可能性の箱庭—ドッペルヴェルト—
私の名前は凪霧時希。14歳。どこにでもいる女子中学生……とは残念ながら違う。私には、他の人とは違う、「異能」があった。
私が私の「異能」に気づいたのは、4歳の時だった。一人で留守番をしていた時のこと、飼っていた犬のポロが急に体調を崩し、ぐったりしてしまった。私はどうすることもできずに、ただポロに寄り添い、ポロの病気がなくなるよう祈った。
その時の私には、何が起こったのか分からなかった。ポロの姿は文字通りだんだんと薄くなり、フッと消えてしまったのだ。
数時間後、両親が家から戻った時、そこにはただ一人、ポロの名を呼びながら泣き叫ぶ私がいた。
その時の両親の言葉は、今になっても私の頭にこびりついて離れない。
「どうしたの?」
「ポロって何のこと?」
父も母も、ポロの事を何も覚えていなかった。それだけではない。あったはずのドッグフードは消え去り、ポロを写した写真はポロだけが消えているか、そもそも存在しなくなっていた。
ポロの存在の痕跡は、どこにも残っていなかった。
今でも私は自分の異能が嫌いだ。あれ以来誤って何かを消してしまったことはないが、それでも未だに生き物に触ることには強い抵抗がある。
しかし、私の気持ちに反して、私の異能は今、非常に重宝されている。
私が普通の女子中学生ではない……それどころか中学生ですらないもう一つの理由、それが、私が世の中の異能や異常——彼らは「幻想」と呼んでいる——を消して人々の「普通」の生活を守る秘密国営組織、「幻想処理局」に所属している点だ。
この活動において、私の持つ幻想は、最も有用といっても過言ではない。なぜなら、私が触れただけで、その幻想を記憶、痕跡ごと抹消できるからだ。
破壊した時に想定外の事故が起こる心配も無く、幻想を見てしまった人の記憶消去も要らず、大規模な被害が出ていても全て無かったことになるとれば、局のメンバーが目を輝かせるのも無理はない。
最近では、面倒な事後処理を省くために、わざわざ幻想を局の本部に持ち込んで、私に消してもらうということが増えてきた。
——そして今日もまた、1つの幻想が、局本部に持ち込まれたのだった。
♦︎
不意にスマートフォンの着信音が鳴り響く。画面には「双景史月」の文字。局の先輩だ。
「はい、凪霧です」
スマートフォンから、穏やかな男性の声が聞こえる。
「時希ちゃん、仕事だよ。保管棟B-7まで来て」
「分かりました」
電話を切った瞬間、バッと立ち上がり、動き出す。服を脱ぎ、局の制服へと着替える。この制服には対衝撃加工や対精神汚染装置などが付けられており、仕事の際は必ずと身につけることになっている。とはいっても強力な幻想に対しては気休め程度にしかならないのだけれど。
顔を洗い、意識をはっきりさせた後、長い髪を後ろで束ねる。準備を整えると勢いよく自室の扉を開き、早足で幻想保管棟へと向かった。
保管棟の扉の前に立つと、虹彩認証により扉が自動で開く。わざわざ認証システムがあるのは、幻想保管棟は本来、処理方法が見つかっていない幻想を一時的に保管しておく場所であり、非常に危険な所だったからだ。だが、私の幻想により大半が消え去ったので、今は空き部屋だらけだ。
B-7の部屋の前には、既に男性が立っており、時希を待っていた。
「史月さん、お待たせしました」
私がそう言うと、男性は振り返り、にこやかに笑った。
「やあ時希ちゃん、早かったね。」
史月の声に続いて、もう一つの声も聞こえた。
「ケケケ、よく来たな、〈存在否定者〉チャン」
見ると、史月の側に、顔のような模様が浮かんだ黒い靄が、ニヤニヤと笑いながら浮かんでいる。
「その名前で呼ばないで、ダーク」
ダークと呼ばれた黒い靄は、その場でくるりと宙返りして見せた。
双景史月は悪霊や物の怪の類に妙に好かれやすいという幻想なのかよく分からない性質を持っているのだが、こいつも史月と仲良くなった一人だ。
といってもこいつはそこらの悪霊とは全く異なるらしく、〈認識外〉などという大層な名前を与えられているようだが、話している限りそこらの下級霊にしか見えない。
「どんな幻想ですか?」
再び虹彩認証により開いた自動扉を通りながら、史月に尋ねる。
「ただの装飾のついた小さい鉛製の箱なんだけど、近づいた人間が昏倒することがあるらしいんだ。倒れた人は未だに意識が戻らない。発動条件は未だ不明、現在は安定状態を維持している……ほら、あれだ」
史月が指差す先に、それはあった。確かに説明の通りだ。10cm³程の黒い金属製の箱に、赤色の宝石が取り付けてあった。
「もし発動したらどうするんですか?」
私の質問に、史月が笑みを浮かべる。
「その時は……まあ、〈再生の泥〉行きかな」
冗談になってない。嫌な考えを振り払うように首を振る。生きてる内にあれに放り込まれるのはごめんだ。
「じゃあ、よろしく頼むよ」
史月の言葉に頷き、箱に近づく。
ゆっくりと手を伸ばし、箱に触れようとする。
その瞬間、箱が眩い光を放つ。
咄嗟に飛びのこうとしたが、足に力が入らない。
「時希ちゃん!」
叫ぶ史月の言葉が遠くに聞こえる。視界は光に包まれ、真っ白になった。
♦︎
視界が次第に色づく。
そよ風が頬を撫でる。鳥のさえずりが耳に届く。
下を見ると舗装されたアスファルト、上を見上げると透き通るような青空だ。
「何が起こったの……?」
辺りを見回す。そこには史月さんもあの「箱」もない。ただ住宅が立ち並んでいる。のどかな住宅街だ。
「ここ……は……!」
私は、ここを知っていた。8年前の記憶だが、目の当たりにすれば思い出さない筈がない。
ここは、私の町だ。
正確には、私が生まれ育った町、幼少期を、父と母と共に過ごした町だ。
「どうして……?」
とりあえず史月に連絡を取るため、ポケットのスマートフォンを手に取ろうとして、気づいた。
自分が着ているのは局の制服ではなかった。その代わりに着ていたのはブレザーにチェックのスカート。近くに鞄が落ちているのも発見した。おぼろげな記憶から、この町にある中学校のものではないか、と見当をつけた。
スマートフォンはブレザーのポケットにあった。
連絡先を確認する。そこには、双景史月の名前も、局の他のメンバーの名前も存在しなかった。代わりに全く知らない女性の名前が羅列されていた。
心臓が早鐘を打つ。冷静になれ、と自分に言い聞かせる。
今の状態が、あの「箱」によって引き起こされたことはまず間違いない。
まず、これが「現実」なのか確かめよう。そう考え、落ちていた枯葉を手に取る。
「消えろ」と念ずると、枯葉はだんだんと薄くなり、消えた。
間違いない。これは現実だ。
私の幻想は存在するものを抹消する。逆に言えば存在しないものは消せない。つまり、枯葉が消えたことは、この世界が夢や幻覚ではないことを示していた。
ならば、確認しなければならないことがある。
バックを拾い、走り出す。心臓の鼓動はますます早くなり、顔は蒼白になっていた。
ハアハアと息を切らして立ち止まる。体が重い。思うように足が動かない。体力と筋力がまるで無い。日々厳しい訓練を受けている自分のものとは思えない。
息を整えた後、自分の横に立つ、1軒の家を見つめる。
おぼろげだった記憶が蘇る。心に懐かしさがこみ上げる。ああ、ここは——
「時希、そこで突っ立って何をしているの?」
背後からの声。驚いて振り返る。
そこには、買い物袋を提げた中年の女性がいた。
ああ、私の知っている姿よりも、少し年老いているけれど、見間違える筈がない。
「あっ…………」
咄嗟に声が出ない。それもそうだ。最後に呼んだのは8年前。私には、何と呼べばいいのか分からなかった。
「どうしたの?幽霊でも見たかのような顔をして。さっさと家に入るわよ」
呆然としていたが、ハッと我に返り、後に続いて家に入る。
家は、あまり変わりないようだった。周囲を見回し、自分の記憶にある物を探していく。
その時、こちらへ向かってくる足音が聞こえた。
茶色い毛の生き物が、私の方にやってくるのが見えた瞬間、私は反射的に後ろに飛び、距離を取った。
あり得ない。彼は存在しない。存在しなくなってしまった筈なのに。
彼は確かにそこにいて、自分から距離を取った私を、不思議そうに見つめていた。
「ポロ……」
もう大分歳なのだろう。私の知っている活発さは無くなっていたが、未だに元気そうなポロの姿を見て、涙が溢れてくる。
「どうしたの?様子が変よ」
そう尋ねられ、我に返る。パッと表情を取り繕い、微笑みを作った。
「なんでもない」
しかし、それでは彼女の怪訝な表情は、解消されなかった。
「なんでもない訳ないじゃない。何かあったのなら相談してもいいのよ。一人で抱え込んじゃだめよ」
「本当になんでもないから」
そう言っても、彼女はじっとこちらを見つめたままだ。なんだか居たたまれなくなって、彼女に背を向けて、側の階段を駆け上った。
2階には、殆ど来たことがなかった。でも、私の予想通りなら、あるかもしれない。
あった。1つの部屋の扉に、小さい木製の板がかけられており、そこには可愛らしい文字で「TOKI」と書かれていた。
自分の部屋だ。
何故か他人の部屋を覗くかのような罪悪感を感じながら、そっと扉を開き、中に入る。
部屋には、ベッドと勉強机。壁に貼られた名前も知らない男性アイドルらしきポスターが目につく。本棚には、少女マンガがずらりと並んでいた。歴史小説は無さそうだ。
部屋を調べ、机の引き出しの奥に小学校の卒業アルバムを発見した。
「これが……私?」
中に写っていたのは、私の知らない私。
知らない友達。知らない教師。知らない学校生活。
しかし、確かにそこにはあった。アルバムの写真は、それらが確かに現実であったという証拠だった。
頭がクラクラする。だが、だんだん自分のおかれた状況が分かってきた。一旦頭を整理するために、ベッドに腰掛ける。
ここは、おそらく、私が「普通」に生活している世界。幻想に目覚めることも、両親が殺されることも、幻想処理局に引き取られることもなかった世界。
当然のように得られるはずだった生活を、ただ当然のように甘受している世界。
あの「箱」によって、私はそんな世界に飛ばされた。肉体が飛ばされた訳ではないだろう。史月さんの話では、「箱」の被害者は昏倒して目覚めなくなる。自分の体力や筋力が落ちていることも考えると、意識だけ飛ばされ、元いたこの世界の「私」の肉体を乗っ取った、ということだろうか。
元の「私」の意識はどこにいったのだろう。今も意識の奥底で眠っているのだろうか。しかし、呼びかけても反応はない。
これからどうすれば良いのだろうか。
私の職務は、「箱」の抹消。それをするには、元の世界に戻らなければいけない。
しかし、その方法が分からない。
こんな時、相談できる相手がいれば。
…………いや、いる。
スマートフォンを握りしめる。
震える指で、記憶を辿り、電話番号を入力する。
3回の発信音の後、相手が電話に出た。
「はい、もしもし」
耳に届くのは聞き慣れた声。出来るだけ平常心を保って、相手に尋ねる。
「双景史月さんですか?」
一瞬の沈黙。その後、言葉が返ってくる。
「どちら様ですか?」
深呼吸して、心を落ち着かせる。
「幻想処理局所属、局員コード064AX、凪霧時希です」
今度は長い沈黙。返ってきた史月の言葉には緊張が感じられた。
「その局員コードは存在しない。063の僕が一番新しい局員だ。君は何者だ、正直に話せ」
「はい。信じてもらえないかも知れませんが……」
自分を知らない史月に全てを伝える。
自分が6歳の頃から幻想処理局に所属していること。
箱の形をした幻想の処理任務に参加したこと。
「箱」の幻想の発動に巻き込まれ、別の場所へ飛ばされたこと。
その先で、死んだはずの母親や飼い犬と会ったこと。
そして、おそらく、自分は異なる人生を歩んだ場合の自分に憑依しているらしいこと。
ただ一つ、自分が持つ幻想についてだけは、黙っていた。それを聞けば、局は問答無用でこの私を引き入れるだろうと思ったからだ。
自分とは関係のない自分の事ではあるが、それは避けたかった。
史月は黙って話を聞いていた。
そして、私が話し終わったことを確認して、話し始めた。
「にわかには信じがたい話だけど、でも信じざるを得ない理由もあるんだ。今朝、こちらに君が話したものとそっくりな箱がこちらに運び込まれた。いや、僕が運び込んだんだけど。昏倒した被害者を救えないかと調査中だったんだが、一応君の話とも辻褄が合う」
「信じてくれるんですか…?」
「ああ。そして君の話を真とすれば、あの箱の正体も見当がつく。何かしらの未練を持つ者の意識を、並行世界の理想の自分に憑依させる——我々はこの幻想を〈可能性の箱庭〉と呼ぶ事にした」
「……今史月さんが決めたんですよね?」
「まあね」
思わず笑ってしまう。私の事を知らなくても、史月さんはいつもと一緒だ。
「それで」
史月の声が真面目なトーンに戻る。
「君はどうしたい?」
「私は……元の世界に戻らなきゃいけないんです。でも、どうしたら……?」
「方法は問題ない。この世界でもう一度〈可能性の箱庭〉を使えばいい。君が心から元の世界に戻りたいと願い「箱」に近づけば、「箱」は発動し、君を元の世界に戻すはずだ」
「なるほど。流石です史月さん」
言われてみればその通りだ。「箱」が本当に並行世界へ意識を飛ばすなら、それを利用して元の世界に戻ることもできるはず。
「今から「箱」を持って君の所へ向かうよ。1、2時間で着くから、着いたらまた連絡するよ」
「え、いいんですか」
こちらから局本部まで行くつもりだったのだけれど。
「うん、こちらとしても「箱」の性質の仮定が正しいのか確認したいし、幻想処理局に関係ない僕達の世界の君を局に招く訳にはいかないからね。心の準備でもして待っていてくれ」
史月はそう言うと、通話を切ってしまった。
大きく息を吐きながら、ベッドに倒れ込む。
安心で急に体から力が抜ける。史月さんは私を知らなくても信用してくれたし、帰る方法も見つかった。何にも問題ない、はず。
起き上がり、もう一度アルバムに手を伸ばそうとして、やめる。数時間後には無関係になるのだ。なら、考えない方がいい。
かわりに本棚に並んである少女マンガの一冊を手に取ってみた。
高校を舞台に繰り広げられる恋愛物語。パラパラとページをめくるも、どのシーンにも現実味を感じない。
こんな世界が本当に存在するのだろうか。ちょっと信じられない。自分にとってはおとぎ話と同じくらいのファンタジーだ。
ふと、スマートフォンが着信音を鳴らす。相手は史月だ。
「心が決まったら君の家から北東に約400mの所にある公園に来て。急がなくてもいいからね」
それだけ言うと、通話は切れてしまう。
その瞬間、バッと立ち上がり、部屋を抜け、階段を駆け下りる。場所は違っても、連絡からの即行動は体に染み付いていた。
玄関の扉に手をかけた時、背後から声をかけられた。
「時希——」
「安心して、すぐ戻るから」
振り返りもせず、それだけ言うと、扉を開け、外へ飛び出した。
この「私」に体力が無いのを、すっかり忘れていた。
公園で待っていた史月は、汗だくで息を切らして駆け込んできた私を見て、座っていたベンチから立ち上がり、目を丸くした。
「き、君が凪霧さん…?そんなに急がなくても……」
「史月さん……お待たせしました……」
そう言いながら顔を上げる。そこには見慣れた先輩の姿。
「服、似合ってますね」
史月は怪しまれないように制服ではなく私服で来ていた。ちょっと物珍しい。
史月はすこし驚いたように私を見ていた。
「どうかしました?」
私の問いかけに、はっと我に返り、言葉を返す。
「いや、僕は初対面でも、君は僕を知っているんだったね。じゃあ自己紹介はいらないか。とりあえず座りなよ、立ちっぱなしは不自然だし」
そう言うと、史月は再びベンチに腰掛け、自分の横をポンポンと叩いた。
その言葉を聞いて、ベンチの端に腰掛ける。
史月は持っていたバッグに手を入れると、厳重に梱包された直方体を取り出す。包装を剥がすと、そこには数時間前にも見た黒い箱があった。
「これが例の幻想。君が知ってるのと同じ?」
その言葉にゆっくり頷く。
「じゃあ——」
「あ、あの!」
史月の言葉を遮る。
「何だい?」
「私が帰った後の、元の「私」に、手を出さないでください。この世界の私は、幻想なんか知らずに、普通に暮らしてるんです。お願いします!」
史月に頭を下げる。
言うだけ無駄かもしれない。幻想処理局が幻想に対して行う行為は2種類だけ。消すか所有するか。それは、人間相手でも変わらない。
史月は微笑んだ。
「心配しなくていいよ。この世界の君が幻想に目覚めない限り、僕らは手を出さない。まあちょっと監視はさせてもらうけどね」
「ありがとうございます」
局の処分としてはマシな方だろう。だがこれから自分の知らないところで常に監視される「私」には同情を禁じ得ない。
私が頷いたのを見て、史月がそっと「箱」を差し出す。
ゆっくりと手を伸ばし、そして、触れた。
金属の冷たい感触を感じる。
1秒、2秒……
気まずい空気が流れる。
「えーっと……」
「君はまだ別世界の凪霧さんだね?」
史月の言葉に頷く。
「〈可能性の箱庭〉の仮説が間違っていたんでしょうか?」
史月は首を横に振った。
「いや、これは単に君の問題だと思う。今の君は、元の世界への未練より、この世界への未練の方が強いんだ」
「……私は、どうすれば」
史月は微笑みながら立ち上がった。
「ゆっくり考えるといい。その「箱」は君に預ける。思い立った時にすぐに帰れるように」
「えっ、でも……!」
幻想を一般人に触れさせるのは明確な規則違反だ。
「君も局員なら、幻想の扱いくらい分かるだろ?それに、発動したらすぐ、僕の友達が回収してくれるから」
「……ダーク?」
そう言った瞬間、史月の近くから黒い靄が現れる。
「俺を知ってんのカ?そりゃ災難だナァ、ケケケ!」
「そうね」
「なんダァつれねえヤツ。もっと恐れ慄いてもいいんだゼ?」
「あーこわいこわい」
「あー、コホン」
史月は咳払いでこちらに注意を向けさせた。
「じゃ、僕はもう行くから。最後に——」
史月は私の目を見て、もう一度微笑んだ。
「——君の世界にも、きっと君の帰りを待ってる人がいるはずだよ。それを忘れないで」
そう言うと史月は背中を向け、歩き去って行った。
いつの間にか日は暮れ、あたりは静寂に包まれていた。風が木々の枝を揺らす音だけが響く。
ベンチに座ったまま、「箱」をいじくってみる。「箱」に変化はない。飾り付けられた赤い宝石が街灯に照らされキラリと光っていた。
「ダーク?」
返答はない。ハァとため息をついた。
元の世界に帰りたい。その思いは変わっていないと思う。
しかし、私は心の底にある思いに目を背けていた。
はっきりと見てしまえば、失ったものを、強く感じてしまうから。
心が折れて、戻れなくなってしまいそうだから。
「どうすればいいの……?」
頭を抱え、途方にくれた。
「ワン!ワン!」
犬の吠え声で、急に我に返る。
「ポロ……?」
目の前にはポロがいて、こちらを向き尻尾を振っていた。
「時希!」
「あ……」
慌てて「箱」をポケットに隠す。そこには息を荒げている母親の姿があった。
「そろそろ家に帰るわよ。晩ご飯できてるから」
そういって、私の手を掴もうとする。
慌てて引っ込めるが、気にせず掴まれる。
そのまま家へと引っ張っていかれる。
私を掴むその手は、暖かかった。人の体に触れるのは、10年ぶりのことだった。
晩ご飯が並べられた食卓。そこに、母親と向かい合うようにして座っていた。
母親は、ただこちらをじっと見つめている。
黙ったまま肉じゃがを口に運ぶ。懐かしいような、そうでないような。食事の記憶なんて残っていないし、やはり気のせいだろうか。
「時希」
名前を呼ばれて顔を上げる。
「今日の時希は、少し違うね。なんだか……大人になったみたい」
「……」
「顔つきが違う。普通の大人とも違う。いくつも修羅場をくぐり抜けてきたような、そんな顔」
「……」
「時希、あなたは、今まで何をしてきて、今何をしているの?」
「……それは」
誤魔化しの言葉を口に出そうとして、ためらう。彼女と目があった。彼女は促すように頷いた。
「私は……うまく説明できないけれど、日本にいる人達の、生活を守る仕事をしてる。みんなの普通の暮らしを陰から支える、そんな仕事」
彼女は驚かなかった。
「そうなのね。とっても大変でしょう。言わなくても、あなたの顔をみたら分かるわ」
「うん、まあ。でもそんなに悪いものでもないよ」
私の答えに、彼女は首を横に振った。
「いいえ、あなたは無理をしてる。今の時希の顔には余裕がないもの。いいのよ、無理しなくて。あなたは、ここで休むべきよ」
その言葉は、とても、魅力的に思えた。
自分が失った、何もかもがここにある。ここには危険な「幻想」も、命の危険を伴う仕事も無い。
ただ、何も考えず、日々を楽しく過ごす。
そこには両親がいて、友達なんかもいたりして。
でも、それはできない。
私は、この世界の「私」ではないのだから。これは私の人生ではない。
私には、私のやることがある。
私を、待っている人がいる。
私は、ゆっくりと首を横に振る。
「それはできない。私には帰るべき場所があるし、それに、この体を元の「私」に返さなきゃ。だから——」
意を決して、彼女の目を見据える。
「——私に、「帰れ」って言って。そしたら、私、帰れる気がする」
一瞬の静寂。しかしそれはすぐに彼女の言葉で破られた。
「そんなの、出来る訳ないじゃない!だって、あなたは私に会いにきたんでしょう。だったら、あなたの知ってる私は、もう……」
「…………」
「元の時希の事は大丈夫よ。あの子は優しいから、あなたのことを知ったら、きっと許してくれるわ。だから、2、3日でもいいから、ここに——!」
彼女の言葉は嗚咽に変わった。彼女は、涙を流していた。この「私」とは、何にも関係ないはずなのに。
私は、それを黙って見ていた。
彼女が落ち着くのを待って、再び言葉を告げる。
「お願い」
「……あなたの心は、もう変わらないの?」
頷く。
「あなたは、本当にそれでいいの?」
再び頷く。
彼女と目があった。彼女は、大きく息を吐いた。
「……そうよね。あなたには、帰る場所があるのよね」
短い沈黙。互いに、思いは、一緒だ。
「じゃあ、元気で」
「時希もね。無理しちゃだめよ。そして、できたら、もっと笑顔の方がいいわ」
「うん」
彼女は、深呼吸してから、私の顔を見た。
「行きなさい、時希。あなたの帰るべき場所へ」
「さよなら」
その瞬間、視界が白む。景色が薄くなって溶けていく。
消えゆく世界の中で、確かに、声を聞いた。
「——頑張れ、時希!」
なりふり構わず、叫んだ。
「——ママ!」
そして、世界は見えなくなった。
♦︎
「ん……」
瞼を開く。白い天井が見える。
「時希ちゃん!気がついたんだね!」
真横から聞き慣れた声がする。
「史月さん……?」
体を起こすと、そこにはホッとした表情の史月がいた。
「良かった。あの「箱」の被害者で意識が戻った人はいなかったから、時希ちゃんも、もう戻らないかと……」
「ケケケ、悪運の強い奴だナァ!」
史月の横から黒い靄が現れ、こちらに言葉を投げかける。
「それにしても、どうして意識が戻ったんだろう?」
史月の問いに、口を開く。
「それは……」
史月に報告する。自分が失くしたものがある世界と、そこでの出会いの話を。
♦︎
「消しちゃっていいのかい?」
史月の問いに頷く。
「『箱』を消しても、入口が無くなるだけで、あの『世界』は残ってるから」
この世界の『箱』に近づいて、触れる。
相変わらずひんやりと冷たく、取り付けられた赤い宝石がキラリと輝いていた。
そして、「箱」は、だんだんとぼやけて、そして、霧のように、消えた。
これにより、「箱」の存在は無かったことになり、被害者はいつも通りの活動を始めるだろう。
この「箱」の事を覚えているのは、消した瞬間を見ていた私と史月さんだけだ。
「そう言えば、あの箱、なんて名前にしよう?」
史月の言葉に、振り返ってにっこり笑う。
「それなら、〈可能性の箱庭〉が良いと思います!」
〈可能性の箱庭〉
種別:物体
現在状況:抹消済
危険性:A(死亡、及びそれに類する状態となる)
干渉範囲:D(個人規模)
積極性:D(刺激を与えない限り発現しない)
社会毀損性:D(影響は少ない)
処理難易度:D(物理的手段により処理可能)
10cm³程の大きさの金属製の黒色の立方体。一つの面に直径2cm程の赤色の宝石が取り付けられている。
強い未練を持つ人間が接近することで、その異常性を発現する。その際、立方体に取り付けられた宝石が非常に強い光を放ち、対象の人物は意識を失う。
対象の意識は、後に未練となる事象が起こらなかった並行世界の同一人物の中に宿る。
元の世界に戻る方法は基本的に存在しないが、例外的に、元の世界により強い未練を抱いた上で、その世界に存在する〈可能性の箱庭〉に接近することで戻ることが可能。
〈存在否定者〉
種別:人間
現在状況:収容
危険性:A+(死亡を超えると考えられる被害を与える)
干渉範囲:A(世界規模)
積極性:–(知性により判断し、発現させる)
社会毀損度:A+(社会活動を崩壊させうる)
処理難易度:D(物理的手段により処理可能)
凪霧時希という名前の日本人女性。年齢は14歳で、平均的な同年代の少女と変わらない外見を持つ。
触れた物を消滅させ、「元から無かったことにする」ことができるという異能を持っている。
これは消滅させた物が影響を与えた事象にも及ぶ。即ち、ある人物がナイフで刺され死んだ後、〈存在否定者〉がナイフを消滅させた場合、ナイフの存在とともに人を刺したという事実も消滅し、その人物は生きていた状態に戻るということである。
彼女が6歳の時に幻想処理局に発見され、その異能の有用さから、現在まで局員として働いている。