Clearth 八、絶望
透き通った水槽の奥に浮遊椅子に座った少女が映る。
その部屋は酷く暑く、何か病的な気配が立ち籠めていた。
「お越し下さってありがとうございます、レンシア副教官」
もう1つの影はベッドの自動操縦を行うと上半身だけを起こして少女と対面した。
2人の表情は何も楽しげではない。特にベッドの上の少女は時々目蓋を下ろしては何かを堪えるように唇を震わせていた。
「1つ伺いたいことがあります。ルキトのサポーターになるというのはルキトを生かすためではありませんよね」
その声は酷く明瞭でありながら確かな殺意にも似た気配を孕んでいた。
白い壁一面に亀裂が入りそうなほどに鋭い視線はレンシアを射貫く。それでもレンシアはその問いにわずかな逡巡を見せてからデバイスを操作し始める。
【答えは「はい」】
あまりにも単調な受け答えはリナの心に久々の怒りを覚えさせた。ルキトの命はこの目の前の少女にとっては塵同然であると言われたようなものである。
「ふざけないでください……冗談でも言って良いことではありません」
あらかじめ薬を飲んで気分を落ち着けていたリナではあったが、暑い部屋を常温と感じられるほどまでには気分が昂ぶっていた。
【冗談ではありません。ルキトをあなたの使用していたオーバーブレインにサーキットとして組み込みます。そうすれば――】
「ふざけないでっ!」
ベッドから転げ落ちた少女は【リナ、落ち着いて下さい】とレンシアに窘められる。
「私は、私はルキトを守る為にあの装置を付けたんです……! ルキトを殺す為に使うなんて絶対に赦さない……」
四つん這いになりながらリナはレンシアの浮遊椅子に縋るように手を乗せる。
白い床に点々と落ちるのはリナの吐血だったが、リナは狂気に塗れた鬼の形相でレンシアを睨んだ。
「撤回してください。私はそんなの絶対に受け入れられません。もしそうするとしても私がやります」
【わかりました。それなら、あなたが私に差し出せるものを提示してください】
リナは息を呑んだ。レンシアは全く動じていないどころか、リナという人間の全てを呑み込もうとしている。その意味するところはルキトを失いたくなくば命を差し出せということと同義であった。
だったらとリナはデバイスを操作していく。もはや死ぬことを待つだけの身で恐れるものなど何もないのはその気迫から見て取れた。
「……ミツイ訓練長が肉体を失ってまで残したデータがあります。これは私の適合率と類似する第二の存在です」
レンシアの表情は流石に変化した。大きく見開かれた目にその証拠が飛び込んでくると興味深く頷く。
【充分な情報ですが、私がほしいのはあなたの粒子情報及び端末情報と思考サーキットです】
はっきりとレンシアはリナの耳だけに伝わるように音を飛ばした。
「そんなもの、どうするんですか……」
リナを複製するための情報がほしいと言っているようなものである。
それもリナという人間を脳内情報、毛の一本、口内細菌に至るまで何からなにまでそっくりそのままコピーするというような異常すぎる情報量である。
【どうするかは問題ではありません。私に必要なのはレッドとこの世界だけです】
レンシアもまたリナと同じ願望の持ち主であることはこのことから窺えた。
しかし、違いがあるとすればそれは1人の人間が抱えきれる大きさのものではないということである。
リナは承諾するためにデバイスを差し出し丸1日、その部屋から姿を消したのだった。
――――。
【――サテライトより通信。機獣のレギオンを発見。本艦はこれより第三次カタルシスの準備動作へと入る。21区凖隊員は各自機体へ搭乗し指示を待て。繰り返す――】
純白の寝床で静かに眠るリナにルキトは視線を流した。高層から見える暖かな光がゆっくりと陰りを増していきどろどろとした夕闇へ変化していく。
今はただ彼女の望む自分の生を得るためにルキトは自身の存在に埋没していた。その顔には悲愴な決意と覚悟が浮かんでいた。窓辺に置かれたシャナの髪留めが影を伸ばしていく。
「行ってくるよ」
ルキトが窓辺にふと目を向けたとき腕にあるデバイスに信号が入る。
『部屋の外で待ってるわ』
聞き慣れた声はシャルのものだった。ルキトは黒い髪留めを握って扉を開けた。
クレアーズの中では珍しい金色の髪に低身長のハンデを抱えたシャル。彼女の澄んだ鳶色の瞳はいつも冴え渡っている。いつもいるはずのマキリの姿が見えないことにルキトは不思議に思いながらも握った手の平を開いて見せた。
「これ、返すよ」
「……今さら?」
厳しい視線もルキトの視線と交わったとき、不意に和らいだ。
シャルはその髪留めを受け取るとしなやかな手つきで髪を束ねていく。
相対する2人の間に会話はなかった。
「分かってると思うけど、私があの時降参しなかったのは――」
「分かってる。リナがあの戦いに賭けていた信念もそれが何であったかももういいんだ。俺はもう生き延びることしか出来ないんだから」
わずかにシャルの眉が下がった。
ルキトの言葉に救われたのか、優しげな瞳の奥にかすかに映したものは羨望や憧憬かもしれない。
シャルはいつからかルキトの一挙一動にこうして食い入る視線を向けるのだった。
「そっちの方が綺麗だ」
結わいていた髪がむずがゆくなってシャルは視線を逃がす。
「行きましょう。今日は正真正銘、私たちクレアーズの戦い。私たちの生き残りを賭ける本当の戦いよ」
ルキトはデバイスを気にしながらシャルの後ろを着いていく。
廊下へ出たところで慌ただしく足音が増えていき、人の数が数えられなくなるほどになった。
「ねえ」
不意に呼び止められたルキトは脚を止める。そこにシャルの視線が訝しむように向けられた。
「あんたは誰を信じてるの?」
喧噪の中から聞こえたシャルの声にルキトは聞き返す。聞かなかったことにして欲しいと言われた後に扉が開き円柱型の容器が並ぶ部屋に出た。
「よう、ルキト」
次々と後ろから人が流れる中で片手を上げたマキリの姿ははっきりと浮き彫りに見える。ルキトはマキリの筋肉量の変化に少しだけ戸惑った。
にかっと笑うマキリにルキトもその違和感を極力無視して応える。
「変な気を遣ったわねマキリ」
「初陣なのに最初から最後まで男1人で歩いてたら格好つかねえだろ。男女ペアであることがクレアーズの誇り高き姿さ」
「マキリ」
「いや、別にお前に気を遣ったわけじゃないからな。シャルだってお前と言葉を交わしたいと思うことだってあるかと思ってだな」
「それが変な気って言うの」
胸筋がスーツの上から見えるほどになってその視線に気付いたマキリは上辺だけの微笑を浮かべた。
「気付いたか? 自分でもやり過ぎだったとは思ってるんだぜ。筋肉なんて付けたところで技術が向上するわけじゃないってのによ。我ながら小心者だったと自己嫌悪してるところさ」
マキリの態度にすかさずシャルが拳を叩き入れる。腹に入った拳に苦悶の声を上げるもシャルだけ満足げな顔をして小口をひらく。
「こうして私の気合いを入れるのには役立ったわよ。ほら、もう行きましょう」
2人は合い言葉のように「またクレアースで」と母艦の名を口にした。
そこから逃げるようにシャルとマキリは歩き出す。
最後に見せたマキリの顔は憂いでも虚無でもなく静かな感傷のようだった。
「俺も行こう」
それはここにいないリナと共に掛け合う言葉だったことにルキトは気がつかない。
円柱の容器はルキトを飲み込むと外との景色を遮断して肉体の状態と精神状態をチェックしていった。
【搭乗席へアプローチします。目を瞑って舌を噛まないようにお気を付け下さい】
一瞬のうちに空気が冷たく代わり、浮遊感が伝わる。
目蓋を開くと真下にコックピットがあった。巨大な機体が無数に見えるそこはさながら鉄の要塞のようでもある。周りには不安を共にする仲間がいるが、ルキトだけはただの1人だった。
「ルキト!」
マキリの声が遙か遠くから聞こえる。
見れば親指を突き立てて何かを合図していた。
「あいつ……」
苦笑いしながらルキトも親指を立てた。コックピットに呑まれていくといよいよ仮想とは違う現実味に戦慄する。
「空気が違いすぎる……」
空調の再現性まではないのが当たり前なのか、ルキトは凍てつくような死の香りに逆毛を立てていた。
【ロードします。――完了。サポーターを待ちます】
一瞬のうちに終わるロードにルキトは不安を覚える。
無限のようにすら感じる時間の中でコックピットから見える景色ではもう誰も乗り込む生徒はいなかった。
「やっぱり、俺のところだよな……」
搭乗する人数を確認してもルキトのところだけ空白になっていた。
事前に司令塔であるレンシアが搭乗することは全員が分かっているので特にこの膠着状態に焦りはない。
通信が入ってからその顔がモニターされるとマキリの顔があった。
『俺、お前にまだ言ってないことがあったんだ』
マキリの神妙な顔つきにルキトも同じように促す。
『あの時のポイントだけど――』
【レンシア・シファンがログインしました。ロードします。適合率……88%】
マキリの言葉を遮って示された適合率の高さを見てルキトは混乱と驚きに動揺する。
「88……」
後ろを振り返ったルキトはその姿を不審に思った。
「そのかぶり物はなんですか?」
顔を覆う覆面は卵のように凹凸がなく気味が悪い。何も言わないレンシアにルキトは首を傾げながらも操縦を開始する。
「俺は生き残る……」
虚空に消えるその呟きは誰1人として知られないままに部隊がそれぞれに動き始める。
「機体が重いな……」
ルキトは連結した神経信号で操縦を続けるもうまく飛べていない気がしていた。
そんなルキトの憂いを置いて白い球体型の母艦から飛び出していく機体の群は糸のように連なりながら目的座標へと向かう。
【我々の任務は機獣の掃討、もしくは攻撃意志の排除になります。エヴォリューション開始。――ステップセカンド。陣形、自動ロードされます。通信をマルチ化】
全機と繋がった通信も今は妙な緊張感によって静寂だけが支配していた。
『こちらエヌ104。索敵出力に連結願います』
『エヌ98。了解した』
『エヌ22。了解』
次々と連結していくレーダーにルキトのモニターに映るレーダーの範囲も増幅されていく。
レーダーの後方に味方の機体を示す黄色い点が複数現れる。
『もう1つの部隊だ、前方にいたんじゃなかったのか……』
『俺たちで片付けてしまったら本部隊の面目は丸つぶれだろうな』
その声に同調する者はいなかった。仮想訓練の時点で一般的な機獣における圧倒的な戦力差を目の当たりにした後では誰もが逃走することを念頭に置いている。
『私のところに通信入ってます。全機に転送します』
モニターに現れた男は厳つい顔でこちらを見ていた。瞳の奥底に何か得体の知れない炎と闇をたずさえる。
それは怒りよりもおどろおどろしい憎しみにも似た感情の奔流だった。
そのモニターからの声を待つとやがて男の角張った顎がゆっくりと動き始める。
『私は、クレアラットのライジンである。訓練生が何故我々より先に出ているのか説明願う』
仲間たちの戸惑いの声はルキトの耳にも伝わった。
『我が隊は人数が揃い次第発艦する許可を頂いております。それによって――』
『黙れ……』
呻るような低い音がルキトたちの背筋を冷たくする。他の本隊と思われる通信が男の機体から漏れて聞こえていた。
『本当に説明し始めるとか話にならないね。何も知らないのか?』
『言うなよ。もうどのみちほとんど死ぬ相手だ。今は見守ろう』
『新しいメンバーの誕生に乾杯』
通信はそこで途絶える。部隊は見えない壁で遮られたように距離を保ちながら着いてくる。
ルキトたちの通信はその不気味な様子と不安から憶測が飛び交っていた。
『反感を買ったのか? 全く近づいてこない』
レーダーの外側ぎりぎりで本隊であるはずのクレアラットは待機していた。
『おいおいおい、冗談だろ。どうして初っ端からこんなことになってるんだ。レンシア副教官の話と違うじゃないか』
落下する乗り物に乗ったかのように全員に薄ら寒い恐怖が走った。何かが守ってくれるなどあり得ない話だったのだと皆が口を揃えて叫び出す。
【任務を遂行して下さい】
『レンシア副教官はルキトの機体にいるはずだろう。教官! 説明して下さい。我々の命を助けてくださるのではなかったのですか!』
ルキトの機体のサポーターがモニターに映し出されると一斉に悲鳴があがる。
割れた覆面の間から色白にやつれた顔を浮かべて眼窩の黒から気味の悪い微笑を向ける少女の姿がそこにはあった。
「リナ!」
青白い頬は土気色にも映り、額には紫色の血管を浮き上がらせておよそ生きているとも死んでいるともつかない人間に誰が悲鳴を堪えられただろう。
薄黒くなった唇を開いてリナは血走らせた眼を揺らしながら何かを呟いた。
「レンシア副教官は来てないよ。私は、ルキトを生かすためだけに来たから」
『――――は――ぁ……?』
その意味するところをルキトを除いて誰よりも先に理解したのは一番長く時間を過ごしたシャルだった。
『私たちを犠牲にしてルキトを生かすってこと?』
ゆっくりと頷くリナに通信機からは怒号にも似た叱責が飛び交う。それらの通信を全てリナはシャットアウトしていきシャルとルキトの機体だけが通信状態となった。
移動し続けなければならない他の機体はルキトに期待するのを諦め、部隊のリーダー的存在であるジェイドたちを主軸とした動きに変わる。
リナがシャルとの通信を最後に残したのには理由があった。
「私は真実をしっている。その機体にマキリ君はどんなカスタマイズをしたの? 6万のポイントは何に使ったの?」
マキリは奥歯を噛みしめていた。シャルの驚きに振り返る顔にようやくその力を抜いてマキリは正面からリナを見つめる。
『ポイントは全て俺の演算能力向上のために使った。悪いなルキト本当はさっき、言おうとしたんだけどよ……』
突然の告白にルキトの表情は堅くなった。もっと他に理由があるのではないかと思うもそれを口には出来ないでいる。
『マキリ、どういうこと? あのときのポイントは審査があるから誰にも入らないって、言ってたじゃない! 私、それをずっと信じてたのよ!?』
シャルの心の内からの声もマキリは飄々と流して見せる。
オープンの通信を行ってマキリは後方にいるクレアラットの男に問いかけた。
『あなたが訓練生のときの仲間は今どうしていますか?』
男は一瞬の間を見せてすぐに口を開いた。
『死んだ。俺を除いて1人残らずな』
シャルがモニター越しに息を呑む。
『嘘よ! じゃあ後ろにいる仲間の数はなんなの? 私たちと同じくらいの数じゃない』
『皆、各区画から生き残ったただ1人のクレアーズだ。総名286機、誰1人として同期で同じ区画であった人間はいないだろう』
『これが現実だ、シャル。分かってくれ』
そこにリナとルキトへ許しを乞うマキリの姿は当然ない。ルキトは静かにマキリの通信を切ってリナを見上げた。
【脅威検知、脅威指数23】
男の諦観にも似た声が通信を途絶させたようだった。
モニター越しに見えるのは一面の闇。恒星の1つ見えない宇宙空間に確かにそれだけは見えていた。
「光だ……」
七色に輝く輪。ただそれだけがモニターに映る。
それと同時にルキトが切った通信から再び連絡が入った。
『お願いだから切らないで。私はこんなかたちで終わるなんて嫌よ……私たちは仲間だったはずじゃない』
シャルの震える声ははっきりと意志を持っていた。今また付けられた髪留めにルキトは目を留めてそれが自分の手にあった感触を想う。
リナは何も言わない。ただ下にいるルキトの後頭部をじっと見つめている。
「俺とシャルは仲間だ。だから聞かせてくれ、なぜシャルに黙っていたんだ……マキリ」
マキリを睨め付けるように問い糾すルキトは少しだけ期待するような視線も持っていた。
だからこそにマキリは口元を歪めて強ばった微笑を作る。そこから発せられた言葉はオープンであれば同士討ちになるかもしれないほど信じられないものだった。
『甘ったれだな、お前は。シャルがなんだって? 仲間、笑わせんな……。たった今お前のサポーターにも同じ質問をしてやろうじゃないか。何故俺たち全員を売ったんだ……ってな」
リナは穏やかな表情でとても苦痛を感じさせないほど澄んだ声に乗せてその理由を放った。
「ルキトのためだから」
「どういう、意味だ……?」
マキリは勝ち誇ったように笑った。まだわからないのか、と。
『ルキト、お前の座ってる席は操縦席なんかじゃないぜ』
そうして通信が切れるとルキトは自分の機体が重たく感じる違和感を明瞭に理解していく。