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好きとセンス

「好きこそ物の上手なれ」と「下手の横好き」の2つの相反する諺がある。前者は好きなことは繰り返し行うので上達するとの意味。後者は下手にもかかわらずとても好きであるとの意味。この違いは何によって起こるのか。それは、いわゆる「筋」の良さ、「センス」の良さ、「才能」の違いである。ただ、この「筋」の良さ、「センス」の良さ、「才能」は正に天性のものであり、「努力」で磨くことはできるが、獲得できるものではない。「努力」が報われないことが多いのはそのためである。


人があることで大成するのに必要なことは2つある。第1はそのことに対する「センス」の良さ。「センス」の良さはいわゆる他人よりも生来、既に秀でていること。第2はそのことが「好き」であること。「好き」だと、「努力」なしに寝食を忘れて続けられるからである。「努力」とは辛いがめげずにがんばることで、人は「努力」が大切とはよく言われる。ただ、「努力」と「好き」では「好き」でやる方がいうまでもなく勝る。


それでは何に「センス」があるのか分かるか?それがわかっていれば最初からそれをやればよいが、自分にどんな優れた「センス」があるのか分からないのが現実だ。とりあえずいろいろなことにチャレンジしてみるしかない。大した練習もなく、人より上手にあることができれば、それについては「センス」、「筋」がよいと言って良い。あとはそのことが「好き」であるかどうかだ。「好き」ならばどんどんやるとさらに上達する。


「センス」のあるところをさらに伸ばすべきである。伸び方が違う。「好き」ならばもっと伸びる。「センス」の劣るところ、不得意なところを補う「努力」をするのは効率が悪い。「センス」のあるところが最高レベルになれば、不得意なところは後からついてくる。


「センス」の良さと「努力」の結果を履き違えている人がいる。これは成功者に多い。『自分は人一倍「努力」したから、今日の成功があるのであり、成功しないやつは「努力」が足りない』。このような人が指導者になると、練習、練習、練習、努力、努力、努力、さらには根性が足りないとなる。それで「センス」がそれほどない後進は皆、疲労困憊してしまう。名選手、名監督ならずである。『自分は「センス」があり、「努力」したから、成功した』と認識し直すべきである。それを認識したとき、名選手は名監督になれる。


その理由は「センス」の違いを認識して指導できるようになるからである。それぞれの個性、「センス」の優れているところを見出し、伸ばすことができるようになるからである。名監督、名コーチ、名評論家といわれる人は、「センス」を見出す才能・「センス」があり、それを伸ばさせる能力・「センス」がある人である。


 一口に「センス」というが、いろいろなことにそれぞれ必要な「センス」がある。一人の人間はすべてのことに「センス」があるわけではない。音楽には非常な「センス」がある人が運動はからきしだめとか、神様は人間を平等に作られている。だから人間は互いにそれを補うために社会生活を営むのである。どんな人にも優れた「センス」はあるのだが、それが自身で認識できない、見出せないだけである。何にセンスがあるのかは、興味の持てることをいろいろやってみるしかない。大成した人はそれを見つけることができる能力があった人、あるいはそれを運良く見つけられた人かもしれない。(2006.7.4執筆に加筆)


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