1.世界は微睡みの底にある
背中に当たる柔らかな草と鼻孔をくすぐる仄かな花の香り。目をぱちりと瞬けば視界に広がる青い空。快晴である。そよそよと頬を撫でる風が心地よい。つい微睡んでしまいそうな意識の中、起き上がるのも億劫で寝転んだまま考える。はて、ここは一体何処だろうか。私は自分の部屋で寝ていたはずなのだが。右を見ても左を見ても、見知らぬ景色が広がるだけだ。柔らかい日差しが草原を照らし、漂う雲が時間の流れの穏やかさを伝えてくる。夢を見ているのだろうか。頬を抓ってみるが痛みは健在だ。どうやらここは現実らしい。
目が覚めたら知らない場所にいた、なんて。このような不可思議な出来事に見舞われたのだから、本来であれば恐れるべきなのだろうとは思う。誘拐を疑ってもおかしくはない。しかしながら、どうにも彼女が危機感を抱けないのはこの場所があまりにも優しい雰囲気を纏っていて、何処までも続く花の絨毯が非現実みを加速させているからかもしれない。建物の密室に閉じ込められたりだとか、血みどろの刃物が落ちていたり、見るからに怪しげな風貌の人がいたり。そういった分かりやすく不穏な状況でないからこそ落ち着いていられるのかもしれない。もしくは、現実逃避でもあろうか。
草木が揺れる。風に乗ってふわりと舞う花びらを目で追いかけていると、低く落ち着いた声と共に、ふと顔に影がかかった。
「君がナビゲーターだろうか?まさか、本当に現れるとは思っていなかったのだが……」
見上げると男がいた。濃い藍色の髪をした美丈夫だ。所々ぴょんと髪が跳ねてはいるが野暮ったさは無く、美しく毛並の整えられた猫のようだ。襟足が胸のあたりまで伸びていて、こういう髪型はウルフカットと呼ぶのだろうか。
彼女をのぞき込むその男は端正な顔立ちをしているが、それよりも、肩に羽織った長いコートが風に乗ってはためいているのが彼女にはとても印象的に映った。
「人違いじゃないかなぁ」
「そんなことはないさ。君のような存在が数多く居たら世界の秩序が崩れてしまうよ」
笑いながら言うその男はどうにも掴みどころがない。滔々と語る声は明朗であるのに何処か酷薄な色を纏っている。そも、語っている内容が彼女にとっては不明瞭なものであるから、なおさら胡散臭く聞こえてしまうのだろう。
「貴方は誰?それにここはいったい…」
「これは失敬、私はシアン。世界の記録を担当している。ここは、ここは…うん。とても難しい質問だ。しいて言うのであれば女王の箱庭だろうか」
「はぁ」
「いまいちピンと来ていないようだね。しかしマァ、君がいくら疑問に思おうとも、この世界はそういった風に出来ているからね」
そういう物だ、と受け入れるしかないのさ。わざとらしく肩をすくめる彼はそう言うと、ナビゲーターと呼ばれた彼女の腕をとり、引き起こす。ふらりと傾いた彼女の体を難なく受け止めるとそのまま歩き出した。
「まって、どこへ行くの?」
「何処へでも。君の行きたい場所へ案内してくれ。なんと言ったって、君はナビゲーターなのだから!」
「意味がわからない。私と一緒じゃなくても貴方ひとりで行けば良いんじゃないの?」
「つれないことを言わないでくれ。君と私は今この瞬間から一心同体。君がいなければ記録できないエリアがあるのさ。案内してもらえなければ困る」
「案内なんて言われても。帰り道すらわからないのに何処へ行けば…」
足が止まる。見上げるときょとんとした表情のシアンが目に映った。不思議に思い首を傾げるとつられるようにシアンも首を傾げた。あざといなぁ。しかしながら、そのような仕草が様になってしまうのだからナビゲーターは思わず苦い顔をしてしまう。
「うーん? 私の認識に齟齬があるのだろうか。一度図書館に行こう、資料を見直す必要があるみたいだ」
「へ、あ、ちょっと何をするの……!」
突然グッと腰を引き寄せられ、たたらを踏む。そのまま抱き寄せられ驚きのまま目をつぶった。強い風が二人の周囲を巻き込むと共に景色は一変する。恐るおそる瞼を上げると本の塔が視界一杯に映った。塔、と表現するしか無いほどに一つひとつの本棚は天高く伸び、隙間無く書物が敷き詰められている。現在いる吹き抜けのフロアから見上げても、果たしてこの建物が何階あるのかわからない。まるで本のお城だ。周りの状況を確認している間に、シアンはそのまま迷いなく歩いて行った。置いていかれまいとナビゲーターもあわてて足を進める。
ふわふわと浮かぶ本が本棚を行き来する。その事実に困惑しつつも横を通り過ぎる本をツンとつついてみる。少しだけ軌道がずれたものの、何事もなかったようにふよふよと決められた道を進んでいった。今、この本を掴んでみたらどうなるのだろう。暴れたりするのかな。そんな事を考えつつシアンの元へと急いだ。扉を開くと、アンティーク調の机の上に散らばった紙を手に取り、もう片方の手を顎に当てながら文字を読み進めるシアンが目に映る。
入口以外の周りの壁には、机を囲むように何かのファイルや資料の詰まった棚が並んでいた。シアンは紙に目を通しながらほかの棚からも資料を呼び寄せる。当たり前のように行われる行為に混乱しつつ、もしかして、魔法みたいなものが使えるのかしらと今更ながらにナビゲーターは考えた。さっき居た花畑のような場所から図書館に移動したのも魔法によるものかもしれない。能天気ではあるが、この状況に適応するにはこれくらい楽観的であった方が丁度いいのだろう。深く考えすぎてパニックに陥るよりは幾分かマシであるはずだ。前向きに考え今の状況を楽しむことが出来るのはナビゲーターの長所であり、現在においてはプラスに働くものであった。
「新たな情報が追加されている。どうやら君の権限は私の権限を持って成り立つようだ。つまり、私にとってのマスターキー。一心同体であることには変わりないね」
「ちょっとよくわからない。権限とかマスターキーとか」
それに何故か本も浮いてるし。そう呟くナビゲーターにシアンは一つ瞬いて、照れたようにはにかんだ。
「私としたことが柄にもなく浮かれてしまってね。君の事を考えずに話を進めてしまった」
不安な思いをさせてしまっただろう、すまないね。困ったような顔で謝罪するシアンに首を振った。すぐに疑問に思ったことを聞かなかった私も悪いだろう。そう伝えると彼の表情は和らぐ。
「君の世界に同じようなものが存在するかはわからないが、この世界には魔法が存在する」
こんな風に、とシアンが手を開くとそこには氷で出来た花がキラキラと光を反射しながら鎮座していた。それに目を輝かせるナビゲーターを微笑ましく眺めながら話を続ける。
「権限とは、そうだね。この世界の住民にはそれぞれ役割が与えられているのさ。私であれば世界の記録。と言っても、主な仕事はこの図書館の管理だけれど」
「ねえ、その。この世界とか私の世界とか。もしかしてだけど、ここって私のいた所と違うの?」
「君にとっては異世界に該当するだろう。私から見れば異邦人だ」
時間がある時にでも君の世界の事を聞かせてくれると嬉しいな。興味深げに聞いてくるシアンに了承の意を込めて頷いた。
「世界の記録をするに伴い、権限として私にはマスターキーの使用が認められている。まァ、今日に至るまでこの権限を行使する方法は分からなかったのだが」
そうして手を軽く振ると先ほどまで存在していた氷の花は溶けるように空気に霧散した。そのことに何となくもったいないような、残念なような。そんな気持ちを抱きつつ、ナビゲーターは疑問を投げかけた。
「貴方は私の事をナビゲーターと呼ぶけれど、それも権限っていうのと関係があるの?」
「そうだ。その説明もしないといけないね」
シアンは手招きすると、自分の隣に新しく椅子を出現させた。この部屋はシアン専用のため人を招く設備ではなかったのだ。ずっと立たせてしまったことに謝罪するシアンに礼を伝えナビゲーターは椅子に腰かけた。




