・始まり
それは、俺がリビングでテレビを見ていた時、突如として起こった。
「キャッ!? ちょ、翔太! 来て!」
キッチンで洗い物をしていた筈の母さんから、急な呼び出しが掛かる。その焦りと恐怖を含んだ声からは、母さんが今とてつもない危機に瀕している事が考えずとも分かった。
「どうしたの!? 母さん!?」
俺は即座に立ち上がり、全速力でキッチンへ向かう。
キッチンに着くと、母さんが俺の方に駆け寄って来た。
「たた、大変よ翔太!」
「落ち着いて、何があったの?」
興奮気味の母さんをなだめつつ、俺は何があったのかを尋ねる。すると母さんは、キッチンの壁目掛けて人差し指を向けた。
俺は母さんの人差し指の先を見てみる。そこでようやく、俺は騒ぎの原因を知る事が出来た。
母さんの人差し指の先、キッチンの壁には、一匹のゴキブリが触角をうねらせながらカサカサと蠢いていたのだ。
「何だ、ただのゴキブリじゃないか……」
俺が落胆して言うと、母さんは俺を睨みつけて言った。
「何落ち込んでんのよ!? 一大事じゃないのよこれ! 早く何とかしてよね!」
やれやれ……。仕方がない。母さんは虫が苦手だからな。
俺はティッシュを三枚程手に取ると、気配を消してゆっくりと壁に近づき、ゴキブリに照準を合わせる。
そして、俺の右手が稲妻の如く速さでゴキブリを捕らえた!
「はい。もう大丈夫」
「ありがとう、助かったわ」
俺はそのままリビングへと戻り、窓を開ける。
「俺は無駄な殺生はしない主義なんだ。じゃあな、ゴキちゃん」
ティッシュを広げ、ゴキブリを外へ逃がす。
後は窓を閉め、カーテンを掛け、ティッシュを丸めて捨てる。
そして俺は再びソファーに腰掛け、テレビの続きを見始めた。
この時の俺は知らなかった。こんなどこの家でもある些細な出来事が、全ての始まりだったなんて……。
その日、俺は勉強机に向かいペンを走らせていた。
今日から夏休みだからと言ってダラダラとするのは三流がする事。俺クラスになると、初日で宿題を全て終わらせ、残った日々を優雅に過ごそうと言う思考に至るのだ。
そうしてペンを片手に文字とにらめっこする事四時間程。
何日か前から既に宿題を始めていた俺にとって、初日で宿題を片づけるなど朝飯前なのだよ。
……いや、もう夕食の時間だったわ。ごめん、夕食前に訂正。
心中独り漫才をしながら、今日の夕飯について考えている時。
ピンポーンと、インターホンの音が耳に届いた。
「はーい」
こんな時間に誰だろうと思いながらも、玄関へ赴く。
そしてスリッパからサンダルに履き替え、ドアを開いた。
――そこには、美少女と言うに相応しい、俺と同じくらいの歳の少女が佇んでいた。
「こんばんわ。初めまして、石井翔太さん」
俺があっけらかんとしていると、少女は柔らかい笑みを浮かべて挨拶してくれた。……あれ?
「あの、何で名前……」
俺は自己紹介してないし、少女とは初対面だ。なのに何で名前を知っているのだろうか?
少女から返って来たのは、俺の疑問に対する答えとしては曖昧だった。
「知ってますよ。私は翔太さんの事が大好きなんですから」
「……へ?」
予想外の返答に思わず素っ頓狂な声が出てしまった。
少女は呆ける俺を無視して続ける。
「それで、私がここに来た訳ですが」
一呼吸置いて、少女は言い放った。
「私、翔太さんの為に尽くしたいんです!」
「……うん? 尽くす?」
「はい! 私翔太さんの為なら何でも出来ます!」
「…………」
正直、この状況が理解出来なかった。
俺は何故、見ず知らずの美少女から衝撃告白を受けているんだ?
「それで翔太さん、お邪魔しても良いでしょうか?」
「え? あぁ、どうぞ」
「ありがとうございます! では、お邪魔します」
気づくと、少女は躊躇なく家の中へと進んでいた。誰が入って良いと言った、図々しいな。……あれ? 俺が言ったのか。
俺はボーッとしながらも、少女に続いて家に上がった。