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掌編小説 自選集

掌編「霧のなかの馬」

作者: 蓮井 遼


お読みいただきありがとうございます。


 日中は霧に覆われていたこの草地に馬が良質な草を求めにやってきた。毎日のことながら、霧のなかでは来た道と帰る道の方向が同じではなく、馬は自分の疲れ具合はわかるけれど、同じ道を探すことはわからない。霧が消えてしまえば馬は簡単にご馳走にありつけるだろう。ところがここの霧は不思議なことに暗くならないと消えはしない。雨が長く降らない時もあるのに不思議なことに霧は生きているように毎日顔を出している。

 ある日のこと、馬が霧のなかで草を食んでいると、どこからか鳴き声が聞こえた。その鳴き声がまるで危険が差し迫ったときに反射的に鳴いてしまう甲高い声に似ていたので、馬は草を食んでいながら、声のことが気になった。すぐにもう一度鳴き声が聞こえたが、馬は自然とその声に身震いするようになった。馬は怖くなった。自分にはなにもやってこないかもしれない、でもその声が馬を震えさせることで、馬は何かしなくてはならない気になり、その場で鳴き出した。馬は自分の声によって警戒などではなく、自分になんともいいがたい衝動を感じた。この動き出した衝動が馬自体を引っ張り出し、馬はいつもの迷ってしまう道ではなくて、一目散に正面に駆け出した。そして、しばらく走ると、馬は樹木にぶつかり頭を強く打って倒れこんだ。

 どれくらいの時間が経ったのか、馬が意識を戻すと霧が消えて辺りが暗くなっていた。馬にとってはこの時間に草地にいるのは初めてのことだった。起き上がると、馬は身体が軽くなったのを感じた。首に付けていた輪が外れて下に落ちてあった。馬はどうしたらよいのかわからなくなって困惑し、周りをぐるぐると周っていた。

「この首輪は自分を縛り付けていた柔らかくて外せない首輪だった。自分はもう外せないことに諦めていたのに外れてしまった。あの鳴き声を聞いてしまってから自分がこの首輪を外すことに叶わず足搔くのをやめたことがとても恥ずべきことのように思えてきた。だけどどうしたらよかったのだ。首輪を受けるかわりにそれなりの権利を貰ったのだろう。それに自分だけで暴れたところでどうなる。他の馬のようにおとなしくなったことは望むべきでないことだったのだろうか。私にはわからない。見渡せるようになったのに視界ははっきりしない、暗いようだ」

 帰る方向を見定めた馬はゆっくりと歩いた。自分の惨めさとは裏腹に歩く道はいつもの厩舎に戻る道だった。そしていつもの分かれ道に差し掛かった。

「首輪がないのだ。誰も私を見つけることはできないだろう。この髪を乱してしまえば余計にわからなく、あとで心配して誰か探しにくるだろう。だから行くなら今以外にないだろう」

 そう思って馬は厩舎とは違う道に身体の向きを変えてみたが、途中で戸惑った。

「しかし、私が抗って壊したかったのはこのいつもの習慣だったのだろうか。もっと大きなことのために、たとえばあの厩舎全てを壊してしまうようなことのために私は差し向けられているのではないだろうか。だが、私以外の馬もそして私自身も厩舎から出たいなどと思っているだろうか。係りの人は自分たちを大切にしてくれているのだ、今更私が契約を覆して何になるだろうし、他の馬に非難されてしまうだろう」

 馬が戸惑う理由はもう一つあった。馬は今までの日々の過ごし方を脱して、新しい過ごし方を自分で作っていけることに自信がなかったのだ。馬は環境が変わることによってやり過ごしていけるという本来生き物には避けては通れなく備わっている当然のことが自分に当てはまるとは思えなかった。言いかえるなら、馬は野生の頃で育まれた自身の適応する特性を忘れ、教育や訓練によって積み重ねられ自覚できることにしか信頼できなくなっていた。そして、厳しい訓練を受ける代わりに良質な草地を恵んでくれるので、従うことの代わりに食べ物に困らなくなり、この日々の過ごし方自体に縋るのではなく、当然のこととして信頼しきっていたのではないだろうか。今や、その信頼がどこからかの鳴き声と自分自身の衝動によって簡単にも壊されてしまって、馬は不安になっていた。もっとも簡単な方法は今までのように厩舎に戻ることだったが、実は馬に与えられた選択肢は二つでなくて三つになっていたことが余計馬を苦しめさせた。信頼を維持すること、信頼に背き自分自身で作り上げること、そして信頼を壊し、仲間を巻き込ませること、今の馬にはとてもではないが戸惑いゆえに浮かんだ第三の選択は選べなかった。もともと、この選択はいつでも動ける時ならば可能であるのだが、これまで馬には思いつきもしなかったのであって、それはふとどこからかやってきたのだった。そのどこかによる一種の挑発のようなものだと馬は思うことにして、その浮かび上がった選択は失くすことにした。それ以上に馬自身の生き方がこの厩舎で過ごした結果から妥当ではないと判断したのだった。しかし、さっきまで問題を押し付けていたどこかの声は馬にもう一度差し掛かるのだった。ほどなく偶然にも自分の行動によって首輪は外れていたこともあるが。

「どうなるか私はわからないし、自信もない。そう、経験によって摑んできたものに頼る自信がないのだ。私は挑戦してみたい。私がこの首輪を外せたという事柄に隠されている私自身の変化性に懸けてみたい」

 その場でしばらく立ち止まっていたが意を決して、馬は厩舎とは別の道に歩き出した。この道は遠くが拓けて広がっていて馬は自然に動かされ駆け出した。暗がりのままであったが、馬は走っている景色を把握できていた。だから障害物に激突することなく、馬はどんどん遠くに進んで、厩舎にも霧の囲むこの草地にも来ることは二度となかった。暗さの中を体で突き進んで、視界がはっきりしたのは馬にこの暗さが親和していったのかもしれない。


 


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― 新着の感想 ―
[一言] 引くも地獄、引かぬも地獄なら、展望が開ける前方に進んでみるのもアリかもしれません。それでも自信が無いのであれば、途中で立ち止まる選択肢も残っているでしょうから。
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