十二
駅の改札を出た弥生は、家への帰り道をトボトボと歩いていた。
頭の中では、執務室での光景と遣り取りがグルグルと回り続けている。
――今まで、一輝君のお部屋で『お友達』と会ったことなんてなかった。
というよりも、彼の個人的な知り合いそのものを、弥生は知らない。
――お付き合い、してるんだと思ってたんだけどな。
一輝との関係は、『恋人』と呼べるものだと思っていたのだ――弥生の方は。仕事の関係者でもないのに彼の執務室に入れるのは、『特別』だからだと思っていた。
けれど、他にも自分と同じように出入りできる女の子がいる。
ということは、つまり。
弥生は胸元をキュッと抑えた。
考えて、出てくる答えは、どうしても一つしかない。
なんだか、胸の奥がひりひりする。
「これって、やきもち、かな」
呟いて、小さく笑った。
丁度そのタイミングで、携帯電話が振動する。電車の中でマナーモードに切り替えたままだった。
ディスプレイに映し出された名前に、弥生は固まる。
それは、今、ものすごく逢いたくて、そして誰よりも一番逢いたくない人だった。
どんな話なのだろうか。
――もう、二度と会わない、とか……?
何度か深呼吸して、弥生は恐る恐る通話ボタンを押す。
「はい」
「弥生さん?」
耳元で囁くように、名前を呼ばれた。
きん、と胸が痛む。
二ヶ月ぶりに聞く、一輝の声だった。それだけで、涙がこぼれそうになる。彼は弥生に口を挟む間を与えず、言葉を重ねてきた。
「え? ……あのネックレス? うん……」
無意識に空いている手が上がり、胸元のネックレスに触れる。一輝からは幾つも贈り物をもらっているけれど、このネックレスは特別なものだった。彼への気持ちに気付くことになった出来事の、記念のようなものでもある。常に、肌身離さず身に着けていた。
一輝はほとんど弥生の返事を聞かずに、一方的にまくしたてて電話を切ってしまう。
結局、どんな話があるのかは判らず、心の中には不安が溜まるばかりだった。
「やっぱり……さよなら……?」
口に出すと、それが現実味を帯びてくる。
ほぼ惰性で足が動き、家は勝手に近付いてきた。角を曲がれば、もう、着いてしまう。まだ家族には会いたくないと思いながらも、道を曲がった。
と。
「大石」
思わず、その場で立ち止まった。
『大石金型製作所』という看板がかかっている門扉に寄りかかっていた人物が、彼女の姿を目にして身体を起こす。
「宮川さん……どうして、ここに?」
本当に、どうして、だ。弥生は呆気に取られて返す言葉もない。
けれど、宮川の方はホッとしたように頬を緩めて手を振ってくる。弥生は少し小走りに近寄って、彼を見上げて問いかけた。
「どうしたんですか?」
「それは、俺の台詞だって。今日、バイト休んだだろ? 今まで皆勤だったから、どうしたのかと」
「あ……今日は、ちょっと用事があって……」
言葉を濁す弥生を、宮川が見下ろす。その視線は、彼女の表情を窺っているような感じがした。
「ふうん。――少し話せるか?」
一瞬、断ろうかと思った。けれども、結局、弥生は頷きを返す。浮上しきらない気持ちのままで家族に会うよりは、他人の宮川の方がまだ気が楽な気がしたのだ。
それに、もしかしたら、このまま家にいて一輝を待つのが怖いという気持ちもあったかもしれない。
「じゃあ、近くの公園にでも行きましょうか」
そう言って、歩いて十分ほどのところにある公園に向けて、弥生は先に立って歩き出す。
どちらも何も言わず、ただ足を動かした。
公園の入口まで来て、弥生は思わず立ち止まる。
何年か前に、一輝や弟たちとこの公園の広場でピクニックをしたことがある。あれはまだ、彼と出会って間もない時分で。
――あの頃は、こんなふうに迷ったり悩んだりすることはなかったのに。
弟と同い年の一輝は全然子どもらしくなくて、弥生は何かをしてあげたいと思ったのだ。余計なお世話だったかもしれないけれど、もっと、何か『楽しい』と思えるようなことを体験して欲しかった。
礼儀正しい微笑みしか浮かべない彼に、もっとちゃんと笑って欲しかった。
それは、弟たちに感じるような気持ちと、同じものだったのだろうか。
――それとも、あの頃からもう一輝君のことは『特別』だったのかな。
判らないけれど、今でもやっぱり、彼には笑っていて欲しいと思う。
「どうした?」
動かない弥生に、数歩先に行っていた宮川が振り返った。
「あ、いえ……なんでもない、です」
小さくかぶりを振って、歩き出す。
宮川と並んで子どもたちの歓声が響く広場を抜け、やがて遊歩道の方にあるベンチに辿り着く。
そこに腰を下ろすと、待っていたかのように宮川が口火を切った。
「で、何があったんだ?」
「え? ……何って……」
「ごまかすなよ。何かあったんだろ? 顔に思いっきり出てる」
ジッと見下ろされて、思わず弥生は両手で頬を覆った。そんなことをしても、隠したことにはならないのだが。
「何も、ないですよ……?」
取り敢えず、そう言ってみる。が、その台詞は一蹴された。
「ウソつけ。自分の顔を鏡で見てみろよ」
弥生はグッと言葉に詰まる。
黙りこんだ彼女に、宮川が深く溜息をついた。
「また、あいつ絡みなんだろ? あの――新藤一輝の」
多分、つい、情けない顔になってしまったのだろう。
不意にその名前を出されてしまったから、取り繕う余裕がなかった。
一瞬宮川がギュッと眉間に皺を寄せて、弥生が、あ、と思った時は、もう遅かった。大きな手に腕を掴まれて広い胸に引き寄せられる。
「あ……ちょっと、待って……」
咄嗟に身をよじって逃れようとしたけれど、彼の力には全く歯が立たず、背後から抱きすくめられてしまった。腕まで閉じ込められて、振りほどこうにもびくともしない。
「宮川さん、放してください――!」
弥生がもがくほどに、それを押さえ込もうとするのか、彼の力は強くなった。
彼女を捉えたまま、宮川は呻くように言う。
「もっと楽な恋愛があるだろ? お前、どんどんつらそうになる一方じゃないか。最近、前のように笑えてないの、気付いてないんだろう? 何で、そこまでそいつに義理立てするんだよ」
――義理立て? この気持ちって、『義理』なの?
義理で、一輝の傍にいたいと思っているのだろうか?
義理で、彼に触れられたいと思っているのだろうか?
違う。
それは違うと思った。
「『義理』なんかじゃ、ないんです。一輝君の傍にいたいっていうのは、わたしのわがままなんです。一輝君の傍にいられるなら、つらいことなんて、ない。大変なことはあるけど、少しもつらくなんて……ッ」
彼女の言葉を遮るように、宮川の腕が締め付ける。
「俺なら、もっとお前を笑わせてやれる。もっと本来のお前でいさせてやれる……」
笑えるかもしれないけれど、それは、一輝がくれるものには敵わない。弥生が欲しいものとは、違う。
「宮川さん……宮川さんが嫌いとか、そんなんではないんです。ただ……わたしが、一輝君じゃないと、ダメなんです」
胸の前に回された彼の腕を、ギュッと掴む。
「なんで、そんなに……」
宮川の言葉に、弥生は小さく苦笑する。
「わたしもたくさん考えたんですけど、やっぱり解かりませんでした」
でも、自分の心が彼でないとダメだというのなら、仕方がないではないか。
「わたしは、やっぱり、一輝君と一緒にいたい……」
地面を見つめてポツリと零された、弥生の呟き。
それは、宮川と彼女自身の耳にしか届かないと思われた。
が。
「それを聞いて、安心しました」
その声。
弥生は、ハッと顔を上げる。
「一輝君……」
呆然と名前を呼んだ弥生の視線の先に立つ彼は、いつもと同じ、穏やかな笑みを彼女に向けていた。
思わず立ち上がろうとした弥生を、宮川がグイと引き寄せる。
「宮川さん!」
肩越しに振り返っても、彼の目は弥生ではなく一輝に向けられていた。ヒタと見据えるような眼差しで。
「今更、何しに来たんだ?」
「確かに、『今更』ですね。でも、彼女を返していただきたいんです」
「そんな簡単に? 彼女はイヌやネコじゃないんだぜ?」
「ええ、愛玩動物などではありません。僕の大事な女性です。僕がこの手で幸せにしたいひとです」
宮川の身体に強く押し付けられているので、彼の表情は見えない。けれど、目の前の一輝は、至極鋭い目を弥生の頭上に向けていた。
自分を通り越して、二人の視線が火花を散らしているような気がする。
どれだけ、そうしていたのか。
不意に宮川の腕から力が抜ける。次いで背中の温もりも、遠ざかった。
「宮川さん?」
立ち上がった彼を見上げて、弥生はその名を呼ぶ。
宮川は苦笑し、肩を竦めた。
「まったく、勝ち目がなさ過ぎだ。まあ、後は彼と話せよ」
そう残して、彼は立ち去ろうとする。
「宮川さん……あ……」
呼び止めたはいいが、その後が続かない。口ごもる弥生に、宮川は笑顔を向けた。
「また、園で」
彼女には、そう残し。
「俺は、傍にいるからな」
一輝には、釘を刺すようにそう残して。
そして、彼は去って行った。
その後姿が消えた頃、弥生の耳に、焦がれていた声が届く。
「弥生さん」
すぐにでも、振り返りたかった。振り返ってその姿を目にし、温もりを感じたかった。
なのに、何故か身体が動かない。彼は戻ってきてくれたけれど、それは現実なのだろうか。もしかしたら、幻なのかもしれない。振り返って、それを確認することが怖かった。
「弥生さん」
動かない彼女の名が、もう一度、呼ばれる。
でも、やっぱり、振り返れない。
今度は声ではなく、優しい手が両方の肩に置かれた。
思わず、身体が震える――身体だけでなく、心も。
やっぱり、一輝だけが特別だった。
触れられてこんなふうに感じるのは、一輝だからだ。
宮川に抱き締められても、嫌ではない。けれど、何かを感じることもないのだ。
もっときつく抱き締めてとか、放さないでとか、思うこともないのだ。
何故、一輝でなければいけないのか。
そんなこと、やっぱり判らない。
――判らないけど、でも、一輝君でないと、ダメなんだ。
きつく瞼を閉じた弥生の頭の天辺に何かがコツンと当たり、間近で声が響く。
「さっきはあのようにおっしゃってくださいましたが、やはり、許していただけませんか? もう、顔も見たくない?」
顔も見せてくれず、声も聞かせてくれなかったのは、一体どっちだ。
そう言葉をぶつけてやりたかったのに、喉の奥に何かが詰まったようで何も出てこない。
弥生はクルリと振り向くと、一輝に顔を見せる間を与えず、ギュウとしがみついた。肩から浮いた彼の手が、一瞬ためらってから、そっと腰に回される。
「本当に、すみません。僕が子どもでした。あなたの全てを受け止めるつもりだったのに、あなたが進もうとしている、僕には手を出せない世界のことに、怯んでしまった」
弥生は、彼の服を握っている手に、力を込める。高価なスーツが皺になるだろうが、一輝はそんなこと、全く気にしていないようだった。彼女を包む腕に少し力を加え、続ける。
「僕には、自信がなかった。怖くなってしまった。あなたを幸せにしたいのに、できなかったら……と……あなたに、僕は相応しくないのではないかと、考えてしまいました」
彼のその言葉に、弥生の頭に血が上る。
相応しいとか、相応しくないとか。
彼女自身、以前に同じことで悩んだ。けれども、一輝が自分を想ってくれる気持ちが充分に伝わったから、吹っ切ったのだ。想いが通じ合ってからは、弥生だってずっと一輝に自分の気持ちを伝えてきた筈だ。
――それを、信じていなかったの?
弥生は、グイと腕を突っぱねる。柔らかく包まれていただけの身体は、簡単に解放された。両腕を彼の胸に突っ張ったまま、睨み上げる。
「……なんで、そんなことを言うの?」
「え……?」
「わたし、ちゃんと一輝君が好きだって、伝えてたでしょう?」
「それは……」
「信じてなかったの?」
「いえ、それは違――」
「違くない! 一輝君は、わたしの気持ちを本気にしてなかったんだ!」
「弥生さん……」
一輝が慌てて伸ばしてきた手を、ぴしゃりとはね付ける。彼は、そのまま固まった。
「一輝君のバカ! わたしが何で怒ってるのか解かるまで、赦してあげない!」
そう叫んで、踵を返して歩き出す。ズンズンと、真っ直ぐに歩く。家とは反対の方向だったけれど、そのまま、真っ直ぐに。
自分の本気の言葉が伝わっていなかったことが、悔しかった。ずっと一緒にいたいという気持ちが伝わっていなかったことが、悲しかった。
脚を動かし続けながら耳を澄ませても、追いかけてくる一輝の足音は聞こえてこない。
もう、随分離れてしまった筈だ。
――来て、くれないの?
そう思ってしまった途端に、目の奥が熱く、何かが溢れそうになる。
――一輝君の、ばか……。
胸の中で、もう一度、そう呟いた時だった。
砂利を踏んで駆け寄る足音が耳に届いたかと思うと、腕を掴まれ、後ろ向きに引かれた。倒れこみそうになった身体は、しかし、そうはならず、心地良い温もりに包まれる。
「すみません――本当に。解かっていました。……あなたの気持ちを疑ったことなんて、一度もありません。ちゃんと、信じていたんです」
でも――と、苦しそうな声が続く。
弥生は、溢れてくる何かのために、息が詰まりそうになる。自分の中のこの気持ちを、余すことなく、全て伝えきることができればいいのにと、心の底から思った。
一輝の腕の中で向きを変え、自分よりもずっと大きくなってしまった身体に精一杯腕を伸ばす。そうして、これ以上は出せない、というところまで、力を込めた。
「ねえ、最初からダメだなんて思わないで、ちゃんとお話して、『わたしが』じゃなくて『二人が』幸せになれる方法を見つけていこうよ。……一輝君と一緒だと、大変な事も多いだろうけど、それは『苦労』なんかじゃないんだよ。一輝君といることで、『苦しいこと』なんて、ないんだから。いつでも、一緒に歩いていきたいんだよ。一輝君と一緒にいながら、自分のやりたいことをやるのが大変だってことなら、よく解かってる。それでも、わたしは、一輝君といることを選んだし、夢も諦めなかった。一輝君が一緒にいるって言ってさえくれれば、わたし、何だってできるんだよ?」
――だから、一輝君も諦めないでよ。
涙混じりになってしまったその訴えに、一輝は囁きで応える。
「ええ……ええ、そうですね。僕も、あなたと共に、生きていきたい――ずっと」
耳元での微かなそれは、確かに、弥生の心に届いた。