・共同生活は突然に
掛け時計に目をやると、針は午後八時を指していた。
「大丈夫なのか? もう結構遅い時間だぞ?」
「え? 何がです?」
俺の問いかけに、琴羽は小首を傾げて聞き返す。こんな質問されたら、普通は「あ、もうこんな時間!」とか言って慌てても良いものだと思うのだが。
「いやだから、もうそろそろ帰った方が良いのではと」
「あぁ、そういう事ですか」
琴羽は納得いったように言うと、急に立ち上がり頭を下げた。何をしてるんだ? と思ったところで琴羽は頭を上げ懇願するように言った。
「お願いします! 私をここに住まわせて下さい!」
琴羽が言った言葉の意味を、一瞬見失う。そしてその意味を理解すると同時に疑問が沸騰した。
「あの、理由は……?」
歯切れ悪く尋ねる。
「まあ、深~い事情がありまして……。でも、迷惑はかけませんから!」
困ったように言うと、再び頭を下げる。
これはまいったな。この問題の解決は大変そうだ。
まず、母さんの不在。これは大きい。母さんは仕事の都合上、夏休みの間は家にいないのだ。まあ母さんなら許可だすと思うけど。
俺個人としては泊めてやりたいが……良いのか? 若い男女が一つ屋根の下……何て常套句を良く聞くが、それが今まさに実現しようとしている。だが、俺からなにかするつもりはないので、琴羽が良いなら俺は良いのだが……。
「……琴羽は大丈夫なのか? ほら、例えば親御さんが心配したり」
俺の一言で、琴羽の雰囲気が変わった。それは先程のあの雰囲気と同じだ。
「……私に親はいません」
琴羽はどれ程重い過去を背負って生きているのだろう。そう思いながら話に耳を傾ける。
「それに、私を心配するような人いませんよ」
自嘲気味に笑みを溢して琴羽は言う。
「そんな事ないだろ」
琴羽が言い終わると同時、思わず声に出していた。驚いた顔をする琴羽に、俺は勢いのまま言葉を紡いだ。
「そんな悲しい事言うな。お前は自分を過小評価し過ぎだ。……少なくとも、俺はお前を心配してる」
勢いで言ってしまったが……凄く恥ずかしい。普段からあまり女子と接点がないのに、こんな台詞を言えた時点で奇跡だろう。
チラリと琴羽の顔を見ると幸せそうな笑顔が咲いていた。生憎と、あの笑顔を見た後で出て行けと言える程俺は鬼畜ではない。
「とりあえず、母さんが帰って来るまでだ。その後は母さん次第だな」
「ありがとうございます!!」
「あ、あぁ」
琴羽に目を合わせてお礼を言われ、俺は咄嗟に顔を逸らしてしまった。……顔が熱い。
「どうかしましたか?」
「いや、別に」
俺は恥ずかしさを紛らわせるようにして足早にリビングへ向かった。
「疲れたぁ……」
湯槽に浸かりながら、深い溜め息を吐き出した。
この湯に身を委ねるだけで、心も身体も癒されていく。
それにしてもなんだかとても疲れた気がする。今日はいろんな事がありすぎた。まさかこんな事になるなんて……非現実的だな。
それでも今だけは何も考えずに癒されよう。そう思った矢先だった。
「翔太さーん!」
さっきまでキッチンで食器を洗っていた筈の琴羽の声が、折戸の向こうからバスルームに響いて聞こえた。
「ど、どうした?」
急な琴羽の声に内心驚きつつも、努めて冷静に尋ねる。
「あの、お背中流しましょうか?」
「――ファ!?」
声が裏返ってしまった。今あいつはなんて言った? いや、落ち着け。ここは落ち着いて対処しよう。大丈夫、俺は出来る。
「いや、俺は大丈夫だから。もうそろそろ出るしな」
「そうですか?」
曇りガラスにあった人影が消える。
良し! 良くやった俺! 偉いぞ俺強いぞ俺!
俺は独りで勝利の余韻に浸りに浸って、風呂を後にした。
「琴羽はここで寝てくれ」
「はい! 分かりました」
「じゃ、おやすみ」
言い残し部屋を立ち去ろうとする俺を、琴羽が呼び止めた。
「翔太さん。この部屋、絶対に覗かないで下さいね」
「の、覗かないっての」
琴羽には一階の客間で寝てもらう事にした。
俺は二階にある自室へ行き、照明を落としベッドに滑り込む。
妙に目が冴えて眠れない。仕方無いと言えば仕方無いのだが。恐らく、今日という一日は俺の一生に深く刻まれた事だろう。
寝返りをうって目を瞑る。時計の針が動く音が鮮明に耳に届く。
そうしていつの間にか、俺の意識は闇の底へと沈んでいた。