三
――またいるな。
弥生は、チラリとこども園の柵の外に視線を投げた。そこにいる男が、ヒラヒラと手を振って返す。
小金井健だ。
あれから一週間、彼はまるでコバンザメのように弥生にくっついてくる。こども園の方からはまだ何も言ってこないが、あんな胡散臭い人物がウロウロしていたら、保護者から不安の声があがるのも時間の問題に違いない。
一輝に相談するべきだろうか。
何度かそんな考えが頭をよぎったけれど、彼に、「自分のせいで弥生に迷惑がかかっている」と思わせたくない気持ちもある。
――言うのと言わないのと、どっちがいいんだろう。
きっと、すぐに諦めるだろうと思っていたのに、小金井はしつこかった。二、三日のことなら我慢していればいいや、と考えて一輝には黙っていたら、ズルズル延びて、そのまま教えそびれてしまったのだ。
ムウッと考え込んでいる弥生に、不意に声がかけられる。
「どうした?」
顔を上げると、腰を屈めて彼女を覗き込んでいた宮川寛之と、真っ直ぐに目が合った。弥生は咄嗟に笑みを浮かべて取り繕う。
「宮川さん、こんにちは」
「何かあったのか?」
「え?」
「眉間にしわが寄ってた」
トントンと自分の額を示しながら、宮川が言った。弥生は、思わず両手で眉間を覆ってしまう。そんな彼女を少し笑うと、彼は真面目な顔になって続けた。
「困っていることがあるなら、相談に乗るぞ?」
「あ……いえ、個人的なことなので……」
「むしろ、個人的なことを歓迎したいんだけどな」
「え?」
サラリと、何か言われたような気がする。キョトンと目を開いて宮川を見上げた弥生に、彼はニッと笑顔を返す。その笑顔は、どういう意味なのか。彼女は宮川の真意をはかり損ねて困惑する。
「相談に乗るからさ、今晩、メシでもどうだ?」
「あ、いえ、家族のご飯を作らないとなので……」
「前もって言っておいたらいい?」
「……はい……」
宮川がこんなに突っ込んでくるなんて、自分はそれほど深刻そうな顔をしてしまっていたのだろうか。弥生は自分の顔を両手で撫でてみる。彼女のその仕草に、宮川は眉を上げて笑みを深くした。
「言っておくけど、相談の方が『ついで』だからな」
益々、よく判らなくなってくる。相談に乗ってくれようというのではないのか。
弥生の心中が表情に出ていたと見えて、宮川が苦笑する。
「あのな、普通に、食事に誘ってんの。付き合ってるヤツ、いないんだろ?」
「います」
「は?」
弥生の即答に、宮川が目を丸くする。
そんなに意外なことなのか。
常々、自分に『大人の色気』がないことは充分に承知している弥生ではあったが、露骨に驚かれるとやっぱり、ちょっと、ムッとする。彼女は複雑な内心を隠しつつ、続けた。
「お付き合いしている人、いますよ」
「え? だって、お前、デートとかしてなくないか?」
そんなことに気付くほど、宮川はただのバイトでしかない弥生を気に掛けてくれていたらしい。何ともマメな人だと、感心する。
そして、確かに、と納得した。
休日もこども園に顔を見せていることが殆どな弥生である。化粧っ気もなく、恋人との逢瀬をうかがわせるものがなかったのだろう。
今も弥生に向けられている宮川の目は、明らかに彼女の主張を疑っていた。
「相手の人が忙しいので、あんまり逢えないんです」
「働いているのか?」
「はい。とっても、忙しい人なんです」
「……おっさん、なのか?」
少し躊躇いがちに、宮川がそう訊いてくる。彼の疑問ももっともだ。
デートをする暇もないほど働いている相手となったら、普通は年上だろう。しかも、結構な。本当のところを白状するわけにもいかず、弥生は曖昧にごまかした。
「そんなところです。でも、時間を割いて、ちゃんと逢ってくれるんですよ。すごく優しい人なんです」
言い募る弥生を、宮川は奇妙な目付きで見下ろしていた。
彼女としては真実を口にしているのだが、どうもストレートに伝わっていないような気がする。そんなに弥生が誰かと付き合っているということが信じられないのか、それとも、他の理由が引っかかっているのか。
首を傾げる弥生の前で、宮川は少し口ごもってから、続けた。
「まさか――まさかとは思うけど、不倫とかじゃないよな?」
「え!?」
まさに、豆鉄砲を食らった鳩のように目も口も丸くする彼女に、宮川は慌てて補足する。
「いや、だってさ。お前、なんだか相手のことをあまり話したくなさそうだから……」
話したくないというよりは、話せないのだが。弥生は、顔を赤くしながら『恋人』のことを弁護する。
「全然、違います。ちゃんとわたしだけを大事にしてくれる人です。とっても優しいんです。ちょっと事情があって、詳しいことはお話できないんですけど……」
だが、言葉を重ねても宮川の不信の眼差しは変わらない。いや、益々疑わしげな色が濃くなったような気がする。
「お前さ、それ……実は騙されてるってこと、ないのか? 公言できない恋人って、なんなんだよ。『優しい人』ってのが、結構曲者だったりするんだぜ?」
一輝の良さを伝えて、弁護したい。
けれども、彼のことをあまり公にするわけにはいかない。
二律背反に囚われて、弥生は二進も三進も行かなくなる。どうしようかと考えあぐねていると、保育士の一人が彼女を呼ぶ声が聞こえてきた。コレ幸いと、宮川に頭を下げる。
「すみません、呼ばれているので、失礼します」
「……ああ」
納得してなさそうだなぁ、とは思いつつも、弥生は宮川を置き去りにしてそそくさとその場を後にした。二、三日会わずにいれば、彼もこの話題を忘れてくれるだろうと期待しながら。
この先、どんどん事態がこじれて行くことになるとは、弥生はこの時予想だにしていなかった。
*
橘からの報告を聞きながら、一輝は、先日弥生と逢った時にもっと突っ込んで話を聞かなかった自分に腹を立てていた。
報告の内容は、彼女の周囲をうろついている記者のことについてのものである。
「小金井健という男で、恐らく、伊集院様の件から弥生様のことを嗅ぎ付けたのではないかと思います。一輝様と弥生様のスクープ写真を狙ってか、だいぶうっとうしかった男なのですが、ここ一週間ほど、姿を見なくなっていたのです。どうやら、弥生様の方に行ってしまっていたようで」
橘がうっとうしく思うくらいなのだから、弥生はさぞかし迷惑しているに違いない。相談してくれればよかったのに、とは思うが、「自分のせいで――」と彼を落ち込ませたくなかったのだろうという弥生の気持ちも解るだけに、一概に責めるわけにもいかない。
――それでも、頼ってくれた方が嬉しいのだけどな。
こんな時、頼ることをためらわせてしまう自分が、もどかしい。それが、どう足掻いても埋めることはできない年の差のせいなのか、あるいは、それ以外の何かの為なのか。
自分を卑下する気は毛頭ないが、時々、彼女よりも早く産まれていたかった、と思う。一輝が年上だとしても無条件に頼ってくる弥生ではないのだろうが、それでも、もしかしたら、と思ってしまうのだ。彼女にとって、完璧な自分でありたいと願ってしまう。
一輝は、小さく溜息をつく。
と、それをどう受け止めたのか、橘が深く頭を下げた。
「申し訳ありません。いなくなったと安心せずに、もっと調べておくべきでした」
「ああ、仕方がないさ。それよりも、どうしたらいいかな」
出版社に勤めている記者なら、上から圧力をかけさせる、という手が使えるが、厄介なことに小金井はフリーだ。しがらみがないだけに、抑制しにくい。
「金で手を引くと思うか?」
「いえ、残念ながら」
橘の返事に、一輝も黙って頷く。小金井健についての報告書を読むと、『金のため』というよりも、『楽しみのため』に記者をしている人物であることがうかがわれた。金で片を着けようとしたら、それほどイイネタなのかと、よりいっそう奮起してしまうかもしれない。
いっそのこと、弥生のことを婚約者として公表してしまおうか。
そうしたら、護りやすくはなる。
けれども。
先日食事をした時の、弥生の様子がまざまざと思い出された。
アルバイトの話を、この上なく楽しそうにしていた彼女の様子を。
新藤一輝の婚約者として知られてしまったら、弥生の生活はどんなふうに変わってしまうのだろうか。自分が、一部のマスコミにはタレントのように扱われていることは、彼もイヤというほど承知している。その婚約者にも、同じような注目が集まってしまうのではないか。それで、彼女は『普通の』生活が営めるのか?
一輝の腕の中にいてくれれば、優しくして、甘やかして、何不自由のない幸せを弥生に与えることができる。だが、彼女にとって、果たしてそれらを受け取ることだけが幸せなのだろうか。
恐らく、違う。そうではないのだ。一輝にとっては、ただ弥生が傍にいてくれることだけが至上の幸せだが、彼女にとっては、そうではない。一輝と共にある幸せも確かにあるのだろうが、それ以外の何かも、きっと彼女にとっては必須のもの。
けれども。
弥生を『普通の生活』から切り離してしまうのは、一輝自身に他ならないのだ。
もしかしたら、彼女を、彼女にとっての一番の『幸せ』から遠ざけてしまうのは、一輝という存在なのかもしれない。
弥生にとって、一輝のことと、一輝以外に彼女を取り巻く諸々のものは、どちらの方が、より大事なのか。
弥生の幸せ。
一輝の幸せ。
二人の、幸せ。
それぞれ重なり合ってはいても、完全には合致しない。
その全てを成り立たせることの難しさが、ヒタヒタと一輝に迫る。
隠されていた不安が、徐々に彼の心の中で膨らみ始めていた。
そして、そんなふうに弥生のことを想う一方で、チラリと、本当に、チラリと、一輝の頭の中を一つの考えがよぎる。
――いっそ二人の関係を公表してしまえば、彼女はこの腕の中にしかいられなくなるのかもしれない。
それは、泡のように浮かび上がり、消えていった、思わく。『消えた』ということは、確かに『存在した』ということだ。
彼の中にある、利己的で醜い、欲望。
一輝は、静かに目を閉じた。