六
日曜日。
空は見事な秋の快晴だった――どこまでも青く、高く、澄み渡っている。
十月下旬の風は少し冷たいが、陽射しがあるため、気温としてはちょうど良いくらいだ。
大石家から歩いて十分のところにある公園は、そこそこ広く、なかなか綺麗な紅葉が味わえる穴場になっている。
その公園の入り口に、弥生、一輝、橘、そして大石家の睦月、葉月は立っていた。
「中央の広場が気持ちいいんだよ。行こっか」
そう言うと、弥生は一輝と葉月の手を取り、歩き出す。繋がれている一輝と弥生の手に、弁当やらバスケットやらを抱えた睦月の目が注がれていることに気付いたのは橘だけだ。大石家の長男は、眉間に皺を寄せている。
おやおやと思いつつ、橘は皆の最後を歩く。
小さな池に渡された橋を越えて更に進んでいくと、八分ほど赤く色づいている紅葉に囲まれた芝生の広場に到着した。ちょうど昼時であることもあって、幾つかの家族がすでに弁当を広げて楽しんでいる。
「睦月、一輝君と一緒にシート広げてよ。葉月はちょっと離れて離れて」
「ああ、わかった。――ほら、この角持って、両手を広げろよ」
一輝は睦月に言われるがままに二つの角を左右の手に持ち、腕を一杯に伸ばした。バサリと広がったシートを地面に下ろし、皺をきれいに伸ばす。
「細かい奴だな」
ぼそりと呟いた睦月の声を拾った橘が、すかさずフォローを入れる。
「一輝様は何事も丁寧になされる方なんです」
「あっそ」
どうも弥生の弟睦月は、一輝に対して良い感情を抱いていないようだと橘は感じ取る。
借金の形に彼女が一輝の世話をしに通っていることを知っているのか、それとも単に姉を取られて拗ねているのか――弥生が借金の経緯を弟に伝える可能性は低いため、恐らく後者なのだろう。
普通の、他愛のないわがままが許される十二歳であれば、こんなものなのかもしれないと、橘は思う。
うちの坊ちゃまが普通じゃないんですよね。
橘はこっそりとため息をついた。
一輝の三歳の誕生日で初めて顔を合わせてから今まで、彼が自分のために要求したことは、弥生についての定期的な報告だけだ。
疎遠だったとはいえ実の父親を失ったあの日、橘も含めて、誰もが一輝を新藤商事の後継者として扱った――まだ十歳だった彼を。
葬儀の後、しばらく独りにして欲しいと言った一輝を遠巻きに見ていた橘は、傘を差しかけてきた弥生との間でどんな会話があったのかは知らない。だが、彼女との出会いで、一輝の表情が和らいだことは紛れもない事実だった。
彼女の傘にあった名前から身元を割り出し、一ヶ月に一回、様子を報告するようになったが、一輝は、それ以上は求めなかった。
ただ、橘からの報告を聴き、ほんの少しだけ頬を緩める。
それだけ、だ。
もしも一輝が弥生に逢いたいと言ってくれれば、橘はどんな手を使ってもそれを叶えただろう。
しかし、彼の主は何も言わなかった。何も求めなかった。
こんなふうに、何も望まない――望めないようにしてしまったのは、周囲の大人の所為ではないだろうか。
橘は、一輝に、もっと貪欲になって欲しかった。そして、そのきっかけに、弥生がなってくれれば良いと願う。このまま、ただ新藤商事を栄えさせていくためだけに生きていくようには、なって欲しくなかった。
「橘さん、座りませんか?」
物思いにふけっていた彼を、弥生の軽やかな声が引き戻す。
見ると、皆シートの上に座っていた。弥生の両隣には睦月と葉月、一輝は睦月の隣に座っている。真ん中には様々な料理が広げられていた。突っ立っているのは橘だけである。
「ああ、はい」
橘が一輝の隣に腰を下ろすのを待って、弥生が両手を合わせた。
「じゃあ、皆さん、いただきましょう」
「いただきます」「いただきます」
睦月と葉月は大きな声で唱和する。そこに、普段独りで食事をする一輝は出遅れた。
四歳の葉月が、きょとんと一輝を見上げる。彼は弥生によく似た、可愛らしい顔をしている。
「いただきますしないの?」
「……いただきます」
あまり大きな声ではなかったが、葉月は満足したようにニッコリする。一輝はその屈託のない笑顔に、ぎこちなく笑みを返した。
一輝の声を待っていたかのように、睦月が、そして葉月が料理に手を伸ばし始める。その勢いは凄まじく、まるで田畑を食い荒らすイナゴのようだ。
「ほら、一輝君も、早くしないと無くなっちゃうよ。うちの子達は凄いんだから」
こんなふうに大皿から料理を自分で取ったことのない一輝は、睦月たちの無秩序な食べ方を前に、呆気に取られるばかりである。
渡された皿を手に料理を見つめている一輝に、橘がそっと声をかける。
「一輝様、お取りしましょうか?」
「……いや、いい」
橘が手を伸ばしてきた時の睦月のどことなくバカにしたような目付きにムッと眉をしかめ、一輝は自ら手を伸ばす。サンドウィッチとサラダ、唐揚げを取った。
「美味しい」
唐揚げを一口食べて、一輝が呟く。
「確かに美味しいですね、これは」
彼に続いて同じものを口にして、橘も思わず声を上げた。冷めているのに柔らかく、脂もしつこくない。
それを聞きつけ、睦月が自慢そうに返す。
「当たり前。お前、いつも姉ちゃんの菓子を食ってるだろう」
「そう、ですね」
頷きつつも、あっという間に皿に取った分を平らげた一輝が、また手を伸ばした。
「どんどん食べてね。いっぱいあるんだから」
葉月の世話を焼きながら、弥生がニコニコと嬉しそうに促す。その笑顔を眩しそうに見つめて、一輝は頷いた。
「はい」
そんな一輝の様子を、睦月が食べ物を口いっぱいに頬張りながら横目で見やる。それは何か言いたそうな眼差しだったが、今は食事が優先とばかりに次から次へと何かしらを口に運んでいく。
一輝は、一つ一つゆっくりと味わいながら食べていく。冷たくなった食事など口にしたことが無かっただろうに、これまでに食べたどんなコース料理よりも満足そうだ。
「あ、これ、デザートね」
ある程度食事が進んだ頃合で、弥生がもう一つ残っていたバスケットを開ける。
中身を目にし、一輝の顔が微かに輝いた。多分、彼をよく知る橘にしかわからないだろう変化だったが、明らかに喜んでいる。
坊ちゃまが好んでお召しになったものばかりだな。
バスケットの中を一瞥した橘は、すぐにそれに気付いた。
一輝は、自分の頭の中を覗かれることを嫌う。何が好きで何が嫌いか、見抜かれるなど彼のプライドが許さないだろう。
けれど。
自分の好みを弥生に見透かされて嬉しそうにしている一輝に、橘の頬も緩んでしまいそうになる。
「皆に一つずつだから、余分に食べたらダメだよ?」
そう言った弥生の目は、大きい方の弟に向けられていた。
「ちぇ」
唇を尖らせた睦月を、弥生がじろりと睨む。
やがて料理の器も底が見え始め、皆の手も止まり始める。
一休みすると、弥生と葉月は落ちている紅葉の葉を拾いに行った。今日の夕食の秋刀魚の飾りにするつもりらしい。
残された男三人は、少し離れたところで歓声上げている葉月と弥生を、何するでもなく眺めていた。特に一輝は、本人は気づいていないようだが、弥生の一挙手一投足を逃すことなく見守っている。
と、視線を姉と弟に向けたまま、睦月が一輝に声をかけてきた。
「なあ、お前、大きな会社の跡取りなんだろ?」
「はい」
睦月に目を向けて、一輝が頷く。と、睦月が至って真面目な顔で、問いかけてきた。
「それってさぁ、やりたくてやんの?」
「……え?」
「だからさ、お前って俺と同じ学年なんだろ? もっと違うことやりたくないのか?」
――違うこと。
そう問われて、一輝は言葉に詰まる。それもそうだろう。彼には『違う道』など存在していないのだから。
全く違う世界に住む二人の少年の遣り取りを、橘は無言で見守った。
「俺はさ、サッカー選手になるんだよ。まあ、引退したら、親父の工場を継いでもいいけどな。機械いじるの結構好きだし。お前は、何で社長やりたいの? 面白い? 金が儲かるから? 偉いから?」
矢継ぎ早の質問に、一輝は答えられずにいる。
するべくしてすることに、理由などない。
生まれながらに責任を背負わされている一輝に、そうする理由を考える余地などない。
返事が無いことに、睦月は怪訝な顔になった。そして、彼の表情を見て眉をしかめる。
「何だよ。自分でわかんねぇの?」
呆れたような声で言われ、一輝の唇が微かに引き締まった。
そんな一輝の微妙な表情の変化には全く気付いていない様子で、睦月はまた弥生たちのほうへ視線を戻し、笑いを含んだ声で言う。
「まあ、いいか。クジラになりたいとか言ってる葉月よりかはいいよな」
小さく笑って、睦月は手を振ってくる弥生と葉月に手を振り返す。
「ガキって変なこと言うだろ。俺もあのくらいの時はウルトラマンになりたいとか言ってたらしいぜ。姉ちゃんがそういうの覚えてるから、立場弱いったらないよな」
言葉は嫌がりながら、睦月の表情は嬉しそうだ。
他愛のない子ども同士の話だったが、一輝は睦月の問いに答えを出せなかったことに愕然としているようだった。
橘は、彼のその様子に痛ましさを覚える。
新藤商事を継ぐということは自分の生活の殆ど全てを占めており、その理由など自明の理であった筈だろう――それが、ただの雑談で一瞬にして覆されたのだ。
言葉を失った一輝を、橘は静かに見守った。齢十二の彼の主人は、視線を落とし、唇を噛み締めている。
やがて葉月の手を引いた弥生が戻ってきたが、一輝の様子を見た途端、彼女はキッと睦月を睨んだ。
「睦月!」
「な、何だよ?」
一喝されて、睦月は目を白黒させている。
そんな弟に、彼女は詰め寄った。
「一輝君に何したの!?」
「何もしてねぇよ」
「ウソ。だって、一輝君が落ち込んでるじゃない」
「ええ? さっきと変わらねぇじゃんか」
「全然違うよ。いいから、わたしがいない間に何してたか教えなさい」
額が触れ合わんほどに迫られて、睦月は弥生と睦月が紅葉を拾いに行っていた間の会話をたどたどしくそらんじる。
全てを聞き終えると、弥生は深々と溜息をついた。
「まったく、もう……睦月はホントに単純なんだから……。好きや嫌いだけじゃ言えないこともいっぱいあるんだよ。一輝君も、睦月みたいに単細胞になる必要なんてないんだから、落ち込まなくたっていいのよ? なんでそれをするかなんて、これから探していくものでしょう?」
手を伸ばして、一輝の黒髪をワシャワシャと掻き回す。
「まだ十一歳――あ、もう十二歳か。でも、まだまだ子どもでしょう? なのに、今から何もかも解かって達観できちゃってたら、大人になったら仙人だよ。大丈夫、大丈夫。ちゃんとそのうち見つかるから」
あはは、と笑う声に、一輝の瞳の中の焦りが薄らいでいくのが判った。
その変化に、橘は心の中で弥生に感謝の言葉を送る。同じ言葉を彼が言ったとしても、一輝は受け付けようとしないだろう。
弥生の言葉だから、一輝に届くのだ。
――彼にとって特別な存在である弥生の言葉だから。
「さあ、そろそろ帰ろっか」
弥生の一声で睦月が立ち上がり、シートの上を片づけ始める。それに葉月が続いた。
一輝も立ち上がったが、一点を見つめて固まっている。そんな彼に、橘は背後からそっと声をかけた。
「一輝様?」
彼は振り向かず、返事もない――と思ったら、ポツリと呟くように言った。
「僕は、何をしたいんだろう」
それは、常の彼らしくない、途方に暮れた子どものような声で。
「坊ちゃま……」
いつもなら嫌がる呼び方をしても、反応が無い。橘に背を向けたまま、一輝は自分自身に問いかけるかのように、続ける。
「このままただ漠然と、何万もの人々の生活を負っていてもいいのか?」
その呟きと共に、まだまだ子どもじみた華奢な拳がギュッと握り締められた。その手を取って励ましやその場しのぎの答えを口にしたところで、一輝の中に芽生えた不安や疑問は無くならないだろう。
橘は主の力になれない自分にもどかしくなったが、どうしようもできないのだ。
いつの間にか自身も拳を握っていた彼の隣に、そっと弥生が立つ。
「今日はストレス解消してもらうはずだったのに、睦月のせいで悩ませちゃいましたね」
彼女は、橘と同じように一輝の背中を見つめてそう囁いた。
「ええ、まあ、でも、一輝様ご自身で答えを見つけなければいけないことですからね」
半ば自分自身に言い聞かせるように、言う。
と、ほんの束の間考えて、弥生がポツリとこぼした。
「考えても考えても出口が見つからなかったら、言ってくれるといいんだけどな」
弥生の言葉は橘の心の中にもある思いだったけれど、多分、一輝はそうしないだろう。
――大きなものを背負わねばならない彼を安らがせてくれるような人がいてくれたらいいのに。
橘は、心の底からそう願う。
仕事とは関係なく、ただ、新藤一輝という少年の傍にいて、彼の疲れを癒してくれるような人が、いてくれたら。
そんなふうに思った橘の目は、彼自身も意識せぬまま、隣に立つ少女に向けられていた。