高層ビル谷間に霞む
「高層ビル谷間に霞む」
道の脇に植えてある木々は青々と葉をつけ自らの生命力を誇示するように自信ありげに枝を揺らしていた。
僕らはその木々が作る影の下を肩を並べて歩いた。葉の隙間から漏れる光は舞台照明のようにまっすぐ彼女の肩に崩れた五角形の影を落とし、その影は歩くとスポットライトが別の場所をうつすように、後ろにズレた。そしてその後またすぐに彼女の肩には別の影が落ちた。
蝉が木にとまっているのが聞こえた。それは都会の庭園らしくひどく人工的で、ピアノの鍵盤のように、この木からはこの蝉の音しかでないと決まっているみたいに機械的に鳴いていた。
「空を見るのは好き?」
彼女はサザンテラスから新宿駅西口に歩いている途中に顔を上げてこう言った。彼女の表情はどこか神妙で、だけどそれでいて子供っぽいあどけなさを含んでいるようだった。風に吹かれた髪は毛先の方からパラパラと、一本一本が自由意思を持つようにちょっとだけ強引に動いていた。目は一直線に空で泳ぐ雲に吸い寄せられ、次の瞬間には隣にはいなくなっているのではないかと思うほどにまっすぐ、儚く空を見上げていた。
「まあ、好きかな。」
脈絡もなく言い出した彼女に驚き、周りを歩いていたカップルが話し終えるのを待ってから彼女に告げた。
「大本君だって受験生の頃ってあったでしょ?指定校推薦とかは関係なしにね。高校でも大学でも良いのよ。ああいう頃ってひたすら家と学校、学校と塾、塾と家の往復。本当に変化のない毎日で、いっつもいっつも同じ風景を見て、同じ友達と喋って、でもそれでいてずっと大学とか高校には受からなきゃっていうプレッシャーに押しつぶされそうで、とっても辛い時期じゃない?
そういうときは学校の帰り道に空を見上げながら歩いて帰るの。私の場合は学校の最寄り駅からその隣の駅まで歩いていたの。中央線の線路の脇をずっとね。毎日毎日よ。友達からは変だよって言われてたけどそれくらいしか楽しみがなかったの。例のウィルスのせいで途中から塾も全部オンラインに代わってね、そこから本当に学校帰りに空を見るのが唯一の私の楽しみになっていたの。だから私とっても好きなの。空。」
彼女が話している間僕はずっと前を向いて喋る彼女の横顔を見ていた。やはり彼女の目線は一直線にどこかを見つめてその瞳は僕と彼女の間についたてがあるように僕の視線を寄せ付けなかった。
「その空の中でもね、私は夏の空が好きなの。」
「それはなんで?」
隣で並走していたカップルはさっきの角、フード・ホールがあるあたりで曲がり三丁目の方に向かったようで、いつの間にか彼女を挟んだ僕の視界からは消えていた。レストランのテラス席に座る白人の家族はビール瓶を各々手にし、椅子に深く腰掛けて、円安の喜びを存分に体現していていた。
「夏の空はね、常に変わるの。雲はたくさんあるしね、この空みたいに雲は風に押し流されて常に動き続ける。」
そういうと彼女は目を細め、顔にかかっていた髪をなぞるように耳にかけた。今まで見えにくかった彼女の顔は顎から頬のラインまでしっかり見え、その美しい陶器のように白い肌を僕の目にしっかりと焼き付けさせた。それはまるでフェルメールの真珠の耳飾りをつけた少女が初めて振り返ったときのようにハッとするものだったし、ゴーギャンが見出した世界の様に、その美しさはどこに向かっていくのかわからないものがあった。
その横顔に見惚れている間、僕は会話を忘れていた。そうして不自然に空いた間はやがて二人の間に歪を生み、その歪は水面の波紋の様に広がっていった。相変わらず蝉は気持ち悪いくらいに規則正しく鳴いていたので、幸い僕らの沈黙を少しばかりマシなものにしてくれていた。
彼女は少しだけ首を傾げ、僕の顔を覗き込むように見ていた。そこでようやく自分が口を動かさないといけないことを思い出し、失った会話のリズムを取り繕うように言った。
「そっか。じゃあおばあちゃん家から見える入道雲も好きだったりするんだね。」
僕の中で夏の空といえば入道雲ぐらいしか種類を知らなかった。彼女が雲の種類に詳しいかどうかは知らない。でも僕の中で出せる雲の話題といったらそれぐらいしかなかった。
彼女は少しだけ歩くペースを落とし、僕もそれに引っ張られるように、もっと前に出す予定だった足をそれよりも少しだけ後ろに落とした。彼女は小さく肩で息をするとゆっくりと僕の方に顔を向け、一回だけの瞬きをその間に挟んだ。
「たまらなく好きだよ。」
その瞳は家の近くの公園で空を見上げるのと同じくらい素朴で、月の裏側から星空を見るのと同じくらい綺麗だった。混り気がなく透明な漆黒の底は手が届かないほど深く、それでも手を伸ばせば触れそうなくらい近くに見えた。
「冬の空は好きじゃないの?」
今度は、不自然じゃない様に間を空けずに聞いた。
「冬の空も好きなんだけどね。あんまり雲がないから変化がなくてつまらないかな。」
そういうと彼女は少しだけ歩を進めるのを速めて僕にその背中を追わせた。
新宿駅東口の前の大道路にさしかかり、横断歩道の信号が青に変わるときに彼女は口を開いた。
「大本君も夏の空が好き?」
「ああ好きだよ。」
空は相変わらず憎たらしいほどに澄み渡っており、新海誠が演出した様な雲が疎らに泳いでいた。僕が彼女の問に答えると太陽は雲に隠れ、なぜか新宿駅の周りはほんの少しだけ明るさのレベルが落ちてしまったようだった。
夏の肉体的ともいえるほどのぬるい風は僕と彼女の間を抜けていき、その風は彼女の髪を撫でさらっていくように僕たちの後ろの方に消えていった。
僕は言えなかったのだ。「本当は冬の空の方が好き。」と。そしてその言葉が言えずそのまま飲み込んでしまったことを僕は後々とてつもなく後悔することになる。彼女がこのときの会話を覚えているのかどうかわからない。ただ今も変わらず「夏の空が好き」と思っていてほしい。