一
この四月から、弥生は、ゼミのOBに紹介されたこども園でのアルバイトを始めていた。
0歳児から就学前の子がいる、比較的規模の大きな園で、始めてから、そろそろ一ヶ月。五月の疲れも抜け、何とか子どもたちのペースもつかみかけてきたところだ。
見知らぬ男が親しげに声を掛けてきたのは、そのアルバイトの帰り道のことだった。年の頃は三十代半ばほど。長めの髪を後ろでくくり、無精ひげを生やしたその風体は、かなり胡散臭い。
「君、大石弥生さん?」
名前を呼ばれて振り返ってしまったからには返事をしたのも同然なのだろうけれど、弥生は一応答えはせずに、相手の次の言葉を待った。
「弥生さんでしょ? オレ、こういうモンなんだけど」
そう言って男が差し出した名刺には、『フリージャーナリスト 小金井 健』と書いてある。しかし、『フリージャーナリスト』なんて、誰にでも名乗れる職種だ。名刺を見せられて、弥生の中の相手に対する胡散臭さゲージはマックスまで上昇する。
「人違いです」
クルリと振り向いて、そのまま歩き出す。と、小金井と名乗った男は慌てたように弥生の前に回りこんだ。
「ちょっと、待ってよ。少しぐらい話をさせてくれてもいいんじゃないかなぁ」
どう逆立ちしても、弥生自身からはジャーナリストなる人種と関わるものは落ちてこない。となると、考えられるのは彼女の恋人絡みのことに違いない。当然弥生には、一言たりともこの男と会話をする気はなかった。
「しません。失礼します」
スルリと小金井の脇を抜け、弥生は彼を置き去りにしてさっさと歩き出す。けれども、小金井は、徹底的に無視を決め込んだ彼女の隣に並ぶと勝手に喋り出した。
「伊集院蓮司って、知ってるでしょ? 去年、この伊集院と新藤一輝――新進気鋭の新藤商事総帥殿が一人の女を取り合ってるって噂があったんだよねぇ。なんか知らない?」
「いじゅういん……どなたですか?」
反応するまいと決めていたのに、思わず、そう口にしてしまっていた。小金井は、まるで釣竿に手ごたえを感じたかのように目を光らせる。
「知らない? 伊集院グループの御曹司だよ。顔が良くてお金持ち。女の子の中では有名だと思ってたけどな」
弥生は一瞬何のことだろうかと眉をひそめ、ああ、そう言えばと思い出した。
確かに彼女は、その人と面識がある。
とは言え、彼女の記憶の森の中では『伊集院蓮司』という名前はほぼ腐葉土と化していたから、『顔が良い』と言われてもピンとこない。
確かあれは学祭が終わった頃のこと。
実際には、色恋がどうのというわけではなく、一輝に対抗しようとした伊集院が弥生にちょっかいをかけてきただけのことだったのだが。
数週間、伊集院は弥生の前に出没していたけれど、実際に彼に時間を割いたのは一回だけだ。目を引くほどのことはなかったはずなのに。
いったい、この小金井という男は何処から情報を手に入れたのか。
「何でわたしに訊くんですか?」
慎重な眼差しでそう問い返した弥生に、彼はにんまりと猫のような笑みを浮かべる。
「ほら、その頃、伊集院蓮司が君の周りをチョロチョロしてたじゃない。彼はとにかく女の噂が絶えないんだけど、その中で君ってかなり異質だったんだよね。何しろ、彼の好みは偏ってるから。まるで、鶴の群れの中の雀みたいでさぁ。かなり目立ってたんだよ、君」
失礼な物言いを臆面なく口にする小金井に、弥生は呆気に取られる。確かに彼女は、背は低いし、容姿だってパッとしない。鳥にたとえるならば、雀はピッタリだろう。だからと言って、それをそのまま本人に伝えるとは、いったいどういうつもりなのか。
思わず立ち止まってしまった弥生に、小金井はニカッと歯を見せて笑った。してやったり、という顔を見るにつけ、どうやら、彼女の足を止めさせる作戦だったらしい。
「なんかあるのかなぁって思って調べてみたんだけど……君、新藤商事の下請けの大石金型製作所の娘さんなんでしょ? 時々、ゴッツイ外車に乗ってどこかに行くらしいじゃない。今は全然だけど、その頃、伊集院蓮司はこれでもかってくらいに新藤一輝を目の仇にしていてね。派手好みの伊集院が君に手を出してたのは、そのへんの絡みじゃないかなって。もしかして、外車の相手って、新藤一輝じゃないのかなぁ、とか」
グイと顔を近づける小金井に、弥生は前を向いてまた歩き出した。心の中で「無視、無視」と呟きながら。
「君と新藤一輝のツーショットが撮れればいいんだけどさぁ、もう、狙っても狙っても、全然、いいアングルが見つからないんだよ。ありゃ、いい護衛を雇ってるね。もう写真は諦めて、君から何か仕入れようかな、と思ってね」
貝さながらに口を引き結んで歩く弥生の後ろを、小金井が追いかける。その様は、まるでおこぼれを狙う野良犬のようだ。彼女の完全無視にもめげず、つらつらと続ける。
「オレは結構気が長い方だからさ、しばらくよろしくねぇ」
その言葉と共に足音が止まったが、弥生は振り返らなかった。
今まで一輝とのことが公にならなかったことは、実は凄いことだったのかもしれない。
黙々と歩きながら、弥生は、今更ながらそう思った。
一輝は弥生の恋人で、経済界では一際目立つ存在だ。若くして新藤商事の総帥の座に就き、お飾りではなく手腕を発揮している。経済新聞などを読むと、彼の名前は三日と空けずに何かしらで目にするのだ。それに加えて、人目を引く容姿をしており、経済とは無縁の若い女性たちにも注目されているらしい。
年齢と、経営手腕と、容姿。
その三点セットのお陰で、一輝の恋愛沙汰は、きっと、良くも悪くも世間の話題になることだろう。
彼は弥生とのことを慎重に世間から隠していたけれど、多分、それは彼女のためなのだ。先ほどの小金井のように、無遠慮に弥生の生活に入り込んでくる者達を危惧したに違いない。
取り立てて際立ったところのない弥生が一輝のお相手だと知られれば、温かい眼差しだけでなく、きっと誹謗中傷の類も注がれる。一輝がそれを恐れていることは、弥生にも容易に察することができた。
――別に、いいのにな。
護ってくれることは嬉しいけれど、護られるばかり、というのは寂しいのだ。以前の、一輝の気持ちも自分の気持ちもハッキリと知らなかった頃ならいざ知らず、今なら、弥生も逃げずに闘える。多少の困難だって、一輝と一緒なら乗り越えていく覚悟ができているのに。
弥生の方から一輝から逃げ出すことはもうないのだと、まだ信じてもらうことができないのか。
何かあったら逃げてしまうと思われているから、一輝は必死に彼女を護ろうとするし、彼自身に何かあっても決して頼ろうとはしてくれないのだろう。
それが、寂しい。
心の中でそう呟いて、弥生は、小さなため息を地面にこぼした。