パラレルワールド
あの日、人生で一番愛した恋人が、俺の目の前でトラックにはねられた。
言葉を失った。理解が追いつかない。現実が、嘘のようだった。
気づけば、ただ泣くしかできない自分がいた。
あれから、どれくらいの日が経ったんだろう。
葬式が終わって十日? いや、一年かもしれない。時間の感覚なんて、とうに壊れていた。
でも、そんなことはもうどうでもいい。
生きる意味なんて、どこにもないんだから。
俺は今日も、目を閉じて、明日を迎える。
心が沈んでいく感覚を抱えながら、静かに眠りに落ちた――。
そのとき、夢を見た。
未来の俺が、そこにいた。
「何寝てる。彼女を救え。お前ならできる。お前にしかできない。頼むから、彼女を――」
声が聞こえた気がした。
何を言ってるんだ。彼女はもう、死んだんだぞ。
俺はそのまま目を覚ました。
いつもと同じ朝。
同棲していた彼女はもういない。だから、家には俺しかいないはずだった。
……なのに。
リビングから、朝食の香ばしい匂いが漂ってくる。
音もする。誰かが、料理をしている音だ。
――まさか、そんなはずがない。
おそるおそるリビングに向かうと、そこには彼女がいた。
あの笑顔で、こちらを振り返る。
「遅いよ~。もうおなかペコペコだよ~。」
俺は、視界がにじんだ。
何も考えられなかった。ただ彼女に飛びつき、抱きしめた。
「えっ? なに? どうしたの??」
彼女は戸惑っていた。でも構うものか。
俺は彼女の胸に顔を埋めて、ただ泣いた。
どれほど泣いただろう。
冷めた朝食を前に、俺はようやく涙を止めた。
彼女は、ずっと俺の頭を撫でてくれていた。
その優しさが、心にしみた。
「分かるよ。あなたの妹さんと弟さんとお母さんとお父さん、事故で亡くなったもんね。」
その言葉に、思考が停止した。
俺の――家族? 死んだ?
いや、俺の家族は生きている。
事故の報せなんて、一度も受けていない。全員、元気だ。
混乱したまま、家の中を見回す。
微妙に違う。間取りも家具の配置も、何かがズレている。
俺は彼女に「ちょっと外に出てくる」と告げ、外へ出た。
夜の空気が冷たく、現実味を帯びてくる。
――やっぱり違う。
道路、看板、風景、すべてが少しずつ「俺の知る世界」と違う。
この世界は、俺の世界じゃない。
パラレルワールド――そう気づいた瞬間、またあの喪失感が押し寄せてきた。
俺は「この世界の俺」のことを考えた。
彼は今、どこで何をしている? 俺と入れ替わったのか?
そして、彼女が俺に違和感を抱かなかったのは、「俺」だと思ったからだ。
俺はもう一度、彼女のもとに戻った。
「ただいま。」
「おかえり。」
その一言が、胸に沁みた。
けれど、同時にこの世界で失われた「家族」の存在が、心に穴を開ける。
その夜、俺は彼女にすべてを話した。
元の世界で彼女が死んだこと。夢で未来の自分に言われたこと。
そして、この世界の違和感。
彼女は真剣な顔で、こう言った。
「あなたの言うことです。信じないわけないでしょう。」
この世界の俺も、誠実な性格なのかもしれない。だから、彼女は疑わなかった。
「あなたがもし、元の世界に戻れるとして。この世界に残るか、戻るか、どちらを選びますか?」
俺は答えられなかった。
「わからない。どちらも、痛すぎる。」
彼女はうなずいた。
「私も、きっと選べないと思います。」
「この家に、泊まってください。私からこの世界の“あなた”に話しておきます。」
優しい。さすが俺の恋人だ。――いや、ここで感心してる場合じゃない。
俺は再び眠りについた。
夢の中に、また未来の俺が現れた。
「おい、まだ寝てるのか。彼女を救え。寝てる場合じゃない!起きろ!」
――次に目を覚ますと、また世界が変わっていた。
今度は俺がもう一人、目の前にいた。
もう一人の俺が、こちらを睨む。
「お前、誰だ。……俺に似てるな。いや、俺だろ。」
俺は正直に答えた。「……わからない。」
すると彼は、どこか焦りを帯びた怒りで言った。
「まあいい。で、なぜここにいる?」
「俺は……彼女を亡くして、眠ったら――」
その瞬間、彼の目が赤くなった。
「彼女? あいつは俺が殺す。」
言葉を失った。
「どうして……?」
「アイツは俺の親の仇だからな。」
耳を疑った。
彼は怒りに震えながら言った。
「彼女は裏の政治組織に属してたスパイだったんだ。俺はそれを知ってしまった。
そして、親が巻き込まれて殺された。証拠隠滅のためにな。」
信じられなかった。俺が知る彼女は、そんな人間じゃない。
「彼女は、優しくて、誠実で、人を騙すような人じゃない!」
「俺だって、そう思ってたよ!ずっと信じてた!
……でも全部、演技だったんだ。俺の幸せも、全部、嘘だった。」
「それでも、俺は彼女を救う。」
「ふざけるなよ!俺の親が殺されたんだぞ!お前はその痛みを知らないんだ!」
彼は、涙を流しながら叫んだ。
俺は、息を呑んだ。
これが、本当に最愛の人に裏切られた者の絶望なのだと、
そのとき、俺ははじめて「自分の信じるもの」が揺らいだ。