5
電話を切った伊集院は、ようやく次の段階に進められることに、心ならずも安堵した。
やはり、女を落とすには深紅の薔薇に限る。五軒の花屋で買い占めた甲斐があったというものだ。
早速、帝王ホテルの最上階にあるレストランを借り切るように手配をさせる。
六時から始めれば、食べ終わる頃には見事な夜景が見られるだろう。雰囲気を作って口説けば、あんな何も知らなそうな女など、簡単に落とせるに違いない。
――そう、これまでうまくいかなかったのは、『環境』が悪かっただけなのだ。その証拠に、薔薇を山ほど贈ったらすぐに折れてきたではないか。
電話での弥生の応対はややぎこちないように感じられたが、きっと、はにかんでいたのだろう。
伊集院は、俄然自信を取り戻す。
今晩で、一気に攻め落とすつもりだった。
そうしたら、彼女をパーティーに連れて行こう。惚れた女の肩を他の男が抱いている様を見る『アイツ』の悔しがる顔を想像すると、今から爽快な気分になる。
どうにも気が逸り、伊集院はいそいそと身支度を整えると、まだ約束の時間には早いがホテルへと向かった。
客が一人もいない、ガランとしたレストランの中を、伊集院はグルリと見渡す。当然のことながら、今日もここは予約で満席の筈だった。それらを全てキャンセルさせ、貸切にさせることができたのは、伊集院という家の持つ力だ。『アイツ』の家など、その足元にも及ばない。
浮かれる伊集院の中では、二時間三十分という決して短くない時間があっという間に過ぎていく。
六時五分前に、弥生がレストランの入り口に姿を現した。
これもやはり、弥生が伊集院に気がある証拠だ。今まで付き合った女性は、皆、約束の時間に来たためしがなかった。指示された時間よりも早く来たということは、弥生は、よほど彼に会いたかったのに違いない。
「こんばんは」
伊集院の姿を認めて、弥生がペコリと頭を下げる。
彼女は淡いピンクのワンピースを身に着けていた。こう見ると、確かに『美人』ではないが、そこそこ『可愛らしい』。
「やあ、こんばんは。待っていたよ。さあ、掛けて」
彼女の背中に手を添え、一番見晴らしのいい窓際の席へと案内する――手が触れた途端に少し身を引かれたのは、気のせいだろう。
「あ……ありがとうございます」
伊集院が椅子を引いてやると、彼女は意外に慣れた様子で腰を下ろした。
「さあ、メニューは俺が決めてもいいかな?」
「はい、お願いします」
この時、弥生が「メニューなど何でも構わない」と思っていたことなど、伊集院は知らない。彼は全てを自分の都合の良いように解釈していた。
あまり会話なく食事は進んでいく。伊集院の甘い言葉にも、彼女は「そうですか」「ありがとうございます」など、簡潔な返事をするだけだ。
――どうにも勝手が違う。
普段は、相手の方がうるさいほどに喋るから、伊集院は適当に相槌を打つだけでいい。その立場が逆転していた。
ということは、今、弥生は彼のことを「うっとうしい」と思っているのだろうか。
イヤイヤそんなことはない筈だ、と己を鼓舞して、伊集院はいっそう艶やかな微笑を弥生に投げかける。だが、彼のとっておきの笑顔に対しても、彼女は期待したような反応を示しはしなかった。
そこはかとなくイヤな予感を覚えながらも、どうにか食事を終える。
「これ、何ですか?」
食後に運ばれてきたキレイなピンクの飲み物に、弥生が首を傾げた。
「ジュースみたいなものだよ。美味しいから、飲んでみて」
実際はそこそこの度数のカクテルだ。ほろ酔い気分にさせれば、緊張も軽くなって口説きやすくなるだろうという算段だった。
彼女は恐る恐る、舐めるように口にすると、フワッと口元をほころばせた。
「おいしい」
初めて見せたその笑顔に、伊集院の胸が一瞬どきりと高鳴った。
――笑顔はイイよな、この子……。
それは確かに実感した。その笑顔のためなら労力を惜しまない、という男は意外に多いかもしれないと、伊集院は思った。
数口飲んだだけで弥生の丸い頬はほんのりと紅く染まっている。
見るからに柔らかそうなそれに触れてみたらどんな感じがするのだろうという考えが、ぼんやりと伊集院の頭の中をよぎった。
一瞬手を伸ばしかけて、彼はハタと我に返る。
彼女から外した目を窓の外へと向けると、空は綺麗な群青色に染まり始めていた。
――そろそろ、頃合いだ。
伊集院はテーブルをぐるりと回ると、弥生の手を取り、そっと立ち上がらせた。
その手を彼女はキョトンと見つめ、そのままマジマジと伊集院の顔を見つめる。
――ここは、うっとりと見るところだろう?
やはり、何かがおかしい……おかしいが、このまま勢いで乗り切るしかない。
伊集院は覚悟を決めて、手に力を込める。
「俺の気持ちは解っているんだろう?」
「……きもち?」
ぼんやりと、彼女が問い返す。その頬はほんのりと桃色に染まっている。
「そう。君のコトが好きなんだ。俺と付き合って欲しい」
「……すき?」
「ああ」
伊集院の言葉に、弥生の顔は喜びに輝――かなかった。代わりに、怪訝そうに眉根を寄せている。
「弥生ちゃん?」
「いじゅういんさん、それは、なにかのまちがいか、かんちがい、れす」
何やら弥生の舌使いが怪しくなっている。
そんなに飲ませてしまっただろうかと彼女の手の中のグラスに目をやったが、その中身は半分以上残っていた。
フラフラし始めた弥生の肩を、伊集院は慌てて支える。
「間違いでも勘違いでもない。俺は本気だよ?」
ジッと見つめてそう言うと、同じように彼女は真っ直ぐに彼を見返してきて、やがてふるふると首を振った。
「いいえ。いじゅういんさんのめは、かずきくんとちがいます」
「『アイツ』――新藤一輝と? どう違うって言うんだ?」
問いかける声は、尖ったものになってしまった。だが、そんな険しい伊集院の口調には全く気付いていないかのように、弥生はふにゃりとこの上なく幸せそうに笑う。
「かずきくんは、わたしのことを、すっごくやさしいめで、みてくれるんれすぅ」
「優しい?」
「はいぃ」
あの、いつも冷ややかな眼差しで周囲を睥睨している新藤一輝の『優しい目』など、想像もつかない。やはり、それほど大事にしている女なのか。
「俺も、あなたのことを愛してるよ。アイツよりも……」
「かずきくんより、なんて、そんなの、むりれすよぉ」
即刻却下、だった。
こうなれば、言葉より行動だ。
伊集院はガバと弥生を抱き締めると、その瞳を覗き込みつつ、ゆっくりと顔を寄せる。
が。
グイ、グイグイ、と、伊集院の顔が押しやられる。彼の顎にある弥生の手は、酔っ払いとは思えない力がこもっていた。
「だめれすよぉ。わたしにキスするのは、かずきくんだけれすぅ」
いかにも押しに弱そうな彼女からの意外な抵抗に、伊集院の頭にはカッと血が上る。
「なんで、そんなにアイツがいいんだ? あんなの、ガキがやってるのが珍しいだけだろ? たいして実力もないくせに、どいつもこいつも、ちやほやしやがって。ただの客寄せパンダなんだよ――ッ!」
ペチン、という間の抜けた音が、人気の少ないフロアに響き渡る。
初め、伊集院は何が起きたのか判らなかった。
やがてジワジワ頭に浸透していく。
小さな手のひらが繰り出した平手では、痛みなど、殆どない。しかし、誰かに頬を張られたことなど今まで経験したことがない彼には、その行為自体が衝撃だった。
言葉もなく呆然としている伊集院の腕を振り払いながら、弥生がキッと彼を見上げる。
「かずきくんは、がんばったんだから! いじゅういんさんよりずっとちいさかったときから、ずっと、がんばってきたんだから! いまも、がんばってるんだからね!」
フラフラと千鳥足もいいところの弥生に思わず伸ばした手は、にべもなく振り払われた。
「だれもあまやかしてあげないから、わたしがあまやかしてあげるの!」
舌足らずな口調なのに、妙に迫力があった。
よろめく彼女に手を差し出したまま、彼は固まる。
小柄な弥生から睨め上げられて何も言い返せずにいる伊集院の耳に、不意に低い忍び笑いが響いてきた。
この場にいるのは、伊集院と弥生の二人だけの筈である。いったい誰が――と見回した彼の視界に、一番見たくない人物が飛び込んできた。
「新藤、一輝……何故、ここに?」
呻くようにその名を呟く。
その男は、レストランの入り口に身を持たせかけ、口元を押さえて笑いを堪えていた。
「ああ、あなたが何やら動いていると聞きましたのでね、少し見張りを付けせていただきました。ここには少し前に着きまして。失礼しました。我慢しなければ、と思ったのですが……」
そう言いながらも、クックとその喉の奥から漏れてくるものが、いやでも伊集院の耳に届いてくる。
バカにしているのかと一輝を睨み付けたが、彼の目は笑いとは正反対の色を浮かべていた。いつもの、穏やかかつ冷淡なものとも違っている。
その視線を真っ直ぐに向けられた伊集院の背を、ブルリと悪寒が駆け上がっていった。
と。
そんな伊集院の胸中をよそに、能天気な声が響く。
「あ、かずきくんだぁ!」
彼を押し退けるようにしてどかした弥生は子どものように両手を前に突き出して、ふらつきながら彼のもとに走って行く。
人を射殺すことができるのではないかと思われた一輝の眼差しが、弥生に向いた途端に一変した。
――これが、新藤一輝か?
伊集院には、先ほどの冷笑を浮かべていた男と、今恋人を見つめて微笑んでいる男が同一人物だとは信じられなかった。
「弥生さん」
一輝は、伊集院が今まで聞いたことのない甘やかな声で彼女の名前を呼び、つまづきかけたところを受け止め、そのまま抱き上げる。
「お酒を飲まれましたね? 大丈夫ですか?」
「だぁいじょうぶ。なんだかフワフワして、きもちいいよぉ」
「それは、酔っているんです」
「うふふ、かずきくん、だぁいすきぃ」
首にしがみつく支離滅裂な弥生に、一輝はこの上なく満足そうだ。まるでかけがえのない宝物でもあるかのように、彼女を抱き締めている。
――結局、俺のしたことはむしろヤツを喜ばせただけだったのか?
まるっきり蚊帳の外に置かれた伊集院には、そんな気がしてならない。そうなると、腹立たしさだけが湧き上がってくる。
「なんなんだよ、お前たちは。ガキにはガキがお似合いだよな。ああ、ガキのお前には、色気のないその女で充分だ」
伊集院が嘲るようにそう言った、その時だった。
一輝に抱きついていた弥生がパッと振り向くと、噛み付くように言い放つ。
「かずきくんはガキなんかじゃないんだから! あなたなんかより、ずっとえらいのよ! とってもおとこらしいんだから!」
そう言うと。
一輝の顔を両手で挟み、自分の唇を彼のそれに押し付けた。
色気など微塵も感じさせない、キス。
実は弥生から一輝への初めてのキスなのだが、伊集院はそれを知る由もない。ただその迫力に、呆気に取られるばかりだった。
どれほどそうしていただろう。
プハッと音がせんばかりに顔を離すと、再び弥生が伊集院に振り返り、ビシッと人差指を向ける。
「いい? わたしがキスするのは、かずきくんだけなんだからね! かずきくんはせかいでいちばん、かっこいいのよ!」
惚気るだけ惚気ると――彼女はくたりと一輝の肩にしなだれかかった。伊集院に、何か応えさせる暇もなく。
一輝が弥生の身体を抱え直し、一瞬優しい眼差しを落とした後、いつもの視線を伊集院に向ける――いや、いつも以上の鋭さだ。
「今回は僕もいい思いをさせていただきましたので、貴方のことは不問に付しておきましょう。ですが……今度彼女に不快な思いをさせたなら、僕も手を打ちます。格下の企業だから、と油断しない方がいいですよ?」
そう言って、彼がニッコリと微笑む。伊集院は、人の笑顔をこれほど恐ろしいと感じたことは今までなかった。その鬼気迫る笑みに向けて、コクコクと頷く。
「よろしい。では、また、どこかでお会いしましょう」
そうして、新藤一輝は弥生と共に去って行く。
残された伊集院は、この二人には二度と関わるものかと、心の中で誓った。