四
「ねえ、そろそろ『彼』に相談してみたら?」
小声でそう弥生に提案してきたのは、加山美香。高校からの友人で、弥生と一輝のことを知っている数少ない者のうちの一人だ。その隣にいるのは森口裕輔で、美香と同様に、一輝と面識がある。彼も、無言で頷いていた。
『相談』のネタは、当然、小金井健のことだ。
「うん……」
確かに、そろそろ限界かもしれない。
じわじわとその自覚が頭の中を満たし始めていた弥生は、小さなため息をこぼした。
この間なんて、小金井のことが気になって、せっかくの一輝の誘いも断ってしまった。海外への出張から帰ってきた彼と、一週間ぶりに逢えるところだったのに。
――これって、本末転倒、だよね。
肩を落とした弥生に、友人二人が心配そうな眼差しを向けている。
もしかしたら、一輝も何か気付いているのかもしれない。断りの電話を入れた時、携帯電話の向こうの彼は、何か言いたげだったから。
――わたしから言うのを、待ってくれてるんだよね……。
何かあったら、弥生から一輝に相談する。そうすることが、彼に対する信頼の表れでもある筈だ。これ以上黙っていたら、きっと、もっと一輝を傷付けることになる。
それは、良くない。
一輝の邪魔をするのと一輝を傷付けるのとでは、圧倒的に前者の方がマシだ。
弥生は覚悟を決めて顔を上げると、美香と森口にニコッと笑いかけた。
「相談、してみるよ」
彼女の笑顔に、二人も、ホッとしたように頬を緩める。
「うん、絶対その方がいいって」
「ああ。男としても、何も言ってくれない方が、つらいし、悔しいよ」
親友たちの力強い後押しを受けて、弥生も深く頷いた。
「今日、バイトが終わったら会えるかどうか、訊いてみる」
さっそく携帯電話を取り出して、橘宛にメールを送る。さほど待つことなく、返信メールが入った。
「どう?」
「今日、会えるって」
「そっか。良かったね」
「うん」
弥生は心底から頷く。現金なもので、気持ちと一緒に、身体も軽くなったような気がした。
――そうだよね。二人のことなんだもの、ちゃんと、相談するべきだよね。
そう決めてしまえば、一輝に会えるのが待ち遠しい。この間も逢いたくてたまらなかったのに、絶えず視界をちらつく小金井の姿に、泣く泣く約束を断ったのだ。
「じゃあ、わたし、バイトに行くね!」
バイバイ、と美香と森口に手を振って、弥生は園に向かう。
大学の正門を出る彼女に気付いた小金井が、いつものように柵に寄りかかってニッと笑いかけてきたけれど、これまでと同じように無視を決め込んだ。
――あれは電信柱。もしくは看板。
口の中でそう唱えて、弥生はブラブラと付いてくる男の姿を頭から追いやった。
こども園の中に足を踏み入れた途端、荷物を置く間もなく、いつものように子どもたちが押し寄せてくる。
「やよいちゃん、あそんで」
「やよいちゃん、だっこ」
「やよいちゃん、おしっこ」
一秒ごとに、そんな声が追いかけてきた。
昔、高校の修学旅行で奈良公園の鹿に餌をあげたことがあるけれど、あの状況に似ているかもしれない――手ぶらであることを除けば。あの時、せんべいを持った彼女は鹿の群れに襲われて、友人に助け出される羽目になったのだ。
末の弟の葉月はほとんど弥生が育てたようなものなのだけれど、彼は大人しい子だったので、こんなふうに走り回ったり弥生によじ登ってきたりするようなことはしなかった。
一瞬たりともジッとしていない子どもたちの体力に、弥生は改めて驚くばかりだ。一人を抱き上げると、ぼくもわたしもと群がってくる。
そんなふうに息をつく間もないような状況だったから、時間はあっという間に過ぎていった。
気付けば、十六時五分前。
アルバイトが終わるまでのあと五分を、そわそわしながら待ちかねて。
時間になると、保育士達の「また明日」を背中で聞きながら園を後にした。
正門には小金井が陣取っているので、彼がいない裏門を出て、橘との待ち合わせ場所に向かう。
が、出てすぐのところで、別の人物に呼び止められてしまった。
「大石!」
その声に振り返ると、そこに立っていたのは宮川寛之――園に出入りしている臨床心理士だ。
「宮川さん。こんにちは」
彼に向き直った弥生は、笑顔で会釈する。
宮川は小走りに近寄ってくると、A4サイズの紙袋に包まれた物を彼女に差し出した。
「これ、前に言ってた児童心理学の本。読み易くて面白いよ」
「わあ、ありがとうございます! 楽しみにしてました」
弥生は、顔を輝かせてそれを受け取る。いくつか質問したい事もあったのだけれど、残念ながら、一輝との約束の時間まで、あまりない。この先の路地で、橘が手配してくれた車が待っている筈だった。
時計を気にする弥生の様子に気付いたのか、宮川が眉をひそめる。
「これから、予定が?」
「あ、ええ、はい」
適当にごまかせばよかったのかもしれないけれど、それができないのが、弥生だ。詳しくは教えたくない、という気持ちが露骨に顔に出てしまう。
「例の、彼?」
案の定、窺うような面持ちで、宮川がそう尋ねてきた。
さすがに話を聴くのがうまい彼は、弥生からもチョコチョコ情報を引き出していた。いつの間にか、彼女が『とても忙しくて滅多に逢えない男と数年来の付き合いだ』というところまで知られてしまっている。
「ええっと……――はい」
言い繕おうとして果たせず、弥生は若干目を逸らしつつ、結局頷いた。できたらこれ以上突っ込まず、解放して欲しい。そう願ったが、それは叶わなかった。
何やら考え込んでいた宮川が、不意に言った。
「会ってみたいな」
「ええ!?」
「別に、いいだろ? 女の子って、普通、彼氏を見せびらかせたがるじゃないか」
それは、彼氏が『普通の人』の場合に違いない。なぜ、宮川はこんなに他人の恋人のことに拘るのだろうかと困惑しながら、弥生は何とか逃げ切ろうと試みる。
「あ……ちょっと、無理、です」
「なんで?」
彼の眼差しが、少し尖る。
――ああ、もう、どうしよう。
と、その時。
約束の時間も刻々と迫り、気ばかり焦る弥生の背後から、更なる厄介の種の声がかかった。今この瞬間、この世で一番聞きたくない声だ。
「みぃつけた。ひどいじゃないか、こっそりいなくなるなんて」
ため息をつきつつ視線を投げた先にいるのは、当然、小金井である。大いに誤解を招く物言いに、恐る恐る隣を見上げると、宮川は険しい眼差しを彼に注いでいた。
「これが、大石の彼氏?」
「違います!」
そこは、力いっぱい否定しておく。話題の渦中の人物は、相も変わらずヘラヘラとしながら目を輝かせた。
「おお、いいねぇ。第三の男登場? 弥生ちゃん、見かけに寄らず、モテるじゃない」
「何なんだ、彼は?」
あって然るべき質問が宮川から発せられる。それは、弥生も言いたい台詞だ。
場の空気も読まず、小金井は軽い口調で自己紹介を披露する。
「ああ、オレ、小金井健って言います」
宮川に、ヒョイッと名刺を渡されてしまった。
「フリージャーナリスト……?」
宮川の怪訝な声は、至極もっともなものだ。
状況は、どんどん収拾がつかなくなってくる。
――ああ、もう!
内心で頭を抱えた彼女だけれど、頭上で勝手に話が進みそうになっていることに気付き、我に返った。
「おたくさぁ、この子の彼氏のこと、なんか知ってる?」
「大石の?」
「そうそう。新藤か――」
「小金井さん!」
鋭く制してキッと睨み付けると、彼はおどけたように両手をあげた。
「悪い、悪い。この彼氏にはナイショなわけね」
小金井は、全く悪いと思っていなそうな口調で、更に事態をこじらせるようなことを口にした。
「もう、帰ってください」
「ゴメン、ゴメン。怒らせちゃった? じゃ、今日は退散するわ」
地を這うような弥生の声に流石に引き時だと察したのか、引っ掻き回すだけ引っ掻き回した小金井は、鼻歌混じりに去っていく。
残された二人の間には、気まずい沈黙が横たわった。一輝のところに行かなければ、と気は焦るが、このまま「さよなら」とはいかない雰囲気になってしまった。
かといって、弥生には弁明する言葉もなく。
先に口火を切ったのは、宮川の方だ。
「なあ、お前の相手って、もしかして――」
お願いだから、言わないで。
弥生の切なる願いも虚しく、彼はその名を口にしてしまう。
「――新藤一輝……?」
恋人と滅多に会えないくらいバリバリ働いていて、ゴシップネタを餌にしているようなフリージャーナリストが虎視眈々と狙う、『新藤か――』につながる人物など、そうはいない。
言い逃れるための言葉が見つからなくて顔を伏せたまま黙り込んだ弥生に、ジッと見下ろしてくる宮川の視線が突き刺さる。一輝との約束の時間はとっくに過ぎていたけれど、弥生はその視線を振り切ることができなかった。
不意に、彼女の両肩が温かくなる。そこに乗せられた宮川の両手には、痛みを与えるか与えないかの、ギリギリの力が込められていた。顔を上げた弥生の目を、宮川の真剣な眼差しが射抜く。
「そうなのか?」
念押しに、首を振ることは容易だった。けれど、それでごまかすことができないことも、解っていた。
無言のままの弥生に、宮川が少し俯いて深いため息をつく。
「無理が、あるんじゃないのか?」
「え……?」
「だって、『あの』新藤一輝、なんだろ?」
「『あの』って……」
珍獣を評するような言い方に、弥生はムッと口を尖らせる。けれど、宮川はそんな彼女の立腹には取り合わず、真剣な面持ちのまま、続けた。
「お前、そいつとのこと、どこまで考えてるんだよ?」
「どこまでって、ちゃんと、真面目にお付き合いしています」
「でも、お前は保育士になるんだろ? 新藤一輝とこれからも付き合っていくなら、無理じゃないのか?」
「そんなこと、ないですよ」
何を言い出すのかと、宮川を睨んだけれど、彼は怯まない。
「二人の仲が知られていない今でも、ああやって嗅ぎつけてくるヤツがいるじゃないか。新藤一輝と付き合ってるって知られてみろ、大騒ぎで仕事なんかしてられないぜ。それとも、ずっと、隠したままで付き合っていくのか?」
弥生の肩を掴む宮川の手に、力がこもる。
「彼とお前じゃ、『違いすぎる』んじゃないのか?」
その言葉に、弥生はグッと唇を噛んだ。
そんなことは、とうの昔に思い知った。けれども、それでも、一輝と一緒に生きていこうと決めたのだ。弥生は、身体を震わせて宮川の手を振り払う。
「そんなの心配してもらわなくても、大丈夫です! 第一、宮川さんには私と一輝君のことなんて、関係ないじゃないですか!」
とっさにそう言い放って、身を翻して立ち去ろうとする。が、彼に背を向けた瞬間強い力で腕を引かれ、思わずよろめいた。直後に全身を締め付けられた弥生は、一瞬、状況が理解できなくなる。頬に感じる温かさと力強い鼓動に、ようやく、どんなことになっているのかを悟った。
「宮川さん――宮川さん!」
名前を呼んでも、弥生の頭と背中の少し下あたりに置かれた大きな手の力は緩まない。
腕を突っ張って押しやろうとすると、より一層、きつく抱き締められた。
一輝よりもがっしりとした、身体。その違いは、怖くなるほどに明らかだった。
――なんで、こんな……。
もがきながら、そう、思った時だった。その答えが耳元で囁かれる。
「……え?」
思わず、弥生はピタリと動きを止めてしまう。
多くはない言葉を鼓膜に吹き込まれても、すぐに理解することはできなかった。
――今、この人は何て言ったの?
その自問から数拍遅れて、耳から脳へとジワジワ染み込んでくる。
「だから、お前のことが好きだって言ってるだろ」
「うそ」
「なんで、嘘なんだよ。」
苛立たしげにそう言った宮川に両腕の上の方を掴まれてグイと引き上げられ、殆ど爪先立ちのようになってしまった弥生は、踏ん張りがきかなくなる。
「お前のこと、ずっと見ていたんだ。初めのうちはただの後輩だったよ。だけど、見ているうちに……。女の子を見ていてこんなふうに感じるのは、初めてなんだ。お前が笑っているのを見ると、心地良いのに、苦しくてたまらない。それを俺に向けてくれるなら何でもしてやるって気になるんだよ」
どこか苦しげにそう言った宮川は、弥生の頬に片手を添え、首を傾ける。その唇が触れようとした時、弥生はハッと我に返った。
「イヤッ! ダメッ!」
悲鳴にも似たその響きに、宮川の力がわずかに緩む。その隙を逃さず、弥生は彼の腕を振り払った。勢いで地面に座りこんだ彼女の耳に、唐突に、車のエンジン音が届く。
振り返った弥生の目に入ったのは、見慣れた車の走り去る姿。
――うそ、あれって……。
呆然と、見送ってしまう。
『彼』に全て見られていたのだろうか。
いったい、いつから?
もしや、小金井と揉めているあたりも、見られてしまったのだろうか。宮川とのことよりも、そちらの方が、気になった。
ちゃんと、一輝に相談しようと思ってた。
けれども、先にこんな形で知られてしまったら、どうやっても言い繕えない。
一輝のことを気遣った筈が、余計に彼を傷つけてしまった気がする。
――こんなつもりじゃなかったのに。
後悔先に立たずとは、このことだった。
座り込んだままの弥生の目の前に、手が差し伸べられる。見上げると、気まずそうな宮川の顔が目に入った。
「……悪い。こんなふうに伝えるつもりはなかった」
たった今、自分の心の中に浮かんだものと同じ台詞を耳にして、弥生は思わず小さな笑みを漏らしてしまう。
「大石?」
いぶかしそうに眉をひそめる宮川に、小さく首を振って。
弥生は自分独りで立ち上がり、一歩だけ後ずさると、スカートについてしまった砂をポンポンと払い落とす。
そうやって、少し心を落ち着かせて。
弥生は真っ直ぐに宮川を見上げ、ペコリと一つ、頭を下げた。そして、再び彼を見つめて、揺らぎない想いを伝える。
「わたしは一輝君のことが好きで、ずっと、大事にしてあげたいんです。こういうふうに特別に『好き』って想うのは、多分、一生、一輝君だけです」
宮川からの返事はない。ただ、弥生に静かな眼差しを向けている。彼女も目を逸らすことなくそれを受け止めた。
やがて、宮川が口を開く。
「俺は諦めない」
「宮川さん……」
宮川は、肩を竦めて続ける。
「さっきのあの車、新藤一輝が乗ってたんじゃないのか?」
弥生は一瞬視線を揺るがせ、逡巡した後に頷いた。それを受けた宮川は深く溜息をつく。
「いつから見ていたのかは知らないが、あの状況で、お前を助けに来ないわけだろ? まあ、あの小金井ってヤツがいた時は仕方がないかもしれないが、その後はどうなんだよ」
「それは……」
「俺だったら、自分の彼女が他の男に抱き締められて、黙ってなんかいられない」
それは違うのだと、宮川に言いたかった。きっと、一輝は何かを考えてあの行動を取ったのだと。けれども、それはあくまでも弥生の推測にしか過ぎなくて、そこにはこの強い眼差しをした宮川を納得させるだけの根拠を与えることができなかった。
「付け入る隙があるなら、俺は諦めないよ」
彼は、そう、言い切る。力を込めた視線をわずかも揺らすことなく。
弥生は、今すぐ一輝に会いたかった。会って、声を聞きたかった。そうすれば、そんな『隙』などわずかもないのだと、宮川を納得させるだけのものが得られると思った。
今この時も、一輝の『気持ち』は信じている。
けれども、もしかしたら。
その『気持ち』の為に彼が離れて行ってしまうかもしれないという考えが、ほんの一瞬だけ頭をよぎったことは、事実だった。