4−11
月の神の元を逃げ出してきた少年は、アサギと名乗った。
月森宮の扉には精巧な細工で咲き誇る花々が描かれ、神の住処と呼ぶにふさわしい絢爛な入口だった。
だが、一歩内に足を踏み入れてみると、扉の華やかさとは対照的に薄暗く、寒々しい廊下が奥へと続いていた。
所々で柱や壁が欠け、荒んだ印象だ。
一歩進む度に足音が高い天井に吸い込まれていくように響く。いっそ裸足になった方がいいか。
迷う俺に、アサギが袖を引いた。
「あ、あの、カーン、さま」
「どうした?」
「こ、この宮には、わた、私の他、にも、月の神、さまのお情け、を受ける者が、お、おります」
月森宮にいた間、他者と会話を交わすことはほとんどなかったと語ったアサギは、まだ流暢には話せないらしい。それでも、声の震えはなくなっていた。元は、意志の強い少年だったのかもしれない。
「他の者たちは、どこにいる?」
「とき、時の神さま、がおいでになった、際に、ご寝所から、お、追い出されました」
「追い出された?」
俺の問いにこくこくと頷くさまは、随分と幼い印象だ。こんな年端もいかない少年を、慰み者にしていただと?
「月の神、さまと、二人きりに、なりたいと」
あの老神、何を考えて……いや、月の神の意識を俺たちから逸らすためか?
どうにも食えないあの神は、月の神を独り占めしたいと言っていたからな。今頃喜んでいるんじゃなかろうか。
静寂の廊下を進みながら考え込む俺に、スズナが咎めるような声を出した。
「カーンさま。余計なこと考えてる」
「あ、いや……他の者たちは、どこにいるんだろうな。アサギと同じように自分の意識をはっきりと持っているのか、それとも……」
薄汚れた廊下を飾る等間隔に建つ柱の影に身を潜め、前方を窺いながら少しずつ進む俺に、アサギが首を傾げた。
「意識……と、時の神さま、からあのお茶を、い、頂いていれば、あるいは……」
そう言えば、俺にも散々茶を勧めていたな。己の体から花の芳香が漂うというのは、不思議な経験だった。
あの茶に、何か秘密があったのか。毒ではなかったために、それほどの警戒なく口にしてしまったのは失敗だったか。
入口から三本目の柱の影に再び身を隠し、廊下の先を覗いていると、微かな話し声が俺の耳に届いた。
スズシロも気づいたらしく、無表情を険しくさせた。
「どこからだ?」
「おそらくは、あの右前方の扉かと」
スズシロの視線の先を窺う。
「アサギ、あれは何の部屋だ?」
俺の体の後ろに隠れるようにしていた少年が、顔だけ出して前方を覗き込む。
ひっ、と小さく悲鳴を上げて、慌てて両手で口を押さえる様子に怯えが見えた。
「アサギ?」
「あ、あれは……つ、月の神、さまに忠誠、を誓い、ま、魔力を捧げて、いる方々の、お部屋です」
静かに短剣を鞘から抜いた。
月の神に忠誠を誓う者など、誰一人逃さん。
「カーンさま、ちょっと待って」
スズナの焦る声が聞こえたが、構っていられなかった。
どうせ、戦いは避けられん。既に一人、警護の者を手にかけてしまったのだ。
今更、屍が何人増えようが、同じことだ。




