捩花
十二年ぶりだった。
目の前の澪は目尻にわずかばかりの皺があるだけで、それ以外はあの頃となにも変わってはいない。
アールグレイの紅茶に、シュガースティックが二本。
澪は昔のままだった。
「煙草、まだ吸ってるんだね。本数は?少しは減らしてる?」
「よくわかったな」
「吸わなくなったらね、なんか鼻が敏感になったみたい」
──澪は煙草をやめたのか──
あの頃の澪はセーラムを吸っていた。
その銘柄も、いまはもう販売されてはいない。
「このファミレス、まだあったんだ。懐かしいな。よくここで朝まで話したよね」
小皺のせいだろうか。
澪の笑顔を以前よりまろやかに感じる。
「でもテツさんの電話番号、変わってなくてよかった」
「番号を変えなきゃならないようなヘマはしなかったからな」
「ヘマ、かぁ。なんだかんだいって、テツさんは慎重派だったもんね」
澪から直にテツと呼ばれ、俺は、なんだかタイムスリップをしたような気がした。
『テツ』というのは、年齢の割には鉄のような頑固さがあるという理由から、昔、澪が勝手に付けた俺のニックネームだ。
それがいつしか澪が働いていた店での通り名になり、それはいまでも残っている。
独立をして、この街でスナックを開業した当時の澪の同僚だった黒服も、いまだに俺のことをテツさんと呼んでいる。
その呼び名はいつしか俺の中で、本名よりもしっくりくるようにさえなっていた。
「でもほんとよかったよね、藍。結婚できてさ。一生シングルかと思って、あたし心配してたんだ」
「だよなぁ。しかし驚いたな、藍ちゃんが隣町にいたなんて。全然知らなかったよ。近いのに案外バッタリ出会ったりとかしないもんなんだな」
「会える会えないに距離は関係ないのかもね。明後日の藍の結婚式がなければ、あたしもテツさんに再会できなかったし。ま、あたしは隣町よりもはるか遠くに住んでるけどね」
澪が店を辞めたのは実家の都合だった。
家業の一翼を担っていた母親が病にかかり、その看病と家業の加勢を兼ねた退店だった。
「⋯⋯テツさん、変わらないね」
澪が紅茶をスプーンでかき混ぜながらそう呟いた。
ゆっくりと冷めてゆくアールグレイが芳香を醸し出す。
──猫舌も昔のままか──
あの頃、冬場に澪がこのファミレスでグラタンやドリアを食べる時には、いつも俺が冷まし役だった。
『もっとふぅふぅしてよぉ』
酔った澪が甘えてそうせがむ時の姿はたまらなく可愛かった。
「奥さんは元気?変わりない?」
「おかげさんで。澪んちは?」
「うん、旦那とは仲いいよ。彼、仕事は一生懸命だけど毎晩酔っ払いでさ。娘は超元気。あたしに似たからすんごい美人なの」
バッグからスマホを出した澪は、自慢げに一人娘の写真をみせてくれた。
たしかに可愛い。
澪をギュッと濃縮した感じ。
澪に似ていない部分は、きっと旦那のコピーなのだろう。
「ね、可愛いでしょ」
「ほんとだ、澪に似て可愛いな」
「じゃあ、いまのあたしは?」
澪と視線が合った。
──綺麗さはそのまんまだな──
「変わってないよ、昔と」
胸の深い部分がキュッと締まる。
あの頃、俺は澪に惚れていた。
しかし、その時すでに女房がいた俺はそれを悟られないように、あくまでも客として、時には親友のように、また兄のように澪に寄り添った。
『絶対恋してるよね、澪ちゃんだっけ?』
そう女房から言われた時には、平静を装うのに苦労をした。
当時の俺は本当に卑怯者だった。
女房にも澪にも男の性を隠して『良い男』を必死で演じていたのだ。
しかし、これは自惚れかもしれないが、澪も俺を男として好いてくれていたと俺は感じていた。
素面の時にはそういう部分が皆無な澪だったが、酔った時にだけ俺に見せる素振りや視線は、まるで恋をする女性のそれのように甘ったるく、魅惑的なものだった。
クラブのキャストとはいえ、どんな客にも生々しい女の姿を見せないのが当時の澪の営業スタイルだった。
もうすぐ結婚式を挙げる藍は、以前から店でもプライベートでも澪の親友だった。
ふたりの仲を知っていた俺は、店に行くたびに澪と一緒に藍も席に呼んだ。
その藍から『澪が本気っぽい。テツさんは既婚者なんだから絶対に手を出さないで』とあの頃、何度も念を押されもした。
初めはコンビの高度な色恋営業かとも思ったが、二人きりになった時の澪の態度には、藍の心配をリアルに裏付けるだけの濃度があった。
澪がくれるきっかけはわかりやすく、だからこそ俺は、彼女に手を出さずに済んだのかもしれない。
「ねぇ、テツさん。ひとつだけ聞いてみたいことがあるんだけど⋯⋯」
紅茶のカップが寂しくなった頃、澪がそう切り出した。
「もし違ってたら笑ってくれていいんだけど⋯⋯あの頃テツさん、あたしのこと、本気で好きだった?」
恥ずかしそうな上目遣い。
澪からの予想外の問い掛けに、俺は戸惑いを覚えた。
──どう答えるのが正解なんだ?──
あの日、わずかな予兆もなく澪は実家へと戻った。
空港まで見送りに出た俺は、涙を流しながら無理をして笑顔を作る澪の健気さに心を押し潰された。
それまでの俺は、酔った澪の身体を支えたことは何度もあったが、それ以外で彼女に触れたことなどなかった。
自分の中の『善人』という歯止めが外れてしまうのが怖かったからだ。
しかし、澪が故郷行きの飛行機に乗ってしまえば、もう二度と会える保証はない。
その時、俺は初めて衝動的に澪の身体を抱き締めた。
人目も憚ることなく泣き続ける澪の体温と、しがみついてくる彼女の力の強さ。
俺はいかに澪が好きだったかを、嫌になるほど認識した。
そして営業などではなく、澪が本気で俺に想いを寄せてくれていたことも肌で実感した。
記憶は定かではないが、かなりの時間抱き合っていた感覚がいまもありありと残っている。
別れの間際でしか互いの想いを確かめられなかったあの切なさが、まだ俺の中にはあった。
「あたし、何度もチャンスをあげたのにテツさん、キスもしてくれなかったよね。あたしのことをどう思ってたのか、ずうっと知りたかったんだ⋯⋯」
──なぜいまになってそんなこと──
違和感とは違うなにかを感じる。
俺はあえてその話を流すことにした。
「澪は俺の可愛い大切な妹だったんだ。澪を女だと思ってたら、とっくに手を出してたよ。それだけの魅力が澪にはあったな」
嘘をついた。
いまさら本音を言って何になる。
俺にも澪にも家族がいて、それぞれの事情もあって、それは変えられない。
「⋯⋯そっか、妹のポジションだったんだ。思い違いをしてたのか、あたし」
俺から視線を外した澪が、淋しげな笑みを浮かべた。
その表情に耐えきれず、俺は窓の外に目を逃がした。
──昔の感情に縋りたい何かが、やはりいまの澪にはあるのだ──
そう確信した。
窓の外。
歩道と車道の境目。
青々と茂る街路樹の根元で、数本の捩花が風に揺られていた。
緩い螺旋を描くその薄桃色の花は淡く、そして小さく繋がるだけで、強烈な自己主張はしていない。
──澪と俺は始めから絡み合わない、そういう星の元に知り合ったんだ──
あの頃、何度も澪を抱く日を夢見た。
いま、いくら言葉で誤魔化しても、あの下衆な汚い気持ちは消せない。
ふと、澪を見た。
空になったカップを撫でるように両手で抱えている。
その細い指に結婚指輪がないことに、俺は再会した時から気付いていた。
──右手の中指にはちゃんと指輪をつけているのに──
夫婦間に波風でも立っているのだろう。
そう思った。
「しかし、いまになってそういうこと聞くか?あの頃聞いてくれればよかったのに。ほんと澪の悪戯っぽさは全然変わってないな。安心したよ」
冗談ぽくそう言って、俺は微笑んでみせた。
全然変わっていないのは俺のほうだ。
あれだけ惚れていた澪のいまに、少しも触れようとしていない。
あの捩花は、見る者すべてに堂々と自らの捻れを晒して咲いている。
なのにこの俺の態度はなんだ。
草木以下だ。
十二年ぶりに縋ってきた澪の境遇を薄々感じながらも、知らぬふりをしている。
もしあの頃に一線を越えていたなら、また違う感情になれたのだろうか。
──すまない、澪──
澪が煙草の匂いに敏感になったように、いまの俺は嘘の匂いに敏感になっている。
俺は澆薄な自分に失望していた。
あの頃と同じで、やはり俺は、善人ぶっただけの狡く汚れた卑怯者のままなのだ。
いや、善人ですらない。
悪さをしないだけが善人の定義ではないはずだ。
俺はまた、窓の外に目を遣った。
そこには、まるで俺に見せつけるかのように、捩花が、初夏の風にまだ優雅に揺られて咲いていた。