魔法の夜をもう一度
──昔、あれはまだ両親が今ほど荒れていなかった小学校入学前の頃、十二月二十四日のクリスマスイブの夜に家に父と母と僕でイルミネーションを飾り、中くらいのツリーをリビングに立てて、クリスマス特有のご馳走を囲みながら話をした。
別に大した話ではなく小学校で何をしたいだとか、友達何人欲しいとか、他愛もない家族同士の会話だった。
でも、今思えばその他愛もない会話を家族そろってするのは、それが初めてで、最後だったと思う。
僕の両親は共働きで父は会社で出世街道を順調に歩んでいたし、母もパート先で普通に働いていた。働くのが好きな両親だった、でも少し働くことにしか生きがいがない両親にも周りには見えていたと思う。
そんな両親と僕が揃って食卓を囲み、最後にはプレゼントにランドセルを貰い、寝室に三人で入り両親は僕が寝るまで頭をなで、話をしてくれた。
「雄介、パパとママはクリスマスに結ばれたんだ、そうあれは──」
父がそれから、自分たちの馴れ初めを話していった。
僕はいつまでも小さな子供のままでいるように、それから先の地獄のような時期をクリスマスは特別な夜で幸せになれる魔法の日なんだと自分に言い聞かせて過ごしていった。
時は経ち、僕が中学生になる頃には家庭は見事に崩壊寸前だった。
会社で上手くいかなくなった父親はストレスを母にぶつけるようになり、母はそのストレスを僕に向けた。
もう、特別な夜の日の魔法も幸せも何もかもがあの時の気まぐれのようなものだったんだと理解出来てしまう年頃だった。
中一の十二月、その気まぐれの日は朝から大雪で両親の居ない家は薄暗く、暖房がついていないせいでリビングは身震いするほど寒かった。
冷めてしまったリビングをこの日に見るのは、込み上げてくるものがある。もう毎年そうだ。
生きがいを失った両親に、生きがいを失った少年の住む家が寒くないわけがなかった。
でも、両親は遅くなると言って出て行ったし、朝ごはんのトーストくらいならこの冷めたリビングで食べるのも良いかもしれない。
僕は、トースターでこんがり焼いた白い湯気がたつパンをかじる。
「美味しい」
思わず口からそんな言葉がこぼれるほど美味しかった。一口二口と食卓で一人、暖かいパンをかじると、魔法にかかったみたいにせき止められていたものが、ボロボロと出てくる。パンを食べ終えてもその魔法は、辺りが真っ暗になるまでずっと効き続けた。
「ん──」
ピーンポーンとインターホンの音で目が覚める。どうやらリビングで寝てしまったようだ、両親の帰りが遅くて助かった。それにしても誰だろうか?。
「こんばんは、あれ雄介くん泣いてた?」
玄関先に立っていたのは藤沢明日香、僕のクラスメイトであり、幼馴染であり、多分唯一の理解者でもある。お互いに。
「寝起きだから、そう見えるだけじゃないかな」
「ふーん、まあそういうことにしといてあげる」
そういう彼女にも涙の跡があり、頬を少しはれている。きっと両親のどちらかにやられたのかもしれない。
僕はそのことについて追求することは少し考えてやめておくことにした。
彼女が自らここに来たということは、多分、同じ考えなのだろうと思い、口に出した。
「少し二人で街を歩かない? ほらせっかく来てくれたんだし」
彼女は口角を上げて薄く微笑み「そのつもり」と言った。
外はまだ少し雪が降っていたけれど、傘をさす必要もないくらい弱い。
若干薄暗い夜の住宅街を抜けて街の大通りに出ると、一気に目の前が明かりで満たされる。
彼女と僕はそのイルミネーションや店の明かりと街中の活気の中をひそひそと歩いた。
「私たち怯えた羊みたいだよ、もっと堂々と歩けないの?」
そう言う彼女もなんだか怯えているような足取りじゃないか。
そのつもりなんて言っておいて。
「実際に怯えた羊が性に合っているよ僕らは」
彼女は「むうー」と、うなりつつもどこか納得しているようでもあった。
「それよりもどこに行こうか?」
僕のその問いに彼女は即答する。もうすべて決まっていたみたいに。
「駅前から少し歩いたところに公園があるの、でっかいクリスマスツリー見に行きたくて」
僕は「分かった」と頷いてその公園に向かうことにした。
途中一言も話さず、僕らは街灯に吸い込まれているみたいにぼんやりとクリスマスの街中を眺めて歩いた。こんな風にクリスマスの日に街を歩いたのはあの日以来だったなと思い出して少し心に染みるものを感じた。
「わあ、綺麗。私、中学生になったらここに来るって決めてたの」
着いた公園はそこそこ広く、大きなクリスマスツリーが飾ってある中央広場にはベンチがいくつか置いてあり、僕らは適当なベンチに腰を下ろした。
「どうして中学生になったらなの? どうして僕と?」
「きっと忘れる時期だから、君も私もね。そうなると、なにを信じたらいいか分からなくなる。生きる楽しみがなくなる」
彼女も僕もクリスマスに特別な思い出があり、それにすがって生きてきたという共通点を持っている。そして失いかけている時期というのも共通しているらしい。
「ねえ、雄介くんは今、楽しい?」
「・・・・そこそこね」
半分嘘で半分本当だった。今でも家族と最後に過ごした夜の温もりと比較してしまう自分が嫌になる。
「ちょっと待ってて」
彼女はベンチから立ち上がり、近くの自販機で暖かいココアを二つ買ってきた。
受け取ると寒さでかじかんだ手がじんわりと温まる。
「ごめん、後でお金返すから」
気を使わせてしまったのかもしれない。僕は途端に申し訳なくなる。
「ううん、ただ乾杯したかっただけ、雄介くんもパーティーの時したでしょ?」
した、家族三人で。僕はふと思った、きっと彼女は僕に再び魔法をかけるために来たサンタクロースなのかもしれない、と。
「したよ、それにしても君がサンタクロースになるなんて思わなかったよ」
「お互い様だね、それは」
僕たちは冬の寒空の下、微笑み合ってココアを飲んだ。
特別な夜は突然訪れて、去っていく。そういうものだとこの時に理解した。
でも思い出として残り続けるということ、そして今飲んでいるココアの味を僕はこの先大人になっても忘れることはおそらくないということも同時に強く感じた。