・夏休み初日
暗闇の中で、俺を呼ぶ声がした。優しい音色のような声が、何度も俺の名を繰り返す。すると、今まで真っ暗だった視界に徐々に光りが射し始める。光はどんどん強くなっていき、やがて俺は光に飲み込まれた。
「おはようございます! 翔太さん」
目覚めて最初に目に映ったものは琴羽の笑顔だった。
「あぁ……おはよう……」
意識がぼんやりして無気力ながら俺も挨拶をする。
「朝ごはん出来てますからね、降りてきて下さい」
屈託のない笑顔で告げると、琴羽はパタパタと足音を刻みながら部屋を出て行った。俺は大きなあくびを一つして上体を起こす。ベッドの上に置かれた目覚まし時計を見ると、今は午前八時半である事が分かった。
普段の休日ならばもっと遅く起きるのだが、今日は随分と早いと思う。原因はやはり、昨日から家に居候する事になったあいつなのだろう。
そんな事を考えながら、俺は部屋を後にした。
ダイニングへ着くと、机の上には既に朝食が並んでいた。鮭、味噌汁、白ご飯。典型的な日本人の朝食だ。
「翔太さん、どうぞ」
そう言って琴羽は椅子を引き、座る事を促す。俺が席に着くと、琴羽も向かい合って座る。
「いただきます」
俺は箸を持つと、鮭を摘まんで口に運ぶ。
「どうですか? しょっぱくないですか?」
不安そうに聞いてくる琴羽がなんだか面白くて、つい笑ってしまった。
「大丈夫、うまいよ」
俺の言葉に、今度は満面の笑みで喜ぶ琴羽。表情が豊かなやつだなぁ。
「あんま面白いのやってないな」
テレビのチャンネルを何回も回す。やっている番組は料理教室だのワイドショーだの、あまり興味を惹かれないものばかりだ。
因みに、琴羽は今キッチンで食器を洗っている。俺も手伝おうと声を掛けたのだが、これは私の役目ですと言って手伝わせてくれなかった。
「キャ!? しょ、翔太さーん! 助けて下さい!」
急に、琴羽の悲鳴のような声が聞こえた。
「なに!? どうした!」
その琴羽の声から、琴羽が今とんでもないピンチに陥っている事がすぐにでも理解できる。俺がキッチンへ行くと、涙目の琴羽が抱きついて来た。凄く恥ずかしいが、それよりも琴羽が無事で良かったという安心感が大きい。
「おい、どうしたんだ?」
「あ、あれ……」
琴羽は人差し指を壁に向けた。俺も壁に視線を移す。壁には、一匹のアシダカグモが静止していた。
「……なんだ、ただの蜘蛛か」
「なに言ってるんですか!? アシダカ軍曹ですよ!? 天敵ですよ!!」
「わ、分かったから一旦落ち着こう。な?」
豹変したようにまくし立てる琴羽に驚きつつも、なんとか鎮静を試みる。なんとか琴羽を落ち着ける事が出来たが、その頃には壁にいた蜘蛛の姿はなかった。
「お前蜘蛛苦手なんだな」
「はい、特に軍曹は見ただけで失神ものですよ」
「軍曹ってなんだよ……」
一日というのはあっという間で、今はもう夕食の時間だ。
「後は、猫もダメですね」
「猫も? なんでさ、可愛いじゃん」
俺が言うと、琴羽は驚愕の面持ちで語った。
「あれが可愛いですか!? とても共感できる感情ではないですね。私には悪魔か死神に見えます」
「そ、そうか……」
そんな事を話していると、不意に電話が鳴った。
「私でますよ」
「いや、ここは俺がでよう」
俺は立ち上がろうとする琴羽に言うと、そのまま電話の元に向かい受話器を取った。
「もしもし、石井です」
『おー! 翔太か?』
その声は、受話器越しにでも誰のものかすぐに分かった。
「和真か。どうしたんだ?」
『いやー、本当はわかってるんだろう?』
「わかんないから聞いてんだろうが」
『そりゃそうだ』
和真はわざとらしくクックックと笑って続けた。
『翔太、明日暇か?』
質問され考える。別に予定はない。
「暇だな」
『決まり!』
答えると、勢い良く和真が言った。決まりってなんだ?
『明日、輪と一緒にお前ん家泊まりに行くから』
「……え?」
『ということで、アデュー!』
ガチャリと、受話器を置く音が耳元で聞こえた。
和真と輪が明日泊まりに来る。なるほど、理解した。
だが、一つ重大な問題があるだろう。
「翔太さん、どうでした?」
ダイニングに戻ると、琴羽が何気なく尋ねてくる。
さて、どうしたものだろうか……。
俺は琴羽の事をどう説明するか思考を巡らせた。