八
弥生は、こども園の職員控え室でパタリと携帯電話を閉じた。アルバイトが終わったばかりで、正規職員はまだ仕事中だ。部屋には彼女しかいない。
橘の返事は、また、いつもと同じだった。
『申し訳ありません、まだ……』
本当に、心の底から申し訳なさそうな彼の声に、弥生はそれ以上食い下がることもできなくて、彼女もまたいつもと同じように「またかけます」としか言えなくなってしまうのだ。
こども園の裏手で一輝が乗った車が走り去っていってから、そろそろ、二ヶ月。もう、八月になってしまった。一輝に会えないうちに、季節が変わってしまったのだ。
――いつまで待ってたらいいんだろ。……本当に、待ってるだけでいいのかな。
弥生は、お腹の底から搾り出すような溜息をつく。と、突然背後から声がかけられた。
「大石」
誰もいないと思っていた弥生は、びくりと肩を跳ね上げる。
息を呑む音が、きっと相手にも聞こえたに違いない。
「ゴメン、驚かせたか?」
胸を押さえながら振り返ると、そこにいたのは宮川だった。
「いえ、大丈夫です」
こっそり深呼吸をしながら、弥生は何とか落ち着いた声を出す。
「もう終わりだろ? 送ってくよ。アイツ、また門のところにいたし、まくのも大変だろ?」
彼が言っているのが小金井のことだというのはすぐに判った。あの『ジャーナリスト』は、どうやって食い扶持を稼いでいるのかと思うくらい、毎日毎日弥生に付きまとっている。
確かにうっとうしいことこの上ないのだけれども、宮川の気持ちを聞かされている弥生は、すぐには頷けなかった。
「え、と……」
口ごもる彼女に、宮川が苦笑する。
「そんなに警戒するなって。車ん中で手を出したりはしないさ」
「別に、そんな……」
身構えてしまったことは確かなので、弥生はもぞもぞと言葉を濁す。何となく申し訳なさも手伝って、宮川が促すままに部屋を出て、彼の車に乗り込んだ。
「さて、どこに行こうか」
車が発進してからしばらくして、宮川が自然極まりない口調でそう切り出した。
一瞬、彼の台詞が理解できず、弥生は目を瞬く。
「え?」
「少しくらいはいいだろ?」
爽やかに笑ってそう言う宮川に、弥生は眉を吊り上げる。
「送ってくださるって、おっしゃったじゃないですか!」
「送ってくよ。ちょっと寄り道するけど」
サラッと宣言した彼に悪びれた様子は皆無だ。澄ました顔で、カーオーディオのCDを入れ替えたりしている。
こういう人だったろうかと、思わず弥生はマジマジと宮川の横顔を見つめてしまう。
もっと落ち着いた、穏やかな人だと思っていた。こんな子どもじみたイタズラのような事をする人だとは、思ってもみなかった。
そんな彼女の視線に気付いたのか、宮川が口元に笑みを浮かべる。
「最初は、『仕事で尊敬できる人』でアプローチしようと思ってたんだよ。大石のこと、フリーだと思ってたから。でも、どうやら作戦ミスだったみたいだからな。このままだと、『尊敬する人』から昇格できなさそうだし。『仕事』から離れようと思ってさ」
どうアプローチされても弥生の気持ちは変わりようがないのだけれど、彼のあまりの裏のなさに思わず笑みを漏らしてしまう。
そうしながら、ふと一輝のことを思った。
基本的に、一輝は『隠す』人だ。彼だったら、こんなふうにあけすけに自分の心の中を明かしたりはしない。全部独りで抱え込んで、自分の力で問題を解決しようとする。
宮川であれば、何かあっても、気負いなく弥生と分かち合おうとしてくれるだろう。それは弥生にとってはある意味『楽』なことで、きっと、悩みながらも笑い合って、過ごしていける。『無理』なく一緒に生きていけるのだ。
宮川のことは尊敬しているし、楽しい人だと思っている。多分、色々なことを考えると、彼の方が自分に『合っている』に違いない。
では、何故、それでも一輝を選んでしまうのだろう。
――思い込み? 刷り込み?
単に、他の人を知らないからというだけなのだろうか。
考えても考えても、判らない。
ただ一つだけ弥生にも判ることは、一輝が喜ぶ顔を見た時に彼女の胸の中に湧き上がる気持ちは、他の人では得られない、ということだけだ。
――好きって、いったい何なのだろう。
たった二文字の言葉なのに、そこにはいくつもの『好き』がある。言葉は同じ『好き』なのに、一輝に対するものだけが特別なのだ。
考え込む弥生をよそに、車は静かに市街地を抜け、ビル街を走り、やがて埋立地に造られた公園へと到着する。
五時の閉園時間までにはまだ間があり、公園の中には家族連れの姿も多い。こんな場所を選んだのは、弥生に警戒心を持たせないための選択なのだろうか。
「降りないか?」
宮川にそう言われて、弥生は一瞬迷った。
そのまま車の中で話をするよりも、ひらけたところの方がいいような気もする。その方が、距離を取れるから。
「そう、ですね」
宮川の作戦通りにことが進んでしまうけれど、仕方なく、弥生はシートベルトを外して車から降りた。彼女の渋々感が伝わったのか、宮川が小さく笑うのが目の端に映る。
八月中旬の陽射しはまだ強いけれど、公園の中には木陰が多く、海からの風もあいまって、それほど暑さを感じなかった。海沿いまで行くと、爽やかな風が吹き抜ける。
しばらく水平線を眺めたあと、弥生は隣に立つ宮川に視線を移した。その気配に気づいたように、彼は、「何だ?」というふうに首を傾げて見下ろしてくる。
「宮川さんは、何で――わたしのことを……」
そこで彼女は口ごもった。
「好きになったかって?」
弥生が濁した言葉を、宮川はサラッと引き継ぐ。そのストレートな台詞に頬が熱くなったけれど、まさにそれが訊きたいことだった。何となく、彼なら明確な『理由』を答えてくれそうな気がしたのだ。
弥生は、小さく頷く。
海を見つめてしばらく何も言わずにいた宮川は、やがて口を開いた。
「最初は、子どもたちの相手をするお前を見て、単に可愛いな、と思っただけだったよ」
それは露骨な言葉だけれど、どこか小動物や幼い子どもを見て『可愛い』と言う時と同じ響きを持っているように聞こえた。そのためか、弥生の耳にもスルリと入り込み、そのまま出て行っただけだ。
彼はまた口を閉じ、海を眺め、そして弥生に向き直った。
「ある時さ、お前、電話していたんだよな」
「電話?」
「そう、電話。家族に帰るコールでもしてんのかなって思ったんだけど、その時、お前が笑ったんだ。その顔を見て、ウワッと、思った」
「?」
『よく解からない』と書いてある弥生の顔を見下ろして、宮川が苦笑する。
「なんていうか、幸せそのものって顔をしたんだよ。で、その顔を自分に向けて欲しいって、思った。俺の力でその顔にさせたいってな。……今思えば、『彼』だったんだろうな、その時の電話の相手は。――他の男のための顔を見て惚れるなんて、不毛もいいとこだよな」
「……それだけ、なんですか?」
思わず、弥生は怪訝そうな声でそう訊いてしまう。
そんな彼女に、宮川は肩をすくめた。
「そう、『それだけ』。別に、こんなところに感動した、とか、あんなところを尊敬している、とか。そんなんは無いよ。利害も、損得もなし。きっかけは、ただ、その時の顔にやられちまっただけ。今でも、これこれこういう理由で好きなんです、なんて説明はできないよ」
それでは、自分と大差はない。『心』をよく知る宮川にも解からないのであれば、弥生に解かる筈もなかった。
考え込む弥生に、宮川が笑みを浮かべる。タイミングよく、園内放送で閉園のアナウンスが入った。
「納得いかなそうだけど、そんなもんでいいんじゃないの? ま、今日のところは帰ろうか。家の事もしなくちゃなんだろ」
言われて時計を見ると、五時十五分前を示している。夕飯の準備がギリギリ間に合うか、というところだ。
「はい、お願いします」
そう言って、ペコリと頭を下げて歩き出そうとした、その時。
不意に海から吹き付けてきた強い風に煽られて、弥生はふらつく。とっさに手を出した宮川に抱きつく形になってしまった。
「すみません!」
声を上げながら腕を突っぱねて身体を離そうとしたが、抱き留めてくれた彼の腕が解かれない。思わず弥生が身体を強張らせると、それが伝わったのか、宮川の力が抜けた。
「悪い」
「いえ……ありがとうございます」
どうしても、目を逸らしがちにしてしまう。と、その視界の片隅に、何かが光を反射したような輝きが一瞬だけ入り込んだ。
――何?
瞬きして眼を凝らしてみたけれど、特に何もない。
「どうした?」
眉をひそめて見下ろしてくる宮川に、弥生はかぶりを振った。
「あ……いえ、なんでもない、です」
多分、街灯の柱か何かが光を反射したのだろう。そう納得すると、じきに彼女の頭からは零れ落ちていった。
帰りの車の中も言葉は少なく、宮川の当たり障りのない言葉に弥生が頷く程度だった。
六時を少し過ぎた頃に家に着き、弥生は車の外から頭を下げる。
「ありがとうございました」
彼女に、宮川がどこか寂しそうな笑顔を向ける。
「今度は、『行こう』と思って行こうか」
冗談めかしながらもどこか真剣な含みがあるその台詞に答えられない弥生に、彼は苦笑する。
「まあ、いいさ。じゃあな」
そうして、宮川の車は走り去っていく。
それが視界から完全に消え去るまで見送って、弥生は小さく息をついた。
やっぱり、一輝と一緒に過ごす時間とは、違う。相手が彼であれば、乗っている車が家に近付くだけで胸がむずむずしてしまう。パンクでもしないかな、とか、ドアが故障して開かなくなったりしないかな、とか、ほんの少しだけだけれども、考えてしまう。
それが、宮川だと、こうやって車が消えてしまっても、寂しさは欠片も湧いてこないのだ。
一度だけ大きく深呼吸をして、弥生は家の中に入る。
「ただいま」
明るい声で声を掛けると、今からひょっこり睦月が顔を覗かせた。
「おかえり。タイミング悪いな。ついさっき、一輝から電話があったぜ」
「え、うそ!」
かまちで靴を揃えていた弥生は、思わず跳び上がる。
「ホント。六時十分前くらいだったかな」
本当に、『ついさっき』だったのだ。慌てて携帯電話を開いてみたけれど、そちらに着信記録は残っていない。いつもなら、家の電話ではなく、携帯電話の方にかけてくるのに。
手の中の電話に目を落している弥生の隣に、いつの間にか睦月が立っていた。慌てて取り繕った笑顔を浮かべたが、弟の視線は鋭い。
「なあ、最近、アイツとどうなってんの?」
「え、どうって? どうもしないよ?」
「はあ? 全然会ってないんだろ?」
一見がさつそうなのに、この弟は意外に鋭い。弁明の言葉が思い浮かばない弥生は、うつむくしかない。
「何やってんだよ、アイツは」
頭の上から聞こえてきた舌打ちに、弥生は弾かれたように顔を上げた。
「一輝君は、何もしてないよ! ただ……多分、今は一生懸命に考えてくれてるんだと思う……」
「姉ちゃんをほったらかしにしてか? 何もしてないのが問題なんだろ!?」
どうやら、弟は本気で一輝に対して腹を立てているようだった。その気持ちが嬉しくて、弥生は思わず笑ってしまいそうになる。その様子に気付いたのか、睦月はピクリと眉を震わせた。
「もうさ、あんなめんどくさいヤツ、やめちまったらいいじゃんか。姉ちゃんなら他にいくらでもイイのがいるだろ? ほら、森口とか!」
意外に、睦月の中では、彼はポイントが高いのか。
けれど、弥生は弟に向けて首を振った。
「森口君は、お友達だよ」
「……あいつも、報われないよなぁ……」
心底から同情したように、睦月ががっくりと肩を落とす。弥生から見たら巨人のように成長した彼も、彼女にとっては可愛い弟だ。手を伸ばして、そのごわごわした髪を撫でてやる。
「ありがとうね。大丈夫、何とかするから」
――そう、何とかしよう。
まだ、彼女自身の中でも何も整理がついていない。
けれど、もしかしたら、これでいいのかもしれない。
ふっと、弥生はそんなふうに思った。
色々なことを考えてがんじがらめになってしまう一輝には、こんなふうに難しいことはよく解からない、単純なことしか考えない自分でいいのかもしれない。
その考えは、弥生の中の何かをふわりと軽くする。
――一輝君が足を取られて動けないのなら、わたしが引っ張ってあげればいいんだよね。
顔を上げると、眉間に皺を寄せて彼女を見下ろしている弟と目が合った。
「遅くなってごめんね、すぐお夕飯にするから」
そう言って夕飯の支度のために台所へ向かいながら、弥生は心を決める。
『好き』という気持ちがいったい何なのか、とか、小難しいことは必要無い。ただ、一輝の傍にいたい――いさせて欲しい。それだけを伝えればいいのだと、彼女は思った。
それが一番、大事なのだ、と。