五
一輝は、目の前に置かれた『おやつ』をじっと見つめた。
硝子の器に、オレンジ色のプルプルしたもの。少しだけホイップクリームが絞られている。
――かぼちゃのプリンである。
一輝も、幼少期は毎日おやつを出されていた。小さい子どもには必要な栄養だからだ。
きっちり十時と十五時にでてくる間食、すなわち、『おやつ』なのだろう。
けれど、もっと、なんというか、『実際的』だった。
こんなに糖分の多いものではなく、カルシウム強化とか、ビタミン補充とか。
あくまでも三度の食事で足りないものを補う、という意味合いで、楽しみにしていた記憶はない。
一方、弥生が持ってきてくれるものは、はっきり言って、栄養バランス的には必要がないものだ。自宅の管理栄養士はキッチリ彼の食生活をコントロールしていて、朝昼晩の食事で完璧な栄養を摂取することができる。
だから、理屈から言えば、彼女の『おやつ』は一輝には『必要がない』のだ。
けれど、弥生が顔を出すようになってからというもの、一輝は夕方になるのが待ち遠しくてならない。
ごくたまに彼女が来られないような日があったりすると、何故かとても気分が沈む。
そう言えば、甘い物を摂るとストレスが軽減するとか、聞いたことがあったかもしれない。
けっして、彼女に逢えるから、というわけではなく。
弥生は家のこともしているから、ここにいられる時間は、三十分もない。菓子と茶を用意すると、帰ってしまう。
その三十分の間、彼女は、一輝がほとんど相槌も打とうとしないのに一人で取り留めもなくしゃべり、そしてひっきりなしに彼に笑顔を向けてくる。
そんな弥生に対して素っ気ない態度を取るのに、一輝は全力を注がなければならなかった。
間違っても、花が開くような彼女の笑顔にぼんやりと見惚れてしまったりしてはいけない。
内容そっちのけで、小鳥がさえずるような楽しげな彼女のお喋りに聴き入ってしまったりしてはいけない。
一輝はそう自分を律しながら、黙々と彼女が作ってくれた『おやつ』を口に運ぶのだ。
「さあ、どうぞ」
ニッコリと笑ってハーブティーを置いてくれた弥生は、今日も可愛らしい。
「ありがとうございます」
満面の笑みの彼女にボソリと答えて、一輝はスプーンを取った。
ひと匙すくって、口に入れる。
美味い。
美味いが――
「何故、これを……」
一輝は思わずそう呟いてしまう。
弥生が毎日作ってくる『おやつ』は、その選択が謎だ。
手作りできる菓子にこれほどの種類があったのか、と感心するほどに彼女は毎日様々なものを持ってくるのだが、一回だけしか出てこなかったものもあれば、何度も繰り返し出てくるものもある――その一つがこのかぼちゃプリンだ。
そして、何故判るのかが解らないのだが、繰り返し出てくるものは全て、一輝が特に美味しいと思ったものばかりだった。
弥生が出してくれるものに対しては、いつも同じ調子で「美味しい」と返しているつもりだ。その中で一輝が好んでいるものかどうかをどうやって区別しているのだろうか。
一輝の疑問に対して、弥生はケロリと答える。
「だって、一輝君、それ好きでしょう?」
だから、何故、そう思ったかを知りたいというのに。
渋い顔をする一輝に、弥生がニッコリと笑う。
「あはは。面白い顔してる。あのね、一輝君がどれを好きかなんて、顔を見てたら判るんだよ」
「顔?」
「うん」
今まで、仕事で他人に表情を読み取らせたことなどない。そんなことを許していたら、勝てる商談も勝てなくなる。
――なのに、何故、彼女にはそれが可能なのだろう?
「もう、ほら、難しいことは考えないでよ。今はおやつの時間なんだから。甘いものを食べると、頭がリラックスするんだよ?」
促され、一輝はスプーンを口に運ぶ。やはり、美味しい。
表情を動かさないように意識して、黙々と食べる。
その様子を、弥生はニコニコしながら見守っていた。
気まずいのに、どこかくすぐったい。
弥生がこの執務室に通うようになって、一ヶ月が過ぎた。彼女は、ただ菓子と茶を用意し、むっつりと黙ったままの一輝に対して他愛ない話をし、三十分で帰っていく。
――良くも悪くもそれだけだ。
菓子が不味かったり、一輝に対して踏み込んでこようとしたりすることがあれば、それを理由に『来るな』と言えた筈だった。だが、菓子は素朴ながらも美味く、弥生のお喋りは正直言って、心地良い。
結果として、切る理由が見つけられずに一ヶ月が経ってしまった状態だ。
いつかは、『もう来なくていい』と言わなければならない。けれども、それは、今でなくてもいい筈だ――もう少し、先でも。
黙々とプリンを口に運ぶ一輝を、弥生が首を傾げて見つめる。そして、ふと思いついたように、彼女はぱっと顔を輝かせた。
「そうだ、一輝君って、この間誕生日だったんでしょう?」
「え、ああ、はい」
『この間』と言っていいものかどうかは判らないが、十二歳になって、一月程度が過ぎたくらいだ。
唐突な話題転換に、一輝は身構え損ねる。いつもであれば、会話の主導権を握るのは一輝であり、常に相手の言葉を予測して返事をしていく。想定外の話題になることは殆どない。だが、弥生の話はしばしば予測不能である。
「じゃあさ、今度お祝いしよう。『はじめまして』のお祝いも兼ねて。何か欲しいものあるかな?」
なったばかりとは言え、すでに誕生日は一ヶ月も前のことだ。こんなに遅れて誕生日など、聞いたことがない。無難なものを適当に答えれば良かったのだが、咄嗟のことで、何も思い浮かばなかった。
「僕は……大抵の物は手に入れていますから……」
――だから、欲しい物など何もない。
そう言ったつもりだった。
だが、弥生は、一輝が今まで目にしたことのないような色を浮かべた眼差しを、彼に向けた。
それは何を含んだものなのだろう。
近いものを知っているような気がしたが、結局一輝には判らない。
その色は一瞬で消え、弥生はいつもの笑みを浮かべる。
「でもさ、一輝君。君は、ほとんどの十二歳の男の子が持っているようなものは、何ももらえてない気がするな」
「え?」
どういうことなのだろうか。
莫大な富も、優れた教育も、多くの者からの敬意も、手にしている。これ以上に何を望めと言うのか。
本気で考え込む一輝の頭を、背伸びした弥生が撫でる。
「いいよ。ゆっくり考えて」
彼女に触れられるのは、嬉しい。だが、この撫でられ方は不本意だった。
とは言え、ではどうして欲しいのか、と問われても、答えられない。
こんなふうに、矛盾した考えが同時に彼を襲うようになったのも、弥生と出会ってからだ。以前はあんなに全てが明瞭だったのに。
心持ち渋い顔をした一輝をどう受け取ったのか、弥生は小さく笑って立ち上がる。
「じゃあ、わたし帰るからね。また明日」
丁度帰宅の時間になって、橘が車の用意ができていることを伝えにきた。いつもと同じように、弥生はバイバイ、と手を振って帰っていく。
彼女がいなくなると、途端に静寂が執務室に落ちた。それが当たり前の状態の筈なのに、妙に物足りない感じがするのは何故なのだろう。まるで、彼女と一緒に、一輝の中の何かも持っていかれてしまったようだ。
一輝は頭を一つ振って、書類に目を向ける。仕事のことであれば理解できないことなどなく、安心していられた。殆どの場合、一輝の予測どおりの結果になり、多少の狂いも容易に修正が可能だ。
弥生とたった三十分を過ごすのよりも、遥かに簡単なことだった。
やがて、ほぼいつもどおりの時間で橘が戻ってくる。
「ただいま戻りました」
「ああ。……? 何だか楽しそうだな、橘」
「ええ。弥生様がですね、今度の日曜日に公園へ行かないか、とおっしゃってくださいまして。紅葉が綺麗らしいのですよ」
「――お前と、か?」
「いいえ、一輝様と」
「……」
たった三十分でさえまともに彼女の相手をできないというのに、半日一緒に過ごせと言うのか。
ねめつける一輝を全く意に介さず、橘が嬉々として続ける。
「弥生様が、一輝様は休むことがないのかと訊いてこられたので、月に一度、最終の日曜日にお休みされ、ご自宅で読書などをされますよとお伝えしたのです。そうしたら、少しは外に出ないとダメだ、と仰られまして」
「橘!」
「おや、ご都合が? ご予定は何もなかったので、是非、と答えてしまったのですが……。たいそう張り切っておられたので、お断りの連絡を入れたら、殘念がられるでしょうねぇ。私の口からは、何とも……」
機先を制してそう言われ、一輝は『今すぐ断れ』の言葉を飲み込まざるを得なくなる。
忠実だった筈のこの男は、いったい、自分をどうしたいのか。
一輝はどんどん泥沼に沈み込んでいく気分だった。
押し黙る一輝に、橘が苦笑する。
「坊ちゃま……」
「その呼び方は止めろ」
「一輝様。たまには欲しいものを欲しいと口に出さないと、生きていかれませんよ?」
どういう意味なのか。
およそ考えうる限り、全ての物を手にしている自分に、この上欲しい物などある筈がない。
怪訝な顔をする一輝に、橘はどこか悲しそうな笑みを浮かべた。
「ご自分が何を欲しがっているのか、いずれ、ちゃんと解る時が来ますよ」
それだけ言うと、橘は今晩の予定を読み上げ始めた。