七
大石家とのお食事会から、一週間が経った日曜日のことである。
この日、橘は二十畳ほどもある和室にいた。
彼の目の前では、六十絡みの初老の男が脇息にもたれて目を閉じていた。男は新藤一智――一輝の祖父である。
橘は、ここ数日の一輝の様子を報告していた。
「――ということでして、その公園での一件以来、一輝様は少々考え込みがちです。お仕事は普段と変わりなくこなしていただいているのですが……」
「あいつは……十二になったんだったけかな。まあ、知識ばかり詰め込んで、中身を育てる暇がなかったからな」
苦笑した一智はしばし瞑目し、考え込む。彼は、以前から、一輝の中のある種の『未熟さ』には気付いていた。
確かに、知能や知識は大人を遥かに凌駕しているし、義務や責任感もしっかりとわきまえている。だが、あの孫の中には、何か『強さ』が足りなかった。
新藤商事は、ただ跡継ぎだから、というだけで背負えるほどちゃちな荷物ではない。どんなものでもいい、周囲から押し付けられたものではない、自らの中から湧き上がってくるモチベーションが必要だ。
「どうしたもんかな……」
顎を撫でながら一智はしばし思案し、そしてポンと両手のひらで膝を打つ。
「よし、丁度いい。あいつに休暇をやるから、ちっと社会勉強させて来い」
「社会勉強、ですか?」
一智の言葉に、橘は眉をひそめた。
ダイヤモンドでも傷を付けることができないような堅物だった一輝の父一雄と正反対で、一智は型破りな言動で公私ともに周囲をしばしば騒がせる。
そんな彼が、常識的なことを思い付くわけがない。
きっと、迷惑ギリギリラインの事を言い出すのだろう。
そんな橘の予感は見事当たって、身構える彼の前で一智はにんまりと笑った。
そして、言う。
「ああ、二、三ヶ月ばかり、その娘んところにでも預けてこい。その家には貸しがあるんだろ? 否とは言うまい」
「いや、ですが――」
恩に着せなくても大石家は諸手を歓迎してくれるだろうが、だからと言って、縁もゆかりもない人たちにそんな事をお願いするなどあまりに非常識だ。
橘はそんな無茶なと言おうとしたが、口を挟む暇なく一智が続ける。更に顔を輝かせて。
「そうだ。何なら、そこの小学校に編入させてもいいぞ。あいつは、『学校』ってもんに通ったことがないだろう?」
一輝への英才教育は一雄の方針だったのだが、そもそも、一智はそれに反対だったのだ。
「学校、ですか……?」
一輝には恐ろしくそぐわないその単語を繰り返した橘に、一智は深々と首肯した。
「お前だって見てみたいだろう? 『普通』の子どもの一輝。少し遅れはしたが、これはあいつにとってもいい機会になる。何、ちょっとばかし寄付でもすれば、多少の融通は利かせてくれるだろうさ」
「はい……」
もう、一智の中では決定事項だ。覆しようがない。
しかし、橘には、小学校に通う一輝の姿がどうにも想像できなかった。それは一智も同じだったらしく、ニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべる。
「あいつはどんな顔してジャリに混じるんだろうな。まめに報告しろよ? あ、写真もな。ほら、何だっけ、ランドセル? アレを背負わせてみてくれよ。それと、一度その娘に会ってみたいものだな。もしかしたら、将来、孫の嫁になるかもしれないんだろ?」
「はあ……」
橘は曖昧に頷きを返した。
――このヒト、絶対に楽しんでいるよな……。
溜め息は抑えきれなかったが、呟きはかろうじて心の中だけのものとしておいた。
この一智から、どうやって真面目一辺倒で非常に固かった先代一雄が作られたのか。
豪放磊落な一智と顔をあわせる度に、橘は不思議でたまらなくなる。
「では、さっそく弥生さんに相談してみます」
そう締めくくり、一礼すると、橘は邸を後にした。