倉賀野 倉賀野神社
このメモはあくまでメモであって、物語でもなければ日記ですらない。どこまでも見た物、感じたことをただ、一筆書きで書いているため、誤字脱字なども多く、読み直すと修正するかもしれない。
一筆書きのメモ、10000字。
バカじゃないか?とは思う。馬鹿をやるのも、たまにはいいと、あの日も自分を赦しながら歩いていた。
倉賀野神社はなかなか面白い。
社格がない神社という、対象がこの街を出てから半世紀以上経てば、廃仏毀釈で存在しない予感しかしなかったが、失礼ながら大変立派な神社で、手入れも行き届いており、俺が滞在していた間も安産祈願とお守りを買って行く参拝客がいた。
普通のおみくじから、聖別された石に投げ付けて厄を割るという小さな陶器まで、箱にお金を入れてくださいという、今どきなくなった道端の野菜みたいに販売されている。
社格はないが、それなりに由緒正しい神社のようで、縁ある文人というか、ここから旅立ち、行旅死亡人となった文人がいて、九品寺にお墓があることを知る。名前も知らないし「埋もれた文人」とあるから、郷土史上の偉人なんだろう。wikiのデータを頭に入れる。
これから街で聞き込みをするツールに丁度いい。
まさか対象の名前をあげる訳にもいかない。
「対象を探して、37歳の女性は街をふらふらしていた」
今から10年前。まだ記憶に残っている住人もいると考えられる。39歳の俺は住人に恐怖を思い出させる存在になりかねない。
住民を恐怖に陥れる聖地巡礼などやってはいけない。観光公害問題をひとりで引き起こしたくもなければ、当たり前だが、これ以上ファンを減らしたくもない。
「同担拒否」なんて言っていられる「大手」じゃないのだ。アーティストが出てこない以上、アーティストのファンが一般に対するイメージになりかねない。
掲げる十字架に偽りないとすれば、多少偽悪的で口が足りないし、ニヒルで、悲観的で、直情的なロマンチストを自覚しているだろうに、説得より手が早いかもしれない。
しかし、挫けず、弱い者いじめせず、やりたいことと自分勝手は違うと身をもって示せるはずだ。この方のお考えをただその最期まで見守って、ろうそくを消す。その火は「温まるための火」であって、間違っても「傷つけるための火」ではない。
長々と「信仰告白」をしたが、要は対象を探しているとは言わずに済む理由を手に入れた。それだけ。木のウロを探すがさすがに見つからない。
お参りすると突然、雨が降ってきた。
慌てて社務所の軒先に入る。
そこにあった、たった9枚しか入っていないおみくじに、なぜか心惹かれて購入。中身は大吉だったが、偉く説教臭かった。
ついでに厄割石を購入。
厄が割れますように、と投げたら、何故か当たらずに、別の場所で割れた。
さらに雨が降ってきた。
なんとなく気味が悪かったが、時間がない。
雨の中を飛び出した。