毎朝同じ日を繰り返す俺は、玄関の「135話目」という落書きにすべてを思い出した
「3796文字の物語を……見ていたような……」
身体を起こした瞬間、頭にズキンと痛みが走る。
脳の奥を誰かに引き剥がされるみたいだ。
記憶の断片がチカチカと点滅して、浮かんでは消える。
――何だ、この感覚。
「何が……起こってるんだ」
引き戸のすりガラス越しに差し込む朝の光が、ぼんやりとした部屋を照らす。
その光の端、引き戸の隅に落書きされた、かすれた文字が目に入った。
「135話目?」
誰が書いたのか、何を意味するのか。
気になったが、頭を締め付ける痛みと
全身を襲う重い疲労が思考を飲み込み、考えるのを放棄した。
「カツキチ兄ちゃん、なんで玄関で寝てるでゴワス?」
奇妙な足音とともに、弟のタロちゃんが現れた。
心配そうに近づくその姿に、俺は反射的に立ち上がり振り返る。
タロちゃんはただ心配してくれているだけなのに、なぜか背筋に冷たいものが走った。
「どうしたでゴワス?」
「いや。なんでもない」
愛らしい弟のはずなのに、心の奥で警報が鳴り響く。
無意識に脳が危険を察知している。
何か……おかしい。
なんてことの無い朝なのに、俺は玄関から今に向かう足が恐怖で重くなる。
「なら、朝ごはん食べるでゴワース!」
家の中を歩くたび、違和感が膨らむ。
この家、何かが狂っている。
居間に集まった家族の声が、いつも通りの軽快なリズムで響く。
「カツキチくん、また勉強に詰まってランニングでもしてたのかい?」と、マスロウ兄さんが笑う。
「カツキチは勉強熱心で偉いわね。フカメも見習いなさい」と、サザミ姉さんがからかうように続けた。
それに、「サザミ姉さんに言われたくないし~、私は今を楽しむ主義なの!」なんて、フカメが軽く反発する。
いつもの他愛ない会話のはずなのに、既視感が頭を締め付ける。
気のせいか? いや、絶対に何か変だ。
箸を握る手に力がこもる。
「カツキチ兄ちゃん、どうしたでゴワス?
朝から顔色が悪いでゴワス」
その言葉にハッとして、箸を止める。
――何かを、忘れている?
「あ、そういえば……フミお婆ちゃんは?」
瞬間、頭の中で金属音が鳴った。ズキン、と鋭く。
なんだ?何が起きてるんだ。
視界が一瞬暗転し、倒れる寸前でテーブルに手をつく。
「フミお婆ちゃんでゴワスか?」
そうタロちゃんが首を傾げる。
「タロちゃん、それ誰だい?」
「カツキチ兄ちゃんが今さっき自分で言ったんゴワスよ!」
今さっき?
てか 待て、なぜ俺は朝ごはんを食べている?さっき玄関で目覚めたはずなのに……
不安の色が眉間ににじみ出る。
「ねえ、みんな。今日って何日?」
その質問に、全員が顔を見合わせ、微妙に硬い表情に変わる。
空気が一瞬、重くなった。
「7月31日だよ、カツキチくん。本当に大丈夫かい?
勉強なら僕が教えてあげるよ?」
マスロウ兄さんの声は優しいが、どこか不自然だ。
「そ、そうじゃない。
なんか……違和感が……言葉にできないけど――」
隣に座るタロちゃんの視線が、突然鋭く突き刺さる。
殺気とも怒りともつかない、異様な眼光。
今まで見たことのない表情に、俺の言葉は喉で凍りついた。
「勉強のしすぎだな、カツキチもフカメを見習って遊べよ」
ナミホーお爺ちゃんが笑いながら言うが、その声もどこか空々しい。
「ナミホーお爺ちゃんまで……」
おかしいのは俺の方なのだろうか……
頭が重い、身体が鉛のように重い。
「まだ朝だけど寝るか」
「お兄ちゃんだらしなーい!」
フカメが笑うが、俺はそれどころじゃない。
部屋に戻り、ベッドに倒れ込む。と、天井の隅で赤い光が規則正しく点滅しているのに気づき、身体を上げた。
「フカメ、あの赤い光、前からあったっけ? 」
「ほら、確か虫除けよ、 タロちゃんとサザミ姉さんが設置してたような……」
虫除け?……いや、そんな訳ない。なんでレンズが付いてるんだ?
まるで誰かに監視されているようで、気が休まらず。この家自体が、大きな牢獄のように感じた。
「そうだっけ?」
「自分の未来も大事だけど、
家族のことも気にしなよ」
フカメが軽い口調で言う。
その言葉、どこかで聞いた気がする。駄目だ、この家は、この家族は誰かに操られてる。
逃げなきゃ!
自分の部屋を出て、急いで玄関へ。
引き戸のすりガラスから差し込む陽の光が、震えた俺の心を少しだけ楽にさせた。
ここを出れば何かが分かるかもしれない。
「あれ?こんな硬かったっけ?」
ドアというより、ドアの形をした壁のように動く気配がない。
が、取っ手についていた血が、それはまだ些細な事だと感じさせた。
みんな手に傷はなかったはずだ。
一旦自分を落ち着かせるために腰を下ろし深呼吸すると、
靴箱とドアの隙間にある傘立ての物陰に、小さく折りたたまれたメモ用紙が置いてあるのに気が付いた。
「なんだこれ」
いつもなら、"ただのゴミ"と見て見ぬふりをする。
が、この時は、何か意味があるんじゃないかなんて拾い上げた――
「――ッツ!?」
目に飛び込む、書き殴られた文面は、俺の頭を真っ白にさせるには十分すぎた。
でも不思議と、何を言っているのか分からないというのは無く、
それよりも、記憶にないはずなのに、肌身で感じた事がある感覚に気持ちが悪く、脳が拒んだ。
―― 23時50分にドアが開くようになるから、家を出て、今度は右に曲がれ。カツキチの監視が強化された。気をつけてろ ――
「今度は?俺は何と戦っているんだ。」
文を何度も何度も何度も。繰り返し読んでも思い出すことはなく。
そればかりか、左下に記された名前に、完全に考えるのを放棄させた。
「フミ……お婆ちゃん」
タロちゃんがさっき口にした名前だ。
記憶にはないのに、なぜか懐かしい響き。長い間一緒にいたような、温かい感触が胸に広がる。
とりあえず今は考えても無駄だろう。手紙の通りに行動するとしよう。
「部屋で寝よ」
目が覚めると、部屋は真っ暗だった。
上ではフカメが寝息を立てていた。
「もう全員寝たのか」
家の中は不気味な静寂に包まれている。
時計を見ると、23時48分。
あと2分。手紙の時間が迫っていた。
行きたい。確かめたい。でも……怖い。
足が震え、頭の奥でジワジワと痛みが広がる。
迷っていると、突然、外から巨大な機械が地面に叩きつけられるような、鈍い音が響いて、思わず窓に駆け寄る。
「何も見えない」
だが、音が響いた瞬間、天井の赤い光が消えて、
ガチャンッと、玄関の方から錠が解除される音がする。
時間は23時50分。まるで仕組まれたかのようなタイミングだった。
フミお婆ちゃんか?
「……行くしかない」
足音を殺し、廊下を抜け、玄関で靴を履く。
すると、暗闇の向こうからサザミ姉さんの声が響いた。
「そこにいるのはフカメ? それともカツキチ?」
息を止め、玄関の段差に身を隠す。
心臓がバクバクと暴れる。
サザミ姉さんの足音が遠ざかり、「気のせいかしら」と呟くのが聞こえた。
直ぐにドアを開け、外へ飛び出す。
「何だ、これは」
目の前の光景に、俺は思わず足を止めた。
外は巨大なセットだったのだ。塀は安っぽいベニヤ板で作られている。
窓から見ていた空だと思っていたものは、パイプと配線が張り巡らされた、ただの天井だった。
町の全てが家以外木の板で作られた物だったのだ。
「今まで外に出た記憶があったはずなのに……なぜ気づかなかった?」
悪夢でも……見ているのか……
手紙の指示通り、右に曲がり走る。
家々が減り、やがて何もない空間に辿り着く。
「どういうことだ?」
その時、暗闇から声が響いた。
「外の世界で、毎週日曜日に『サザミ様』という番組として放送されるためさ」
振り返ると、割烹着を着た老婆が影から現れる。
「カツキチよく来たね。
私の記憶は消されているだろうから改めて自己紹介をしようか。
私は橋田 恵、番組ではフミと呼ばれている」
「フミお婆ちゃん…?」
記憶にない人物。突然の異世界。この世界が番組だと?
頭が追いつかず、言葉が詰まる。
「その顔を見るのも、135回目だよ」
フミお婆ちゃんの声は優しく静かだが、重い。
「どういう意味? あの赤い光……まさか監視カメラ?」
「その通り。自分の家を見てみな」
指さされた方向を振り返る。
そこには、青い光が不気味に揺らめいていた。
現実感が薄れ、現実か確かめる為に、頬をつねるが痛みだけがリアルだ。
「あの青い光は、記憶と時間を巻き戻す力がある。
歳を取らないことに、違和感を覚えたことは?」
「確かに……俺はずっと小学5年生のまま……」
その瞬間、フミお婆ちゃんが俺の肩を強く掴み、何かから守るように胸に引き寄せた。
「お婆ちゃん!?」
「こりゃ誤算だったね」
生暖かい血が――
ボタ。ボタ。と俺の顔に滴る。
恐怖が、死の感覚が、俺を恐怖の谷へと突き落とす。
「嘘だ……嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ!」
音はしなかった。何が起きた?
そんな疑問もすぐに解けた。
腹にチクリと痛みが走り、視線を落とすと、血まみれの刃がフミお婆ちゃんの腹を貫いていた。
「やっと殺せたでゴワ〜ス★
な~んちゃって、またしても知りすぎたな、ボウズ」
「タロ……ちゃん?」
そこには、血に染まった手のタロちゃんが立っていた。
無垢な弟の顔が、悪魔のような笑みを浮かべる。
「なぜ…タロちゃんが…?」
「その質問も135回目。まあ、せっかくだし教えてやるよ」
タロは手を広げ、歪んだ笑みを深める。
「私の本名はアダムス・オルバン。惑星ビテレフジから来た。
地球人は全員、こんな風に収容されて、ビテレフジ星人の娯楽の道具さ。
日本人はまだマシ、時間を繰り返すだけだ。普通にしてりゃ死ぬことはないのだからね」
「ふざけるな!」
「ふざけてねーよ」とタロは携帯を取り出し、誰かに電話をかける。
「俺も殺すのか?」
「レギュラーを殺すわけねえだろ。そんな事したら俺が上に殺されちまう——あぁ、俺だ。02番の記憶をリセットしろ」
タロちゃんが携帯をポケットにしまうその刹那、視界が暗転し、目眩に襲われた。
「3972文字の物語を……見ていたような……」
目を開けると俺は玄関に寝転がっていた。
引き戸の隅に落書きされた、かすれた文字が目に入る――
―― 136話目 ――




