざと『本物』と『偽物』を混ぜて持ち込ませた。私に違和感を持たせるためだけなら、全て偽物でも良かったはずだ。だというのに、なぜアリアのペンダントだけを実物で残した?)


私は、ひび割れた魔石をルーペで再び詳細に観察し始めた。

闇の魔力によって砕け散った痕跡。

だが、私の絶対記憶は、このひび割れの『形状』に、ある特定の法則性があることを見逃さなかった。


自然な衝撃や魔法の負荷で割れたにしては、クラック(亀裂)の入り方が不自然なのだ。

まるで、意図的に内部から魔力を操作し、特定の形に割れるように仕向けたような……。


「……まさか」


私はピンセットを使い、ひび割れた魔石の破片を、ミリ単位でパズルのように慎重に組み合わせ、解体し、光の当たる角度を変えてみた。

青い魔石の破片に、窓からの光を透過させる。

すると、複雑に絡み合った亀裂の線が、内部の屈折によって、虚空に微かな『文字』の影を映し出したのだ。


『光を恐れるな。地下水道、第三区画。旧聖堂の足元に、我らの真実を残す――アリア』


「聖女、アリア……!」


私は息を呑んだ。

これは、勇者レオンハルトからのメッセージではなかった。

聖女アリアが、死の直前、あるいは魔王の真実に気づいた時点で、自らのペンダントに刻み込んだ『遺言』だったのだ。


彼女は天才的な魔力操作の使い手だった。魔石の内部構造に魔力で干渉し、ひび割れた時にだけ文字が浮かび上がるように仕組んだのだろう。

ドッペルゲンガーには、この魔石の内部の暗号までは読み取れなかった。だからこそ、レオンハルトはこれをあえて『本物』のまま、ドッペルゲンガーに持たせたのだ。エミールなら、必ずこの暗号に気づいてくれると信じて。


「地下水道、第三区画……旧聖堂の足元……」


王都の地下には、かつて千年以上前に作られた巨大な旧市街の遺跡が眠っており、現在は巨大な地下水道として利用されている。

第三区画は、王城の真下に位置するエリアだ。


あそこに、彼らが魔界で掴んだ『魔王の真実』、あるいは、魔王を討つための『何か』が隠されている。


私は木箱を閉じ、インベントリに収納した。

心臓の鼓動が、静かに、しかし力強く鳴り始めている。


非力な鑑定士の私に、世界を救うことなどできるのだろうか。

そんな不安は、すでに完全に消え去っていた。


私の脳裏には、勇者レオンハルトの屈託のない笑顔と、聖女アリアの優しい微笑みが焼き付いている。

彼らが命を賭して繋いでくれた、この希望の糸。

私の絶対記憶に刻まれた彼らの生きた証を、魔王の嘘で塗り潰させるわけにはいかない。


私は、深夜の王都を抜け出すための準備を始めた。

目立たない黒の外套を羽織り、ランタンと数種類の鑑定用薬品を腰のポーチに詰める。

武器は、護身用の小さなナイフが一本だけ。だが、私の真の武器は、いかなる嘘をも暴き出すこの目と脳だ。


「待っていてくれ、レオンハルト、アリア。お前たちの無念は、俺が必ず晴らしてみせる」


時計の針が深夜二時を回るのを待ち、私は音もなく執務室の窓を開け、闇夜に包まれた王都の影へと溶け込んでいった。

向かうは王城の真下。

人類を欺く巨悪の真実が眠る、地下水道の最奥へ。


王都の地下水道は、地上で栄華を極める華やかな王城の姿とは裏腹に、千年の歴史が放つ冷たい腐敗臭と、絶え間なく響く水滴の音に支配された迷宮だった。


私が頼りにしているのは、手にした小さなランタンの灯りだけではない。

王立図書館の禁書庫の最奥、埃を被った棚の片隅に眠っていた『王暦百五十年・旧王都地下構想図』。かつて一度だけ目を通したその古地図の全貌が、私の脳内に完璧な3Dモデルとして展開されていた。


「ここから三つ目の分岐を右。崩落した石柱の隙間を抜けて、下層へ続く螺旋階段へ……」


足元はぬかるみ、時には膝まで汚水に浸かりながらも、私は迷うことなく暗闇を進んだ。

絶対記憶は、視覚情報だけでなく、私の身体が経験した歩幅や方向感覚すらも正確に記録している。暗闇の中でも、自分が地図上のどこにいるのかを見失うことはない。


一時間ほど歩き続けただろうか。

やがて、迷宮のように入り組んだ水路の奥に、ぽっかりと開けた巨大な空間が現れた。


「ここが、第三区画……旧聖堂の跡地か」


ランタンの光を高く掲げる。

そこには、千年前の地殻変動によって地中に沈んだ、巨大な石造りの聖堂の廃墟があった。ステンドグラスはとうの昔に砕け散り、アーチ状の天井は半分崩落しているが、祭壇の奥には、今もなお威厳を保ったまま佇む『慈愛の女神像』の姿があった。


私は周囲を警戒しながら、祭壇へと近づいた。

聖女アリアの暗号は『光を恐れるな。地下水道、第三区画。旧聖堂の足元に、我らの真実を残す』だった。


女神像の足元を調べる。

苔むした石畳に、不自然な隙間や隠し扉の気配はない。

しかし、私の鑑定士としての目が、女神像の『材質』にある違和感を見出した。


「女神像の瞳……右目だけが、大理石ではなく『月光石ムーンストーン』でできている?」


千年前の彫刻様式において、女神像の瞳に非対称な鉱石を用いることはあり得ない。これは後から誰か――おそらくアリアたちが、細工を施したものだ。

月光石は、特定の波長の光を吸収し、内部で魔力変換を起こす性質を持っている。


『光を恐れるな』


私はポーチを開け、数種類の鑑定用薬品を取り出した。

ランタンの火口を開け、そこに『燐光粉』と『青竜草の抽出液』を数滴垂らす。

ボッ、と音を立てて、ランタンの炎がオレンジ色から、幽霊のように青白い光へと変化した。月光石を最も強く励起させる、特殊な波長の光だ。


私はその青白い光を、女神像の右目に真っ直ぐに照射した。


――キィィィィン……。


微かな共鳴音が地下空間に響いた。

月光石が青い光を吸い込み、内部で限界まで魔力を増幅させると、女神像の足元にある石畳の一部が、音もなくスライドして開いたのだ。


「開いた……!」


私は急いでランタンの火を元に戻し、開いた隠し穴の中を覗き込んだ。

そこにあったのは、冷気を放つ小さなミスリル製の箱だった。


箱を取り出し、蓋を開ける。

中には、手のひらサイズの透き通った『記録の水晶レコード・クリスタル』と、一本の豪奢な銀の短剣が納められていた。短剣の刀身は鏡のように磨き上げられており、柄には王家の紋章が刻まれている。


水晶に手を触れると、ピシャリと弾けるような感覚と共に、空中に淡い光の粒子が浮かび上がった。

粒子は集まり、やがて一人の女性の幻影を描き出した。


『――この記録を見ているのが、エミールであることを祈ります』


「アリア様……!」


空中に投影された聖女アリアの姿は、ひどく憔悴し、衣服は破れ、ところどころに血が滲んでいた。おそらく、魔界の最深部でこの記録を残したのだろう。


『時間がありません。端的に真実を伝えます。……我々が魔界の最奥で見た玉座は、もぬけの殻でした。そして、そこに残されていた古代魔族の記録碑から、恐るべき真実を知ったのです』


幻影のアリアは、悲痛な表情で言葉を紡ぐ。


『魔王は、十年前の「大侵攻」の際、すでに人間の王都へと潜入していました。奴は精神体となって先代の王を殺し、そして現在の国王陛下の肉体と魂を乗っ取ったのです。……今、王座に座っているあの優しい国王陛下こそが、人類の敵である魔王の正体です』


私の推理は完全に的中していた。

だが、事態は私が想像していた以上に絶望的だった。


『奴は王の肉体を乗っ取ることで、王家の血筋にしか操れない「対魔族結界」の制御権を奪いました。結界の性質を反転させ、王城の内部にいる自分自身を、外のあらゆる神聖魔法や討伐軍から守る「絶対の盾」へと変えてしまったのです。魔王が王城にいる限り、奴は無敵です』


無敵。

その言葉の重みに、私は奥歯を噛み締めた。

どれほど強大な魔法使いや戦士を集めようと、王城の結界がある限り、魔王には指一本触れることができない。


『しかし、たった一つだけ、奴を討つ方法があります。……エミール。箱の中にある銀の短剣を見てください。それは、魔界の深淵で見つけた、魔王の魂の抜け殻から作られた「断絶の刃」です』


私は箱の中の短剣を手に取った。

ずしりとした重み。鏡のように磨かれた刀身に、私の顔が映っている。


『魔王は、王の肉体と魂を完璧に模倣コピーして結界を欺いています。しかし、その「断絶の刃」で魔王の血をわずかでも流せば、模倣は強制的に解除され、魔王本来の瘴気が溢れ出します。……そうなれば、どうなるか』

「……王城の結界が、内側にいる魔王を『外敵』として認識し、自動的に浄化(消滅)させる……!」


私は思わず声を漏らした。

結界を破るのではない。結界のシステムそのものを利用して、魔王を焼き尽くすのだ。


『その通りです。魔王の正体を、結界に「認識」させればいい。……レオンハルトは、この短剣と真実を王都に持ち帰るため、自らドッペルゲンガーに魂を差し出し、魔族の暗殺者を利用して結界を抜けさせるという狂気の計画を立案しました』


アリアの目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。


『彼は、人類を裏切ったわけではありません。誰よりも人類を愛していたからこそ、自らの魂を魔に売る決断をしたのです。……エミール。私たちはもう、生きて帰ることはできません。でも、どうか……レオンハルトの想いを、無駄にしないで』


幻影のノイズが激しくなり、映像が途切れ途切れになる。


『エミール。あなたなら……真実を……見抜いて……くれ、ると…………』


プツン、と。

水晶の光が失われ、地下空間は再び深い暗闇と静寂に包まれた。


私は、手の中の『断絶の刃』を強く握りしめた。

勇者レオンハルト。聖女アリア。大魔導士。重戦士。

彼らは、この小さな短剣一本を王都に届けるためだけに、自らの命と名誉、その全てを投げ打ったのだ。


「……任せておけ。お前たちの命、俺が確かに預かった」


私は短剣を鞘に納め、外套の内側に隠した。

やるべきことは決まった。

魔王の血を、この短剣で流すこと。

しかし、それは口で言うほど簡単なことではない。魔王は常に近衛騎士たちに守られており、戦闘力皆無の鑑定士である私が、王の懐に飛び込んで刃を突き立てることなど不可能に近い。


どうやって近づく?

どうやって警戒を解かせる?

私の脳がフル回転し、千を超えるシミュレーションを構築しては破棄していく。


その時だった。


「――やはり、お前は我々を裏切っていたか、エミール殿」


背後から、氷のように冷たく、そして重い殺意を帯びた声が響いた。


「っ……!」


私は咄嗟に振り返り、ランタンを高く掲げた。

光が暗闇を切り裂き、そこに立つ人影を照らし出す。


純白の甲冑。王家の紋章が刻まれた大剣。

王城の守護者であり、国王の最も忠実な懐刀――近衛騎士団長、ヴァレリウス。


彼がなぜここにいる?

私の尾行に気づいていたのか? いや、私は絶対の自信を持って隠密行動をとっていたはずだ。


「なぜここが分かった、という顔をしているな」


ヴァレリウスは、大剣の柄に手をかけたまま、ゆっくりと私に近づいてきた。


「国王陛下は、お前が『本物だ』と鑑定した遺品に、深い疑念を抱いておられた。お前の退出後、私にこう命じられたのだ。『エミールは必ず何かを隠している。奴を監視し、もし不審な動きを見せれば、即座にその場で斬り捨てよ』とな」


……魔王は、私のあの芝居を完全には信じていなかったのだ。

私が遺品の中に暗号を見つけ出し、行動を起こすことまで計算に入れた上で、泳がせていた。確実な証拠(裏切りの現場)を掴むために。


「お前が執務室から姿を消した時、私はお前の部屋を調べさせてもらった。お前が日頃から愛用している特殊な鑑定薬品。その中に、微弱な魔力痕跡を放つ『追跡の粉』を仕込んでおいたのだよ」


「……なるほど。完全に出し抜かれたというわけか」


私は自嘲気味に笑った。

物理的な尾行ではなく、薬品へのマーキング。盲点だった。


シャキン、と。

ヴァレリウスが、大剣を鞘から抜き放った。

圧倒的な闘気が地下空間を満たし、私の肌をビリビリと刺激する。

彼と真っ向から戦って勝てる確率など、計算するまでもなくゼロだ。


「エミール・ルミエール。王への反逆、ならびに魔族との内通の罪により、ここでお前を処刑する。……最後に何か、言い残すことはあるか」


大剣の切っ先が、私の喉元に突きつけられる。

死の恐怖が全身を駆け巡る。

だが、私の『絶対記憶』は、まだ勝機を完全に捨ててはいなかった。


ヴァレリウス。

彼は魔族ではない。王家に代々仕える、誇り高き人間の騎士だ。

彼は、魔王に洗脳されているわけではない。ただ純粋に、玉座に座っている男が『本物の国王』だと信じ込んでいるからこそ、忠義に従って剣を振るおうとしているのだ。


ならば。

彼に『真実』を認識させることができれば、この状況は覆る。


「……言い残すことなら、山ほどあるさ」


私は、喉元に突きつけられた大剣から目を逸らさず、両手をゆっくりと頭の高さまで上げた。


「ヴァレリウス団長。あなたは、今の国王陛下に仕えて何年になる?」

「……二十年だ。それがどうした」

「ならば、あなたの記憶にもあるはずだ。十年前の、王暦四百二年の春。国王陛下が大規模な『魔力熱』で一週間寝込まれた時のことを」


ヴァレリウスの眉がピクリと動いた。

私は構わず言葉を続ける。


「あの熱病から回復されて以降、陛下は変わられた。……あなたは気づいていたはずだ。陛下の無意識の癖であった『左手の薬指を擦る仕草』が、完全に消え失せたことに。陛下の好まれていた茶の葉の銘柄が、東方産のものから西方産のものへと変わったことに。そして……陛下の御傍に控える時、微かに『鉄錆と腐肉』の匂いが混じるようになったことに」


「貴様……! 陛下に対する不敬だぞ!」


ヴァレリウスが激昂し、大剣を振り上げようとする。

だが、彼の瞳の奥底に、ほんの一瞬だけ『揺らぎ』が生じたのを私は見逃さなかった。


彼もまた、無意識のうちに感じ取っていたのだ。

自分が仕える主君の、僅かな、しかし決定的な違和感を。

ただ、そのあまりにも恐ろしい可能性から目を背け、「陛下は素晴らしい名君である」という思い込みで、自らの心に蓋をしていただけなのだ。


「不敬ではない。事実だ。……ヴァレリウス団長。あなたは優秀な騎士だが、私の『絶対記憶』の前では、どんな些細な変化も隠し通すことはできない」


私は外套の内側から、先ほど手に入れた『断絶の刃』と、記録の水晶を取り出した。


「勇者レオンハルトは、狂気に陥って陛下を襲撃したのではない。彼は、人類を救うために、自らの魂を魔に売ってまで、玉座に座る『魔王』を暗殺しようとしたのだ!」

「狂人の戯言を……ッ! 陛下が魔王だなどと、誰が信じるか!」

「信じないのなら、これを見ろ!」


私は記録の水晶を足元の石畳に叩きつけた。

再び光の粒子が舞い上がり、聖女アリアの悲痛な姿が投影される。


『……今、王座に座っているあの優しい国王陛下こそが、人類の敵である魔王の正体です』


アリアの肉声が、地下空間に響き渡る。

ヴァレリウスは息を呑み、目を見開いてその幻影に見入った。

彼にとって、勇者パーティーの面々は、共に国を守るために語り合った戦友でもあったはずだ。


アリアの口から語られる、結界の反転、魔王の乗っ取り、そして断絶の刃の秘密。

全てを聞き終えた時、ヴァレリウスの持っていた大剣の切っ先は、完全に下へと下がっていた。


「……馬鹿な。そんなことが……陛下が、すでに亡くなっておられただと……?」


ヴァレリウスの屈強な身体が、小刻みに震えている。

彼は二十年間、王への忠誠を誓い、命を懸けて城を守ってきた。

その守るべき主君が、十年前のあの日からずっと、人類の敵である怪物にすり替わっていたという事実は、彼のアイデンティティそのものを崩壊させるほどの衝撃だっただろう。


「エミール……お前は、これを初めから……?」

「今日、遺品を鑑定した時に確信した。勇者が持ち帰ったものは、ドッペルゲンガーが作った贋作だった。だが、アリア様だけが、この真実を伝えるために暗号を残してくれたんだ」


私は、銀の短剣をヴァレリウスに向けて差し出した。


「ヴァレリウス団長。あなたの忠誠は、あの玉座に座る怪物に向けられたものか? それとも、この国と、人類の未来に向けられたものか?」


ヴァレリウスは、血の滲むような力で下唇を噛み締め、俯いた。

沈黙が流れる。

彼の中で、騎士としての誇りと、残酷な現実とが激しくぶつかり合っているのが分かった。


やがて、彼はゆっくりと顔を上げた。

その瞳には、もはや迷いはなかった。


「……私の忠誠は、真なる国王陛下と、この国に生きる民にある。……魔王の思い通りには、させん」


彼は大剣を鞘に納め、私に向けて深く頭を下げた。


「許してくれ、エミール殿。私は……何も見えていなかった。愚かな騎士だ」

「顔を上げてください、団長。あなたを責める者などいません」


私は彼に歩み寄り、その肩に手を置いた。


「魔王を討つための武器は手に入れた。だが、これを魔王の肌に突き立てるためには、陛下の側近であるあなたの力が必要だ」

「……私に、どうしろと?」


私は、脳内で組み立てた『魔王暗殺計画』の最終シナリオを、ヴァレリウスに告げた。


「明日の朝、あなたは私を捕縛し、反逆者として魔王の御前へと連行してください」

「なっ……それではお前が殺されてしまう!」

「問題ありません。私が『勇者の遺した真実を見つけ出した』と報告すれば、魔王は私をすぐに殺すことはせず、必ず私からその情報を引き出そうとするはずです。……そして、その尋問の最中こそが、魔王の警戒が最も薄れる唯一の瞬間です」


私は、手の中の『断絶の刃』を、ヴァレリウスの手のひらへと握らせた。


「魔王の血を流す役目は、私には不可能です。……ヴァレリウス団長。あなたが、私を斬るふりをして、この刃を魔王に突き立ててください」


ヴァレリウスは、自らの手に握られた銀の短剣を見つめた。

失敗すれば、二人とも確実に死ぬ。

だが、彼は騎士としての誇りに満ちた瞳で、力強く頷いた。


「承知した。我が命に代えても、必ずや魔王の偽りの皮を剥がしてみせよう」


私たちは、固い握手を交わした。

絶対記憶の鑑定士と、王国最強の騎士。

非力な頭脳と、最強の武力が今、人類の存亡を懸けて一つに結ばれた。


決戦の時は、数時間後。

夜が明ければ、王都の運命を決める最後の反逆が始まる。


*****


翌朝。

王都の空は、皮肉なほどに澄み切った青空だった。

ステンドグラス越しに降り注ぐ朝日が、真紅の絨毯を鮮やかに染め上げている。


王城の最奥、謁見の間。

私は太い麻縄で両手首を後ろ手に縛られ、冷たい大理石の床に膝をつかされていた。

私の両脇には、抜身の剣を構えた近衛騎士たちが立ち並び、そして私のすぐ背後には、氷のような無表情を顔に貼り付けた近衛騎士団長ヴァレリウスが立っている。


玉座には、豪奢な王衣を纏った国王――いや、人間の皮を被った『魔王』が、片肘をついて私を見下ろしていた。


「……ヴァレリウスよ。これは、どういうことだ。我が国が誇る筆頭鑑定士が、なぜ罪人のように縛られている」


王の低く響く声が、謁見の間に波紋を広げた。

その声色は、臣下を案じる慈悲深き君主そのものだ。だが、私の『絶対記憶』は、彼の声帯の震えに、微かな歓喜と警戒のノイズが混じっているのを正確に検知していた。


「はっ。ご報告いたします、国王陛下」


ヴァレリウスが一歩前に出た。その声には一切の迷いがない。


「昨夜未明、このエミール・ルミエールが、王城の地下水道・旧聖堂跡地にて、不審な魔力活動を行っている現場を押さえました。奴の所持品を改めたところ、勇者レオンハルト様が遺したと思われる『何らかの記録』を隠し持っており、あまつさえ、陛下に対する重大な反逆を企てていることが発覚いたしました」

「……反逆、だと?」


王の眉がピクリと動いた。

「いかにも。この男は、陛下が『魔界の者と通じている』などという、正気の沙汰とは思えぬ妄言を吐き、王国の転覆を狙っていた魔族の協力者スパイであったと推測されます。……陛下の御前で尋問し、即座に処断すべきと判断し、連行いたしました」


完璧な演技だ。

ヴァレリウスの言葉を聞いた周囲の近衛騎士たちが、私に向けて露骨な殺気と嫌悪の視線を向けてくる。


王は、ゆっくりと玉座から立ち上がった。


「エミールよ。……お前が、魔族の協力者だと? 嘘であろう。お前のその『絶対記憶』は、常に我が王国のために使われてきたはずだ」


王が階段を下りてくる。

コツン、コツンと、革靴が床を叩く音が響く。

私は俯いていた顔を上げ、魔王の灰色の瞳を真っ直ぐに見据えた。


「……私の記憶は、常に真実のみを記録します。たとえそれが、どれほど受け入れがたい絶望であっても」

「ほう?」


王の足が止まった。

私と王の距離は、わずか五歩。


「ヴァレリウスよ」

「はっ」

「他の者たちを下がらせよ。この者の妄言、下手に部下たちに聞かせれば、王都の士気に関わる。……余と、お前だけで、この裏切り者の底を割る」


「御意」


ヴァレリウスの合図で、十数名いた近衛騎士たちが一斉に踵を返し、重厚な扉の外へと退室していった。

バタン、と巨大な扉が閉まり、分厚い閂が下ろされる音が響く。


謁見の間に残されたのは、私、ヴァレリウス、そして魔王の三人だけとなった。


静寂。

それを破ったのは、玉座の前に立つ魔王の、低く、湿り気を帯びた『笑い声』だった。


「く……くくく……はははははははっ!!」


人間の王が絶対に出さないような、腹の底から這いずり出るような濁った哄笑。

その瞬間、彼が纏っていた『慈愛に満ちた為政者』のオーラが完全に消え失せ、代わりに、肺が焼け付くほどの濃密な瘴気が空間を満たした。


「素晴らしい。素晴らしいぞ、エミール・ルミエール! 余はお前のその頭脳を高く評価していたが、まさかあの出来損ないの贋作から、アリアの仕込んだ暗号にまで辿り着くとはな!」

「……初めから、私が気づくことを見越していたのですね」


「当然だ。レオンハルトの小僧が、わざわざ『本物』と『偽物』を混ぜて持ち込ませた意図など、とうに見抜いていた。……だが、余はあえて泳がせてやったのだ。お前が真実に辿り着き、そして絶望する顔が見たくてな」


魔王は、醜悪な笑みを浮かべたまま私を見下ろしている。


「さあ、言ってみろエミール。お前のその自慢の『絶対記憶』は、余の正体をいつから疑っていた?」

「……王暦三百九十七年、九月十二日。あなたの戴冠式の日からです」


私が答えると、魔王は少しだけ意外そうに目を見開いた。


「あの日の王冠の重量。装飾の配置。そして、あなたの左手の薬指を擦る無意識の癖。……全てが、十年前に突然変異した。王暦四百二年、春。あなたが結界を改修したあの日を境に、あなたは本物の国王陛下を殺し、その肉体と記憶を乗っ取った」

「……」

「勇者レオンハルトは、魔界の最深部であなたの抜け殻を見つけたのでしょう。そして、自分たちが命を賭けて倒すべき敵が、安全な王城の結界の内側で、自分たちを嘲笑っていることに気づいた。……だから彼らは、自らを犠牲にしてまで、あなたを殺すための刺客を送り込んだ」


私は、一言一言、脳裏に刻まれた記憶を突きつけるように言い放った。

魔王はしばらく黙って聞いていたが、やがて呆れたように肩をすくめた。


「そこまで完璧に理解していながら、なぜこんな愚かな真似をした? お前がどれほど真実を並べ立てようと、今の余はこの王城の結界の『マスター』だ。余に歯向かう者は、この城そのものが自動的に排除する。お前に勝ち目など、最初から万に一つもなかったのだぞ」


「勝ち目はある」


私がはっきりと断言すると、魔王は鼻で嗤った。


「滑稽だな。両手を縛られた虫ケラが、どうやって余を討つというのだ。……それとも何か? 後ろに立っているヴァレリウスが、余の隙を突いて首でも刎ねると?」


その言葉に、私の背後に立つヴァレリウスの気配がわずかに硬直した。

魔王は、そこまでお見通しだったのだ。


「無駄なことだ。余の身体は、人間の脆い肉体をベースにしながらも、強固な魔力障壁で覆われている。最高峰の騎士であるヴァレリウスの大剣であろうと、傷一つつけることはできん。……それに」


魔王が右手を軽く振るうと、目に見えない強烈な衝撃波がヴァレリウスを襲った。

「ぐっ……!!」

ヴァレリウスは咄嗟に大剣で防御したが、その巨体が数メートルも後方へと吹き飛ばされ、床に激しく叩きつけられた。


「団長!」

「まずは虫ケラから潰してやろう。お前のその優秀な脳髄、余のコレクションに加えてやる」


魔王が私に向かってゆっくりと歩み寄ってくる。

右手が、どす黒い鉤爪のように変形していく。

死が、文字通り目の前まで迫っていた。


だが、私は縛られたまま、微塵も恐怖を見せずに魔王の瞳を見つめ返した。


「……私の絶対記憶は、あなたの『嘘』を一つ残らず記録している。……たとえば、あなたが先代の王を殺した時に使った『毒』の成分。あなたが密かに魔界の残党と通信していた際の『暗号鍵』の配列。それら全てを、私は昨夜のうちに『記録の水晶』に念写し、王都に散らばる数カ所のレジスタンスの拠点へと配送手配を済ませた」


「……何?」

魔王の足がピタリと止まった。


「もし私がここで死ねば、今日の正午、それらの水晶が一斉に王都の広場で再生される仕組みになっている。……結界を反転させて引きこもっているあなたでも、王都の数十万の民衆が完全に反旗を翻し、暴動を起こせば無事では済まないはずだ。全てを焼き払えば、あなたが支配する『人間の国』は灰燼に帰す」


私のハッタリに、魔王の目が細められた。

実際にはそんな手配はしていない。だが、私の絶対記憶の能力を知っている魔王からすれば、それが完全に不可能だとは言い切れないはずだ。


「……姑息な真似を」

「私は鑑定士ですから。商品の価値を釣り上げるための交渉術には長けているんですよ」


私が不敵に笑うと、魔王は苛立ちを露わにして私に手を伸ばした。


「ならば、お前の脳を直接引きずり出し、どこに水晶を隠したか読み取ってやるまでだ!!」


魔王の意識が、完全に『エミール』へと向いた。

殺意と、情報の探索。その二つに思考のリソースが割かれた、ほんのコンマ一秒の隙。


「――今だッ!! ヴァレリウス!!」


私は喉が裂けんばかりの声で叫んだ。


その瞬間。

後方に倒れ伏していたはずのヴァレリウスが、まるで圧縮されたバネが弾けるような速度で床を蹴り、魔王の背後へと肉薄した。

彼の手には、いつもの巨大な大剣はない。


彼の右手に握られていたのは、私が昨夜手渡した――『断絶の刃』。


「おおおおおおおッ!!!」


ヴァレリウスの渾身の咆哮と共に、銀の短剣が魔王の背中に向かって振り下ろされた。


「小賢しいッ!!」


魔王は私に伸ばしかけた手を翻し、背後からの凶刃を障壁で弾き飛ばそうとした。

並の武器であれば、あるいは伝説の聖剣であったとしても、魔王の障壁を破ることはできなかっただろう。

だが、その短剣は違う。

魔王自身の魂の抜け殻から作られた、いわば『魔王自身』の力の一部。

同じ波長を持つその刃は、分厚い魔力障壁を、まるで水面を滑るようにすり抜けた。


ザシュッ!!


銀の短剣が、魔王の左肩口から胸元にかけて、深く斜めに切り裂いた。


「ガ、アアアアアアッ!?」


魔王の口から、人間の声帯では出し得ない、耳を劈くような絶叫が迸った。

傷口から噴き出したのは、赤い血ではない。

どす黒く、タールのように粘り気のある、純度百パーセントの『魔界の瘴気』だった。


「……ば、馬鹿な……ッ! なぜ、余の結界を……ッ! その刃は……!!」

「……勇者レオンハルトと、聖女アリアが、命に代えて届けてくれた『真実の刃』だ」


私は床に膝をついたまま、魔王を見上げて言った。


断絶の刃によって傷を負わされた魔王の肉体が、激しく波打ち始める。

人間の国王の皮膚がボロボロと剥がれ落ち、その下から、何百もの赤い眼球と、黒い触手を持つ異形の姿が露わになっていく。

完璧な『模倣』が強制的に解除され、魔王本来の姿が世界に引きずり出されたのだ。


「ゴ、アアアァァ……ッ!! キサマら……キサマらァァァァッ!!」


完全に正体を現した魔王が、怒り狂って瘴気の触手を四方八方に振り回す。

謁見の間の黄金の柱が飴細工のようにへし折れ、真紅の絨毯が瘴気に触れて黒く炭化していく。


だが。

私たちが本当に待っていたのは、この瞬間だった。


ウゥゥゥゥゥゥゥン……!!


王城の深奥から、地鳴りのような重低音のサイレンが鳴り響いた。

ステンドグラスから差し込んでいた朝日が、突如として『白銀の光』へと変覚する。


『――警告。王城中心部にて、規格外の【魔族】の反応を検知』

『――対魔族結界、防衛システムを最大出力で起動。対象を浄化します』


「な……ッ!?」


魔王の何百もの眼球が、一斉に見開かれた。

彼が乗っ取り、自分を守るための盾として利用していた『対魔族結界』。

しかし、その肉体が人間の皮を失い、完全な魔族の波長を隠せなくなった今。

結界は、城の中心(玉座)にいる魔王を『侵入した最も危険な外敵』として認識したのだ。


「や、やめろ……ッ! 余はこの城の主だぞ!! 結界の制御権は余に……!!」


魔王が必死に魔力を放ち、結界のシステムを書き換えようとする。

だが、遅い。

千年もの間、王都を守り続けてきた神聖な結界のシステムは、目の前の強大な悪を排除するために、その全エネルギーを謁見の間へと収束させた。


「ヴァレリウス!! 伏せろ!!」


私が叫ぶと同時。

天井から、絶対的な浄化の力を持った『白銀の炎』の柱が、魔王めがけて一直線に降り注いだ。


「ギ、ギャアアアアアアアアアアアアアアッ!!!」


断末魔の絶叫。

白銀の炎は、魔王の巨体を完全に飲み込み、その瘴気を、触手を、眼球を、細胞の一つ一つに至るまで、容赦なく焼き尽くしていく。


「おのれ……! 人間風情が……余を……余をォォォォォォッ!!」


魔王の最後の呪詛の言葉すらも、浄化の炎が立てる轟音にかき消されていく。

凄まじい熱波が謁見の間を吹き荒れる。

私は熱風に吹き飛ばされそうになりながらも、その一部始終を、私の『絶対記憶』に焼き付けるために、決して目を逸らさなかった。


やがて。

白銀の炎の柱がスゥッと収束し、光が消え去った。


あとに残されたのは、黒焦げになった玉座と、その前に広がるわずかな灰の山だけだった。

魔王は、自らが盾として利用していた結界そのものによって、完全にこの世から消滅したのだ。


「……終わった、のか……?」


縛られたままの私が床にへたり込んでいると、煤だらけになったヴァレリウスが歩み寄り、私の縄を断絶の刃で切り裂いてくれた。


「ああ。……終わったのだ、エミール殿。我々の、いや、彼らの勝利だ」


私たちは、黒い灰だけが残された玉座を、無言で見つめた。

人類を欺き、世界を絶望の淵に追いやろうとした巨悪は討たれた。

だが、その代償はあまりにも大きかった。


私は、自らのインベントリから、聖女アリアの『女神の涙』を取り出し、そっと胸に抱いた。

脳裏に、彼らの声が蘇る。


『後のことは、頼んだぞ、エミール』


「……ああ。任せておけ、レオンハルト。アリア」


私は、誰もいなくなった謁見の間の天井を見上げ、静かに涙を流した。

彼らの嘘と、本当の真実。

その全てを、私の脳は永遠に忘れはしない。


*****


【エピローグ】


あの日から、三年の月日が流れた。


魔王が消滅した直後、王城内の大混乱は筆舌に尽くしがたいものだった。

だが、私とヴァレリウスが『記録の水晶』を公開し、全ての真実を公表したことで、王都は辛くも崩壊を免れた。

国王が魔王であったという事実は民衆に深いショックを与えたが、同時に、自らを犠牲にして世界を救った勇者たちの本当の戦いが明らかになり、人々は彼らを『真の英雄』として永遠に語り継ぐことを誓ったのだ。


現在は、王家の遠縁にあたる若き大公が新たな王として即位し、復興と魔界との和平に向けた新たな歩みを始めている。


「……ふむ。エミール殿、この剣の鑑定結果はいかがかな?」


王宮の鑑定室。

かつてと同じように、新しい宰相が私のもとに宝剣を持ち込んできた。


私は白い手袋をはめ、その宝剣をルーペで覗き込む。

刃の欠け具合、柄の装飾、重心のバランス。

私の脳内に蓄積された数万のデータが瞬時に検索され、完璧な鑑定結果を弾き出す。


「この剣は、第三星暦時代のドワーフが打った真作に間違いありません。しかし、魔力回路の一部に修復の痕跡がありますね。価値としては、金貨五百枚といったところでしょう」

「おお! 流石は『絶対記憶』の筆頭鑑定士殿だ。いつも見事なものよ」


宰相は満足げに頷き、鑑定書を受け取って退出していった。


静かになった鑑定室で、私は一人、冷めた紅茶を口に運んだ。

私の脳は、相変わらず呪われた羊皮紙のように、全てを記憶し続けている。

だが、今はこの呪いが少しだけ誇らしい。


私は引き出しを開け、そこに入っている三つの品を見つめた。

本物の『女神の涙』。

そして、ドッペルゲンガーが勇者の記憶から作り出した、反転した傷を持つ『偽りの金貨』と、内部構造が空っぽの『偽りの聖剣の柄』。


「……俺が生きている限り、お前たちの記憶は、俺の頭の中で生き続ける」


誰にともなく呟き、私は再び鑑定用のルーペを目に当てた。

絶対記憶の鑑定士の仕事は、まだ終わらない。

この世界に存在する、あらゆる真実と嘘を見極め、彼らが守った世界を後世に正しく伝えていくために。


窓の外では、平和を取り戻した王都の空に、真っ白な鳩の群れが羽ばたいていくのが見えた。

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