水槽
ガラスでできたタイルとゴム靴の底が擦れて神経に障る音を立てた。同じくガラス質の天井と壁の向こうに広がった、青とも緑ともつかない濁った世界で無数の巨大な魚が遊泳している。水面が見えない世界の中で、水は空気と等しい。まるで飛んでいるようだと思った。
魚たちは囁きながらガラスの面を尾びれで撫ぜたり、肉眼では見えない遠くに消えたりする。足元を八の字に動いた魚が先ほど泡を吐いていた鈍色のえらを持つものと同じであるのか、直視できないままぼんやり考えた。ガラス越しに踏まぬよう無意識にずらした靴の先が、また引き攣れた音を立てる。
魚たちはあの感情の読めない眼のふちを光らせて、こぷこぷとなにかを囁き合う。足元にはガラスを一枚隔てて、闇が広がっている。どこからが濁った世界でどこからが闇なのかもわからないまま、湧き出てくる魚は渦を巻いて囁き合う。
ガラスで守られた教室ほどある空間の中で、しかし動けずにいる後頭部が壁に触れる。とうに消えていた入り口がガラスになっているであろうことはその感触で分かったが、振り向くことができなかった。眼前に広がるであろう一面の巨大魚たちに耐えきれる自信はなかった。足元の闇も、天井に乗った腹びれたちも、側面で囁き合う魚の眼も、空間を押しつぶすように迫ってくる。
よう、と後ろで軽快な声がした。
振り向かぬまま、体をずらして背面のガラスと距離を取る。こっちを向かないのかい、と魚は言って、泡を吐き出す音が聞こえた。
難儀なもんだね、と魚が笑う。
空気じゃないと呼吸ができないってのは。
囁き合っていた魚たちが繰り返す。
難儀なもんだね。
右の側面の向こうで浮かんでいた魚が、ガラスを隔てて中を向く。開いた口から出てきた泡の向こうに、潤った小さな舌と赤い粘膜が見えた。無意識に唾液を飲み込もうとして、乾ききった舌が口内に張り付いているのに気づく。
左側の向こうでひときわ大きな魚が尾びれを揺らす。動いた水に引っ張られて周囲の魚も体を揺らす。円を描くように上下を入れ替えていた魚たちが散って、形を失くした集団はまた遠くへと向かう。入れ替わるように現れた小柄な魚はガラスに口の先をつけ、動きを止める。
難儀なもんだね、とまた後ろで声がする。
空気じゃないと呼吸ができないって思い込んでいるのは。
空間一つ分の酸素は既に、半分以上が消費されていた。浅くなった呼吸のせいで、碌に働かない頭がガラスを擦る。このガラスを隔てたすぐにぬめりをおびて光る塊があると思うと、腰から後頭部の先まで空想の感触が駆けた。
力の入らない脚が曲がる。床に手と膝を突こうと考える余裕があった。ゆっくり崩れている体。手を伸ばす。膝を折る。
床が消えた。
残り少ない酸素さえ飲み込んで、水が空間を押しつぶす。顔面を叩く水圧で目を開けていられない。木の葉のように翻弄される体を感じながら、それでも体内の酸素を逃がさないように息を詰めた。思い通りに動かない腕や脚の間を、魚たちが勢いを増して通り過ぎる。ひれが鳩尾にぶつかり、肺の底から最後の空気が絞り出される。
体内に侵入してくる水を吐き出しても世界はもはや水で構成されていて、目も口もふさいだまま腕を振る。通り過ぎる魚の存在と体を弄ぶ水の流れを感じながら、それでも必死に前を目指す。目指している方向が水面なのか闇なのかはもう、わからない。
囁き程度だった声はもはや轟音に近かった。耳の横で魚たちが怒鳴る。破らんばかりに鼓膜を揺らして、それでも魚たちの声は聞こえない。
難儀なもんだね、と散り散りになりそうな体の後ろで軽快な声がした。肩のすぐそばで声は告げる。
難儀なもんだね。
空気じゃないと呼吸ができないって思い込んでいるのは。
難儀なもんだね。
聞かないだけなのに聞こえないと思い込んでいるのは。
難儀なもんだね、と轟音だったはずの魚たちの声が意味を持って脳を叩く。
空気じゃないと呼吸ができないって思い込んでいるのは。
鈍色の世界だと思い込んでいるのは。
閉じこもっていないと生きていけないと思い込んでいるのは。
魚たちの轟音が水中を揺らして伝播する。魚たちの眼が一斉にこちらを向く。感情を持っていなかったはずの眼が哀れみを持っているような気がして、その中心にいることを自覚する。難儀なもんだね、とまた轟く。同じくらい大きな声で、なんだわかったような口をききやがって、と怒鳴ると鈍色の壁が散った。視界が開ける。うろこが光を反射して輝きが周囲を照らす。ガラスはどこにもない。
そこでようやく、自分が呼吸をしていることに気づいた。