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大事なあなた  作者: トウリン
幸せの増やし方
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「で、アルバイトの方は――弥生さん?」

 いつものように時間を作って弥生とランチを共にしていると、ほどなくして、一輝はどことなく彼女の様子が落ち着かないことに気がついた。


「どうかされましたか?」

 気もそぞろな弥生に、彼はそっと問いかける。その声に、ハッとしたように彼女は瞬きをした。そして、何事もなかったように、ニコッと微笑む。

「あ、ごめんね。ちょっと、ぼぉっとしちゃった」


 いつもどおりのように見えるが、意識が一輝に集中していない気がする。こんなことは、滅多にない――滅多にないだけに、何かある時にはそれなりに深刻な事態なのだ。


 それが自分絡みのことだと、一輝は直感した。

 家族や友人、就職のことなど、直接彼につながらない事であれば、むしろ弥生は話してくれるだろう。

 一輝の『所為』で起きた問題だから、彼には言おうとしないのだ。


 ――まったく、困ったものだ。


 目の前でニコニコと屈託のない笑みを惜しげもなく彼に注いでいる弥生に、一輝は内心でため息をつく。

 彼は前に置かれているコーヒーカップを静かに押しのけると、彼女に向けて手を伸ばした。


「弥生さん」

 名前を呼ぶと、彼女は小さく首をかしげてテーブルの上に置かれた彼の両の手のひらを見つめ、そこに彼女自身の手を乗せる。

 一輝は自分の手の中にすっぽりと納まってしまうそれを包み込み、親指でそっと甲を撫でた。彼女はピクリと微かに反応したけれど、手を引っ込めようとしなかった。


 手を持ち上げて身を乗り出し、ほんの少しだけ覗いている艶やかな桜色をしている小さな爪に、口づける。

 そんな親密な行為、少し前の彼女であれば即座に跳び上がって逃げていただろう。

 だが、今は、恥ずかしそうに丸い頬を染めてはいても、彼にされるがままになっている。『恋人』としての二人の距離は確実に縮まっていた。


 その進展速度はたとえ蝸牛の歩み並みだが、一輝はそれでもいいと思う。

 再び離れてしまうことさえなければ、それで。


 一輝は居住まいを正すと、弥生の手を握る力を少し強めた。

 そうして、彼女の目をジッと覗き込みながら問いかける。


「何か、心配事でもおありですか?」

 一瞬、弥生の指先がピクリと反応する。


 が。


「え、なんで? 何もないよ?」

 一輝の言葉は、笑顔でサラリと流される。

 束の間、彼はその晴れやかな笑顔をすがめた目で凝視した。


 明らかに、何かがある。

 それは確かだ。

 しかし、彼女がこういうふうに笑っている時は何をしても効果がないということは、長い経験から解かっていた。


 ――二進も三進もいかなくなれば、彼女の方から話してくれるだろう。


 それがあまり苦しんだ後でなければいいがと諦めのため息を内心でこぼしつつ、一輝は軽く首をかしげて続けた。

「それならいいですが……何かあるなら、おっしゃってくださいね」

 弥生の為を思って、そう告げた。

 だが、彼女は、何故か微妙な顔をする。

 何かまずいことを言っただろうかと悩むほどのことも、一輝は口にしていない。戸惑う彼に、弥生は生真面目な眼差しを向けた。


「だったら、一輝君も、何かあったらわたしに教えてね」

「え?」

「何か一輝君が困るようなことがあっても独りで何とかしようとしないで、わたしにも相談して欲しいし、それを何とかするのを手伝わせて欲しいの。わたしに関係のあることも、ないことも、全部。一輝君の荷物は、ほんのちょっとでもいいから、わたしにも背負わせて欲しいんだ」

 そう言って、弥生はキュッと手を握り締めてくる。まるで、逃げようとする一輝を引き留めようとするかのように。


 弥生の目は、真っ直ぐに一輝に向けられていた。

 その眼差しに含まれている色も声に滲んでいる響きも、まだ幼かった彼を助けようとしてくれていた頃のものとは、違う。

 そう、あの頃は、弥生は一輝を『助け』ようとしていたのだ。

 今、目の前にいるひとは、彼と寄り添い、支えようとしている。

 一輝には、それが彼と一緒にいようとする彼女の気持ちの表れに思えた。


「僕にとって、あなたは傍にいてくださるだけでいいのです。ただそれだけで、僕には力がみなぎってくる」

「わたしもそうだよ。でも、手伝いたい」

「弥生さん……」

 頑なに言い張る彼女に、愛おしさがこみ上げる。

「そうですね、そうします」


 実際に、何もかも弥生に伝えることはできないし、しないだろう。だが、彼女のその気持ちが嬉しく、一輝は頷いた。そして、どちらからともなく笑顔になる。

 もう一度だけ持ち上げた弥生の手にキスをして、彼は話を切り替える。


「それで、アルバイトの方は、どうですか?」

 先ほどは聞き流されてしまった問いを、一輝は再び繰り返した。

 それを受けた弥生は満面の笑みを浮かべる。


「とっても楽しい。わたしは子どもたちと遊んでるだけなんだけどね。このバイトを紹介してくださったのは宮川さんっていう人なんだけど、臨床心理士をされてて、子どもたちの色んな行動の理由とか、教えてくれるの。面白いよ。そうなんだぁって、納得する」

「宮川さん?」

「そう、宮川寛之みやがわ ひろゆきさん」

「男性ですか」

 ふと一輝は呟く。バイトを紹介してくれたのがゼミの先輩で臨床心理士だというのは聞かされていたが、それが男性だということは初めて耳にした。


「うん。まだ若い……って言っても、二十七――八歳だったかな。でも、すっごく勉強してる人なの。色々、知ってるのよ。わたし、宮川さんのお話聴いてたら心理士の勉強もしたくなってきちゃって」

 彼のことを口にする弥生の目には、尊敬の念が溢れ出ている。


「そうですか」

 ただのバイト先の仕事仲間というだけの筈なのだが、宮川とやらの話を聞く一輝の胸の中で、チリチリと炙られたような感覚が生まれた。何故か、弥生の口からその男のことを聞きたくない気がする。


 四月以降、会えば必ず、多かれ少なかれ、彼女のアルバイトのことが話題に上る。弥生の楽しそうな様を目にするのは、一輝にとっても喜びだ――その筈だ。筈なのに、清水に落ちた一滴の墨汁のように、何かが彼の心の中を濁らせる。


 目をキラキラさせながらアルバイト先のことを話す弥生は、一輝の声に含まれた微妙な変化に気付かない。幸いにも、『宮川』の話はそこで終わり、次の話題に切り替わる。

 一瞬だけ芽生えた奇妙な感覚は、それきり、一輝の胸の奥深くへとしまい込まれた。


「最近は、保育士も男の人が増えてきてるよ。男の人は、力があるからいいんだよね。五歳くらいの子も、ヒョイッて片手で抱っこできちゃうの。いいなぁ。わたしも鍛えよっかなぁ」

「……ほどほどに、しておいて下さい」

 筋骨隆々とした弥生を一瞬想像してしまい、思わず一輝の笑顔は固まった。

 どんな弥生も愛せる自信はあるが、でき得ることなら、抱き締めた時のあの柔らかさは失わないでいて欲しい。


 一輝のコメントに、弥生はふふ、と笑う。

 いつものように、平凡で――幸せな時間だ。多くの恋人たちにとっては簡単に作り出せる一時なのだろうが、彼らにとっては容易ではない貴重なもの。

 この空間をいつまでも護っていきたいと、一輝は強く願い、そして決意する。


 ――それが大きく揺さぶられる時が近付いているのだということを、この時の一輝には知る由もなかった。


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