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大事なあなた  作者: トウリン
迷子の仔犬の育て方
9/83

「もう一度、言ってみろ」


 本日の執務が終わり、さあ帰ろうか、ということになったところである。

 本社最上階の執務室の中で、サラリとたちばなが告げたことに対して、一輝かずきは地を這うような声でそう言った。


 橘の台詞を聞き逃したわけではない。ちゃんと、耳には入った。

 だが、橘が放った言葉を脳が受け入れることを拒否したのだ。


「ですから、おじい様のご指示で、数ヶ月の休暇を取り、大石家にしばらく滞在するように、と……。その校区の小学校への編入も手配済みです」


 間違いない。

 一度目に聞いた台詞と同じだ。


「……何故、そんなことになった?」


 以前から、あの祖父は変な遊び心がある人だとは思っていた。だが、今回のこれは、いったいどういうことなのか。


 思わず一輝は頭を抱えて机に突っ伏した。そこに橘の声が被さる。

一雄かずお様が亡くなってから一輝様は全くお休みを取られておりませんし、お友達ができたのなら、いい機会だろう、と……」

「いったい、何を考えていらっしゃるんだ、あの方は……」

 答えを求めていたわけではなかった一輝の呻き声に対して、橘は淡々と先を続ける。


「弥生様の方からは、快く了承を頂いております。本日からでも構わない、と仰っていただけて」

 恐らく、裏も表も下心もなく、弥生は本心から快諾してくれたのだろう。


「弥生様は、変わりませんねぇ」


 ふと、橘が呟いた。


「ああ……そうだな」

 頷いた一輝の脳裏には、彼女の屈託ない笑顔が浮かぶ。


 一輝の財力、権力は、大きい。

 しかし、これほどの富を目の前にしながら、あの少女は全く態度を変えない。

 大抵の女性であれば、すぐに目の色が変わってくるものだ。だが、弥生は、初めてここに訪れた時と変わらず、一輝に対する態度は弟の睦月むつきたちに接するものと大差ない。


「彼女は、本当に変わらない」

 それは一輝の望むところなのだが、何かが微かにチクリと胸を刺す。


 痛み、という程ではない。

 仔猫の爪に引っかかれた、といおうか。


 一輝は無意識のうちに片手でそれを感じた辺りを撫でた。


「……多少は変わって欲しいところもあるのですが……」

 橘の台詞に、一輝はパッと顔を上げる。

 そんなふうには全然思っていないはずなのに、何故か、自分の思いを代弁されたような気がしたのだ。


「橘?」

 眉をひそめた一輝に、彼はニッコリと笑顔と見せる。

「いえ、別に。一輝様の身の回りの物も用意できておりますので、今日、このまま大石様のお宅に伺う、ということでよろしいですね」

「良くないといったら何かが変わるのか?」

 むっつりとそう言った一輝に、また橘の笑顔が光る。


「では、車を用意させますので」

 一輝が頷いたかどうかも確認せず、彼は車の手配をすると同時に主人を急き立てた。


 それからはあれよあれよという間に彼は車の中に追いやられ、そして気付けば大石製作所の前に立っていた。


 そこでまた、一輝の中にまともな思考が立ち上がる。


「橘、やっぱり――」

『引き返せ』と一輝は命令を出しかけたが、窓ガラスが叩かれる音に、思わずそちらを向いてしまった。


 弥生の満面の笑みが視界に飛び込んでくる。


「いらっしゃい! 待ってたよ」

 嬉しそうにそう言われ、『やっぱりやめる』と言えるものがいるであろうか――少なくとも、一輝には言えなかった。

 車の後部ドアが開かれると、弥生の小さく柔らかな手が一輝のそれを包み込み、引っ張り出される。彼女の力などたかが知れているが、されるがままに彼は車から降りた。


「一輝君のお部屋は睦月と一緒でいいかな? 畳だからお布団なんだけど、普段はベッドなんだよね……。眠れるかなぁ。今日のご飯はね、鯵の開きだよ。さっき準備できたところ。干物とか、そういうの食べたことある? お家だと洋食ばっかりなんだってね。わたしが作れるのはオムライスとかだけど、それって洋食に入るかな」


 彼女の問いかけに一つも答えられずにいる間に家の中へ連れ込まれ、我に返った時には、一輝は夕食の準備が整った居間に座っていた。


「いらっしゃい」「よお」「こんばんは」

 達郎たつろう睦月むつき葉月はづきがそれぞれに声を掛けてくる。


「……今晩は」

 一輝が小さく頭を下げると、弥生が待っていましたとばかりに手を一つ叩いた。


 食卓の上に並んでいるのは、ご飯、味噌汁、鯵の開きに野菜炒め――今まで、一輝が見たことのないメニューばかりである。

「はい、じゃあ、いただきますしよう」

「いただきます!」

 弥生の音頭で、中年の達郎から四歳の葉月までの声がきれいにハモる。


『いただきます』という言葉の存在は知っていても、十二年間生きてきて使ったのは先週が初めてだった一輝は、そこに乗り遅れた。ちゃっかり一緒に食卓についた橘に促され、口の中でモゴモゴと『いただきます』のようなものを呟く。


 一輝が言い終えると同時に、睦月がご飯茶碗――というよりは小振りな丼――をガシッと掴み、凄まじい勢いで掻き込み始めた。見る見るうちにその中身は消えていく。「お代わり!」と弥生に向けて空になった丼を突き出すまで、三分とかかっていなかったに違いない。


「ちょっと、睦月。もっと良く噛んで食べなさいって、言ってるでしょ? ほら、一輝君も呆気に取られてないで、食べて食べて。いっぱい食べないと大きくならないんだから」


 睦月のお代わりをよそい、葉月の世話をし、一輝に食べるように促す。その合間に自分も食事をする弥生は、まさに母親そのものだった。


「一輝様、手が止まっています。冷めてしまいますよ」

「あ、ああ」


 橘に声を掛けられ、一輝は弥生から視線を引き剥がす。


 ――一度彼女に目を向けてしまうと、なかなか離せなくなるのは、何故なのだろう。


 その答えは、全く思い浮かばない。

 常に疑問には解答を求めてきたが、何故かその問いはそれ以上考えたくなかった。


 一輝は食事に意識を向け、一口一口丁寧に運ぶ。

 これまで口にしたことのないメニューは温かく、シンプルだがとても美味しい。背骨のついた魚も初めて相手にするものだが、苦労しながら骨を取り除き、ようやく口にすることができた身は、どんな高級魚よりも食を進ませた。


 黙々と食事に集中する一輝の横で、睦月が胸を張る。

「俺、来週の日曜日の試合、スタメンになったから」

「へえ、すごい。頑張ったね」

 弥生に関わる情報の一環として睦月のことも調べているが、彼が所属する少年サッカーのチームは強豪で、メンバーも選りすぐりだ。その中でのスターティング・メンバーというと、相当なものなのだろう。


「お弁当何がいい? 唐揚げ?」

「たっぷりな。あと、ハチミツレモン!」

 弥生の視線が睦月に向きっ放しになると、今度は葉月が彼女の袖を引く。


「ねえ、ぼく、今日、幼稚園でみかちゃんに『だいすき』って言われた! そしたら、あゆみちゃんとみかちゃんがけんかしちゃって、ぼくがイイコイイコしたんだよ」

 誉めて誉めてと言わんばかりに真っ直ぐ弥生を見上げている。


 父親似の睦月に対して、葉月は弥生と同様、母親似だ。女の子のように可愛らしい顔をしており、十年後にはさぞかし甘いマスクになっているはずだ。


 弥生は彼の頭に手を置いて、首をかしげて大きな目を覗き込む。

「そっかぁ。葉月はモテモテだね。でも、ホントに大好きな子は一人だけなんだからね?」

「ぼく、おねえちゃんがいちばんだいすきだよ?」

「それはちょっと違うんだけど……うーん、まあ、いいか。わたしも葉月が大好き」

 そう言いながら、弥生が葉月の髪をクシャクシャと撫でた。


 忙しない。


 ――いつも、こんなふうに食事をするのだろうか。


 一輝は仕事での会食以外に、食事中に会話というものをしたことも聞いたこともない。これが一般的なものなのかそうでないのか、判断するための基準を持っていなかったが、おそらく、一般的ではないのではないのだろうかと思う。


 初日から戸惑うばかりの一輝の横で、睦月が箸を置いた。

 結局彼は三杯もお代わりをしたのだが、あれほど喋っていたのに、何故、こんなに早く食べられるのか――一輝は、まだ半分は残っているというのに。


「ごちそうさま」

「お粗末さまでした」


 食後の挨拶を交わすと睦月は立ち上がり、食器を持って出て行く。どこに行くのだろうと見送っていると、弥生から声がかかった。


「一輝君も、食べ終わったら流しに食器を持って行ってね」

「あ、はい」

 言われて、ここでは勝手に食器が片付いていくことはないのだと気付く。


 直に、食器を置いて戻ってきた睦月が元の場所へ腰を下ろし、再び会話に参入する。


 今日起きたこと、明日あること――話題は二転三転する。

 睦月と葉月は競って弥生の気を引こうとし、達郎はそれをニコニコしながら眺めている。

 ふと距離感を覚えた一輝に、眼が合った弥生がニコリと微笑む。


 途端に、彼の全身を温かなものが包み込んだ。


 グッと、彼女に引き寄せられたような感じがしてしまう。

 思わず手の中の茶碗に目を落として、もそもそとご飯を口に運んだ。


 何なのだろう、この苦しいようでいて、離れがたい感覚は。

 チラリと目を上げると、弥生たちは和気あいあいと言葉と笑顔をかわしている。


 何がこの空間をこんなに心地良くしているのだろう。


 これが、家族というものなのだろうか。


 一輝は、それを知らない。


 だが、この空間を、壊したくない――護っていきたいと、彼はその時強く思った。


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