1 春の暁、ぼんやりとした不安を抱えながら
静かな住宅街に流れる、早朝の心地良い風。適度な涼しさを保つその風が、ふわりと髪を靡かせる。立ち止まって大きく伸びをすると、気持ちの良い空気が体内で循環する。そして訪れる、爽快感。
鼻孔をくすぐるのは、河川敷いっぱいに広がる桜並木を通って流れる甘やかな風。今年の桜は例年より遅咲きで、四月中旬の今でも満開だ。桜を見ていたらお団子が食べたくなってくる。
朝食を既に終えて登校中にも関わらず、私は指を唇に当て桜を見上げた。
春が来て、夏が来て。そして秋が来たと思えばすぐに冬になる。気づけばもう、春になっている。春が来る度に桜を見上げ、自分は成長できたのかなと思いを馳せる。
そんなことを考えながら、春の訪れを告げるホトトギスの鳴き声を耳に、高校へと足を運ぶのだった。
***
二○一と書かれたプレートを一瞥し、私は教室の扉を開ける。時刻は八時十分。扉一枚で隔たれた教室は、廊下とそれほど変わらないくらい賑やか。新学期が来てもう二週間が経ち、各々が自由な時間を過ごしている。
と言っても、私の通う高校は各学年二クラスしかない。田舎町、というわけではないけれど、近くに進学校が集結しているせいなのか、全校生徒の数が少ない。最も、募集人数が少ないのが最たる原因なのだけれど。まあ、家から近ければ私は何でもいいのだ。両親に苦労を掛けずに済むから。
自分の席に向かう途中、背後からワッという声と共に私の肩に重荷がのしかかる。
「ねえ、驚いたー?」
「いやいや、教室に入ったときにアユが扉の影に隠れているのは見えてたから」
苦笑しながら、私はやんわりとアユの両手を肩から下ろす。驚かすのなら、もう少しバリエーションを増やしてほしい。三日連続で同じことをされたら、反応を試されているような気がしてならない。私は芸人じゃないんだよ。
心の中でそう思いながら、教室の窓際から二列目、一番後ろの席に腰を掛ける。その後ろで、アユが背もたれにのしかかる。
「そっかー、じゃあ明日は扉を開けた瞬間に飛び出すことにするねー」
「……アユ、ちゃんと驚かせる気はあるんだよね?」
自ら作戦を先に公開する彼女は、小学校の時から同じ学校に通う親友の御坂歩美。私は愛称を込めてアユと呼んでいる。
生来の天然パーマは、首まで短くした毛先をくるりと外に返すことでオシャレな雰囲気を醸し出している。肩にかかる程度まで伸ばしている私とは対照的。と言っても、今は頭の上でお団子にしているけれど。
「そうだ、聞いて茜! 昨日見た例のドラマなんだけど……」
曇り気一つない笑顔を作って話すアユの話に耳を傾けながら、授業が始まるまで時間を潰す。小学生から中学生になり、そして高校生になった今でも、それは変わらない。朝昼晩が繰り返されるのと同じ。
本を読むと、変わらない毎日が退屈だと叫ぶ少年をよく見かけるけれど、私はそれで充分だった。こうして友達と喋り、遊んで、家に帰ったら家族とゆったり過ごして、そしておやすみをする。世界には戦争であったり、貧困であったり、普通の生活が送れない人が沢山いる。この平和な時間は日本が獲得できた、貴重な時間なのだから、それ以上を求めるのは贅沢だと私は思う。
私はそんな変わらない日常を続けていきたい。そう思っていたけれど……。
「それでね、それでね――!」
餌をねだる子犬のようにとめどなく喋るアユの言葉に相槌を打ちながら、私は少しぎこちない愛想笑いを浮かべた。
すると、定刻のチャイムが鳴り、一時間目の授業を行う先生がやってきた。慌てて席に戻るアユに小さく手を振って、私は教科書が搭載された電子媒体の準備をする。
一時間目は古文の授業。春はあけぼの。春眠暁を覚えず。あ、これは漢文だっけ? 起立礼をする前から春眠している隣の席の男子が目に入ったのが混乱の原因だ。
私は日直の合図により起立礼を済ませると、立っていないことに気づかれなかった彼の背中の上から、窓の外を見つめる。雲一つない青空の上を、名前の知らない鳥たちが隊列を作って旋回している。
一糸乱れぬ機械的なその動きを見て、私は誰にも聞こえないくらいの、小さなため息をついた。
大きなスクリーンに羅列する文字、老年教師の年季の入った声、必死に電子媒体にメモをする生徒たち。そんな当たり前の日常が、私には地平線の先まで広がる牧場に一人取り残されたかのように、遠く見える。一番後ろの席だからなのかもしれないけれど、どうしてだろう、その条件を除いても、みんなが遠い。不意に走らせた電子媒体には、この奇妙な感覚を絶妙に体現している、「無機質」の三文字が踊っている。
同じ空間にいるはずなのに、すぐ近くにいるはずなのに、自分だけが隔離されたかのように感じる。なんだか空気がよどんで、ぼんやりとしている、そんな感じ。
そう感じ始めたのは約半年前、夏休みが明けた頃からだった。ぼんやりとした感覚は時間が経つにつれ、自分の中で明確なものになっていった。
「私、最近みんなが遠く感じるの」
青々と茂る木々が衣を落とし始める十一月、私はアユにそのことを相談をした。独りでこの気持ちを抱えるには、少し重すぎたからだ。
いつもはふわふわぽよぽよしているアユだけれど、こういう真剣な相談には真面目に答えてくれる。小さく首を傾げる、アユに詳しいことを説明する。すると、すぐに答えを呈示してくれた。
「茜はたぶん、寂しかったんじゃないかな」
「寂しい?」
「うん、だからちょっと精神的に弱くなっているだけかも」
自分の気持ちに寂しいという言葉を当てはめる。すると、何となくそんなような気がしてきた。
「夏休みが長かったから、一人でいることが多くなって、それで孤独を感じることが多かったんじゃないかな。だから、自分を見失いかけて不安に思っちゃったことでそう思うようになったのかも。わたしもそう思うことがあるよ」
でもね、とアユが言うと、小さな温もりに私は包まれた。仄かに鼻をくすぐるシャンプーの香りが押し寄せる。
「そういう時はね、こうやって誰かの温もりを求めるの。そうすれば、私は一人じゃない、そう思えるから」
優しい囁きが心の中に染み渡る。私は彼女の厚意に甘んじて、そのまま瞳を閉じ温もりに包まれる。
すると何となくだけど、心の奥がすっと晴れるような気分になった。氷が常温でゆっくりと溶けていく、そんな感じの。もしかしたら、アユの言う通りなのかも。私はただ、寂しかっただけかもしれない。
アユパワーを十分に受け取った後、私はアユの頭をポンポンと二回叩いて言った。
「ありがとう、ちょっと元気になったよ」
「えへへ、どういたしましてー」
肩に載せられていた顔には、温泉を堪能した後のようなホッコリとした表情が浮かんでいた。目が横線になっている。いつもなら、「アユ~?」と笑ってない瞳をちらつかせていたが、今日はお礼も兼ねて免じておく。代わりに口から皮肉が飛び出た。
「へえ、アユっていつもこうしてもらってるんだー。もしかして、そういう相手が~?」
「ち、違うよー! 誤解だってばー!」
そんな会話を交わして、いつもの日常へと戻っていった。
この物語を楽しむために、島崎藤村さんの「初恋」という詩を是非読んでみてください。短いのですぐ読めると思います。