九
一輝は手の中のスマートフォンを見つめたまま、ピクリとも動けなかった。通話はとっくに切れており、ディスプレイも真っ黒だ。
時刻は一八時。
一輝と出かけていない限り、弥生は家にいて、夕食の用意をしている時間だった。
だが、蓋を開けてみたらどうだろう。
今日、弥生と話をしよう。
そう、一輝が心に決めたのは、昼過ぎのことだ。
決めたはずなのに、今は彼女の授業中だから、今はこれから会議があるから、今はこども園のアルバイトの最中だろうから、とズルズル先送りにして、結局この時間になってしまった。
一輝自身の仕事も終わって、弥生も家に帰り着いているだろう時間になって。
いつもは携帯電話にするのを、何故か彼女の家の固定電話にかけていた。
――何故か?
そう考えた自分を、一輝は嘲る。
家にかけたのは、彼女に家にいて欲しかったからだ。携帯電話にかけて、誰かといる状況に出くわしたくなかったからだ。
「無様だな」
誰に聞かせるつもりもなく、彼は呟く。
もう二ヶ月も弥生からの連絡を避けているのに、それでも、彼女が他の者と会うことは許容できないなんて。
――己がこんなにも狭量だとは思ってもみなかった。
弥生の幸せを願うならば、彼女のしたいようにさせるべきなのだ。
彼女は彼女が望む道を歩み、彼女が逢いたいと思う者と逢うべきなのだ。
頭では、一輝もそれを充分に理解しているし、そうさせようと思っているのに。
先ほどまでの、睦月とのやり取りが彼の脳裏によみがえる。
「姉ちゃんは、もうちょっとしたら帰ってくるぜ。宮川ってヤツといるんだってさ」
その名前を耳にして、身体の芯が冷え込んだ気がした。黙ったままの一輝に構わず、電話の向こうで睦月が咎めるような声で言い募った。
「お前さ、一体どうなってんの? 姉ちゃんのこと、やめんの? だったらさぁ、スパッと何か言ってやってくんない? お前んとこの橘さんに電話するたんびに、落ち込んでんだよな。声かけると笑うけど、無理してるのバレバレ。見てらんねぇよ」
「すまない……」
一輝の沈んだ声に、睦月のトーンはやや下がったが、それでも不満そうな響きは変わらなかった。
「まあ、色々あるんだろうとは思うけどさ、俺がお前を認めてるのは、お前といると姉ちゃんが幸せそうだからだぜ? でも、今の状態じゃ、このままにしておけねぇよ。他にも良さげなのはいるし……」
それは、宮川のことだろうか、それとも森口のことだろうかと、一輝はぼんやりと考えた。もしかしたら、いや、もしかしなくても、これからいくらでも、弥生を幸せにできる男は出てくるだろう。
一輝にとっての弥生は唯一の存在だが、弥生にとっては、きっと一輝でなくても構わないのだ。
会わない日が積み重なっていくほど、一輝の中の自信は揺らいでいく。かといって、まだ、正しい判断を下せる状態でもない。今、弥生に会ってしまったら、自分の感情だけで彼女を引き止めてしまいそうだった。
それが、怖い。
だが、そんなふうに思っているにも拘らず、弥生の声を一言でもいいから聴きたいという欲求に負けてしまった。
結果、直視したくない現実を突きつけられてしまったけれど。
一輝の返事を待つように睦月はしばらく黙っていたが、やがて諦めたように、「とにかくな」と、溜息と共に彼は続けたのだ。
「早いとこ、決めてくれ。姉ちゃんは堪えてるけど、俺が耐えらんねぇ」
それを最後に電話は切れた。
そして会話が途絶えてから十分以上経ったが、一輝はまだ動けずにいる。本当に、どうするべきなのか。
どれほど佇んでいたのかは判らない。
我に返ったのは、扉から覗く橘の声に気付いたからだった。恐らく、何度もノックはしたのだろう。
「なんだ?」
「あの……綾小路様がお見えなのですが……」
「またか」
一輝は溜息と共に、そう返す。
あのパーティーで初めて顔を合わせて以来、しばしば静香はここに顔を出すようになった。もっとも、来ても本当に『いるだけ』で、お茶を飲んだらじきに帰っていく。父親へのカモフラージュというのは、本気なのだろう。
「まあ、いい」
手で合図をすると橘は引っ込み、しばらくして静香が姿を現した。淡い水色の清楚なワンピースで、フワリと腰を屈める。
「ごきげんよう、一輝様……まあ」
顔を上げて一輝と視線を合わせた静香は、「まあ」と同時に、口元に手を添えた。
「なんです?」
「いえ、今日はまた一段と、お水に浮いてしまった魚のような目をされてらっしゃるのね」
それは、ストレートに言えば死んだ魚の目ということか。
いい加減に慣れてきたが、この上品この上ないお嬢様は、自然に毒を吐く。
「そうですか」
おざなりにそう答えて、彼女にソファを勧めた。静香が優雅に腰を下ろすのを待って、自分はデスクに戻る。
しばらくは、一輝が紙を繰ったりキーボードを操作したりする音だけが響いた。別に、残っている仕事があるわけではない。手持無沙汰でそうしているだけだ。
そこに。
「何か、お悩みですの?」
不意に響いた静香の声に、一輝は顔を上げる。
「は?」
「わたくしでよろしければ、お話をうかがいますわ」
「結構です」
「そうおっしゃらずに。いつもご迷惑をおかけしているのですから」
「心底から、結構です」
真剣に本心からの返事だというのに、静香は構わずに続ける。
「……女性のことかしら?」
一輝はグッと言葉に詰まる。そんな彼を見て、静香は心持ち目を見開いた。
「あら……」
指摘した本人も少なからず驚いたようだ。
お互いに無言の状態が数分続く。
先に声を発したのは、静香の方からだった。
「お困りですのね?」
何かを見通すような眼差しを、彼女は向けてくる。そして、ハッと目を輝かせる。
「まさか……恋わずらい、ですの!?」
何故、そんなに嬉しそうなのだろう。静香は両手を握り合わせて声をあげる。
「素敵ですわ! わたくし、あなたのことを誤解していましたの。そういったことではお気持ちを動かされない方かと。でも、違いましたのね? よろしくてよ、わたくしに、何かお手伝いできることがあれば――」
「ありません」
「あら、残念ですこと」
にべもない一輝の即答に、静香はめげることなく艶やかに微笑んで続けた。つくづく、マイペースなお嬢様である。
「でも、そうですわね。恋は、色々画策することもまた、一つの醍醐味ですもの。お邪魔はしませんわ」
何か大きな勘違いをされているような気がしないでもなかったが、取りあえず、放っておいてくれるに越したことはない。敢えて修正せずに、彼女が思うままにしておいた。
そんな一輝の内心は露知らず、静香はうきうきと立ち上がると、綺麗に一礼する。
「今日は、貴方のお心を知ることができて、本当に良かったですわ」
そして、優雅な足取りで執務室から出て行った。騒々しくされたわけではないにも拘らず、気分的には『台風一過』である。
「まったく」
一人残された一輝は、思わず呟いた。
一拍置いて、控えめなノックの音が響く。
続いて姿を現した橘は、一輝の顔を目にしてほんの少し眉を上げた。
「何だ?」
「ああ、いえ……」
橘は何か言いかけ、止めた。
多分、彼は、一輝のわずかな表情の変化に気付いたのだろう。
勝手に押しかけて埒もないことを並べ立てていった静香に、一輝は決して、感謝はしていない。感謝はしていないが、ほんの一時、彼女の訪問で負のループから解放されたような気がしたのは事実だった。
だが、一輝のその変化を、橘は弥生と話したためと取ったらしい。
微かに彼は目を輝かせる。
「弥生様は、なんと?」
一瞬の沈黙。
「彼女とは話していない」
「え……ですが……」
「留守だった」
思い出して、一輝はムッと唇を引き結んだ。一変した主の様子に、橘は控えめに提案する。
「よろしければ、弥生様とお逢いできるように手配いたしますが……」
一輝は少し口を噤んで、そしてかぶりを振った。
「いや、いい」
この二ヶ月間で初めて弥生と話をしようと覚悟を決めたというのに、彼女はいなかった。普段なら、必ず彼女が家にいる時間だったにも拘わらず。
彼が意を決したそのタイミングは、彼女とすれ違ってしまった。
――つまりこれは、彼女と接触するべきではないということなのかもしれない。
陰鬱な気持ちで、一輝はそう思った。
黙り込んだ彼を、橘が気遣わしげに見つめる。だが、自分の中に沈み込む一輝は、その視線には気付かなかった。