136回目のショータイム
「3708文字の物語を……見ていたような……」
身体を起こした瞬間、頭蓋に突き刺さるような激痛が走った。まるで脳の奥で何かが無理やり引き剥がされるような感覚。覚えのない記憶の断片が、チカチカと点滅しながら浮かんでは消える。
「何が……起こってるんだ」
引き戸のすりガラス越しに差し込む朝の光が、ぼんやりとした部屋を照らす。その光の端、引き戸の隅に落書きされた、かすれた文字が目に入った。「135話目」。
誰が書いたのか、何を意味するのか。気になったが、頭を締め付ける痛みと全身を襲う重い疲労が思考を飲み込み、考えるのを放棄した。
「カツキチ兄ちゃん、なんで玄関で寝てるでゴワス?」
奇妙な足音とともに、弟のタロちゃんが現れた。心配そうに近づくその姿に、俺は反射的に立ち上がり振り返る。タロちゃんの無垢な目は俺をじっと見つめているのに、なぜか背筋に冷たいものが走った。
「どうしたでゴワス?」
「いや。なんでもない」
愛らしい弟のはずなのに、心の奥で警報が鳴り響く。無意識に脳が危険を察知している。
何か……おかしい。
「なら、朝ごはん食べるでゴワース!」
家の中を歩くたび、違和感が膨らむ。この家、何かが狂っている。
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居間に集まった家族の声が、いつも通りの軽快なリズムで響く。
「カツキチくん、また勉強に詰まってランニングでもしてたのかい?」とマスロウ兄さんが笑顔で言う。
「カツキチは勉強熱心で偉いわね。フカメも見習いなさい」とサザミ姉さんがからかうように続ける。それに、「サザミ姉さんに言われたくないし~、私は今を楽しむ主義なの!」なんてフカメが軽く反発する。
何気ない会話のはずなのに、既視感が頭を締め付ける。気のせいか? いや、絶対に何か変だ。
「カツキチ兄ちゃん、どうしたでゴワス?」
タロちゃんの声にハッとして朝食を口に運ぶ。
「あ、そういえば、フミお婆ちゃんは?」
瞬間、頭をハンマーで叩かれたような痛みが走り、視界が一瞬暗転し、倒れる寸前でテーブルに手をつく。
「フミお婆ちゃんでゴワスか?」
そうタロちゃんが首を傾げる。
「タロちゃん、それ誰だい?」
「カツキチ兄ちゃんが今さっき自分で言ったんゴワスよ!」
今さっき?てか 待て、なぜ俺は朝ごはんを食べている? さっき玄関で目覚めたはずなのに……
「ねえ、みんな。今日って何日だ?」
その質問に、全員が顔を見合わせ、微妙に硬い表情に変わる。空気が一瞬、重くなった。
「7月31日だよ、カツキチくん。本当に大丈夫かい? 勉強なら僕が教えてあげるよ?」マスロウ兄さんの声は優しいが、どこか不自然だ。
「そ、そうじゃない。なんか……違和感が……言葉にできないけど――」
隣に座るタロちゃんの視線が、突然鋭く突き刺さる。殺気とも怒りともつかない、異様な眼光。今まで見たことのない表情に、俺の言葉は喉で凍りついた。
「勉強のしすぎだな、カツキチもフカメを見習って遊べよ」
ナミホーお爺ちゃんが笑いながら言うが、その声もどこか空々しい。
「ナミホーお爺ちゃんまで……」
確かに、今日の俺はおかしい。頭が重い、身体が鉛のように重い。
「まだ朝だけど寝るか」
「お兄ちゃんだらしなーい!」
フカメが笑うが、俺はそれどころじゃない。
部屋に戻り、ベッドに倒れ込む。ふと、天井の隅で赤い光が規則正しく点滅しているのに気づく。あれは?
「フカメ、あの赤い光、前からあったっけ? 」
「ほら、確か虫除けよ、 タロちゃんとサザミ姉さんが設置してたような……」
「そうだっけ?」
「未来も大事だけど、家族のこと気にしなよ」
フカメが軽い口調で言う。その言葉、どこかで聞いた気がする。頭の奥で何かが引っかかるが、考えがまとまらない。瞼を閉じようとした瞬間、視界の端に異物が映った。机の引き出しの下に、折り畳まれたA4の紙が、隠すように貼り付けられている。
「誰がこんな悪戯を」
紙を手に取り、広げた瞬間、息が止まった。殴り書きされた文字。そして、書いた人物の名前に心臓が凍る。
「フミ……お婆ちゃん……?」
タロちゃんがさっき口にした名前だ。記憶にはないのに、なぜか懐かしい響き。長い間一緒にいたような、温かい感触が胸に広がる。
―― 23時50分、家を出て、今度は右に曲がれ ――
その一文を読んだ瞬間、朝、玄関の引き戸に書かれていた「135話目」が脳裏に蘇る。「こん……ど」 間違いない。この紙とあの文字は繋がっている。何度も何度も…何を繰り返している?
この手紙は俺宛じゃないかもしれない。でも、なぜか心の奥で囁く声がする。行け、確かめろ。と。
「カツキチ兄ちゃん、何してるでゴワスか?」
背後から突然、タロちゃんの声がして、背筋が伸びる。いつからそこにいた? あの変な足音どころか、気配すら感じなかった。
「な、何でもないでゴワスよ!」
「お兄ちゃん、慌てすぎてタロちゃんの語尾うつってるよ~!」
フカメがクスクス笑う。
「うるさい!」
タロちゃんはニコニコしているが、なぜかこの手紙を絶対に見せてはいけないと、全身が警告を発する。「本当に何もないから!」と叫び、ベッドに横になった。
「そうでゴワスかぁ……カツキチ兄ちゃん、おやすみでゴワス」
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目が覚めると、部屋は真っ暗だった。上ではフカメが寝息を立てていて、もう全員寝たのか、家の中は不気味な静寂に包まれている。時計を見ると、23時48分。あと2分。手紙の時間が迫っている。
行きたい。確かめたい。でも……怖い。足が震え、頭の奥でジワジワと痛みが広がる。迷っていると、突然、外から巨大な機械が地面に叩きつけられるような、鈍い音が響いて、思わず窓に駆け寄る。
「何も見えない」
だが、音が響いた瞬間、天井の赤い光が消えた。時間は23時50分。まるで仕組まれたかのようなタイミングだった。
「……行くしかない」
足音を殺し、廊下を抜け、玄関で靴を履く。すると、暗闇の向こうからサザミ姉さんの声が響いた。
「そこにいるのはフカメ? それともカツキチ?」
息を止め、玄関の段差に身を隠す。心臓がバクバクと暴れる。サザミ姉さんの足音が遠ざかり、「気のせいかしら」と呟くのが聞こえた。その瞬間、ドアを開け、外へ飛び出した。
「何だ、これは」
目の前の光景に、俺は思わず足を止めた。外は巨大なセットだったのだ。塀は安っぽい板で作られている。窓から見ていた空だと思っていたものは、パイプと配線が張り巡らされた、ただの天井だった。
町の全てが家以外木の板で作られた物だ。
今まで外に出た記憶があったはずなのに……なぜ気づかなかった?
「悪夢でも……見ているのか……」
手紙の指示通り、右に曲がり走る。家々が減り、やがて何もない空間に辿り着く。
「どういうことだ?」
その時、暗闇から声が響いた。「外の世界で、毎週日曜日に『サザミ様』という番組として放送されるためさ」
振り返ると、割烹着を着た老婆が影から現れる。
「カツキチ、私の記憶は消されているだろうから改めて自己紹介をしようかね。私は橋田 恵、番組ではフミと呼ばれている」
「フミお婆ちゃん…?」
記憶にない人物。突然の異世界。この世界が番組だと? 頭が追いつかず、言葉が詰まる。
「その顔を見るのも、135回目だよ」
フミお婆ちゃんの声は優しく静かだが、重い。
「どういう意味? あの赤い光……まさか監視カメラ?」
「その通り。自分の家を見てみな」
指さされた方向を振り返る。そこには、青い光が不気味に揺らめいていた。現実感が薄れ、頬をつねるが痛みだけがリアルだ。
「あの青い光は、時間を巻き戻す力がある。記憶も巻き戻す。歳を取らないことに、違和感を覚えたことは?」
「確かに……俺はずっと小学5年生のまま……」
その瞬間、フミお婆ちゃんが俺の肩を強く掴み、何かから守るように引き寄せた。「お婆ちゃん!?」
「こりゃ誤算だったね」
生暖かい血がボタボタと俺の顔に滴る。音はしなかった。何が起きた? そんな疑問もすぐに解けた。腹にチクリと痛みが走り、視線を落とすと、血まみれの刃がフミお婆ちゃんの腹を貫いていた。
「やっと殺せたでゴワ〜ス!なんちゃって、またしても知りすぎたな、ボウズ」
「タロ……ちゃん?」
フミお婆ちゃんが崩れ落ちると、血に染まった手のタロちゃんが立っていた。無垢な弟の顔が、悪魔のような笑みを浮かべる。
「なぜ…タロちゃんが…?」
「その質問も135回目。まあ、せっかくだし教えてやるよ」
タロは手を広げ、歪んだ笑みを深める。「私の本名はアダムス・オルバン。惑星ビテレフジから来た。地球人は全員、こんな風に収容されて、ビテレフジ星人の娯楽の道具さ。日本人はまだマシ、時間を繰り返すだけだ。普通にしてりゃ死ぬことはないのだからね」
「ふざけるな!」
「ふざけてねーよ」とタロは携帯を取り出し、誰かに電話をかける。
「俺も殺すのか?」
「レギュラーを殺すわけねえだろ。そんな事したら俺が上に殺されちまう……あぁ、俺だ。02番の記憶をリセットしろ」
タロちゃんが携帯をポケットにしまうその刹那、視界が暗転し、目眩に襲われた。次の瞬間、俺は玄関に寝転がっていた。
「3708文字の物語を……見ていたような……」
引き戸の隅に落書きされた、かすれた文字が目に入った――
―― 136話目 ――