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移動は、橘が手配した車で行なった。
運転手を除いて、車内にいるのは、一輝、弥生、橘、それに弥生の二人の弟、睦月に葉月だ。
用意したのはワゴン車で、最後尾はベンチシートになっている。
一輝と弥生はそこに並んで乗車――ならばいいのだが、二人の間にちょこんと居座っているのは葉月であった。
八歳になって反抗期を迎えていてもいい筈のその少年は、未だに弥生べったりの甘えん坊である。
目が合うといつでもニコリと無邪気に笑いかけてくれるのだが、最近、一輝が大石宅を訪問すると、妙に視線を感じる。
至って可愛らしい少年にも拘らず、睦月よりも厄介な存在なような気がするのは、気のせいだろうか。
今も弥生の腕にしがみついて、葉月が朗らかな声を上げている。
「ぼく、おんせんってはじめてだよね?」
「あ、そうだね。嬉しい?」
「うん。すっごくひろいおフロなんでしょ?」
「うちのお風呂が五個は入るかもね。一輝君が連れてきてくれたんだよ?」
「ありがとう、かずきお兄ちゃん」
そう言って向けてくる、満面の笑顔。
「どういたしまして」
「またつれてきてね。おねえちゃんといっしょに」
――これは、「二人きりにはさせないぞ」という意味か?
八歳の子ども相手に深読みするものでもないだろうが、彼に笑みを返したものの、何となく言葉通りには受け取れない一輝だった。
二人の遣り取りを、弥生はニコニコと見守っている。
そんな一部妙な緊張を漂わせている空気をよそに、前の方から能天気な声があがる。
「すげぇな。こういうのにも七人乗りなんかあるんだな」
声の主は睦月だ。彼は助手席に陣取っている。
――弥生さんと二人きりというのは、多分新婚旅行までお預けになるのだろうな。
小さくため息をつくと、すぐ前の席に座っていた橘が振り返る。
「残念でしたねぇ、一輝様」
頬杖をついて窓の外に目をやった一輝に、橘が温い微笑を浮かべながらそう言った。
「うるさい」
ボソリと返した一輝に、橘はくすくすと笑みを漏らす。全てを見通しているかのような橘の態度には腹が立つが、何か言えば余計に彼を笑わせることになるのが目に見えていた。
一輝とて、弥生と二人きりで泊りがけの旅行ができるなど思ってはいなかった。むしろ、そうなる方が驚きだ。
一輝の心中を読むことに長けた橘は引き際をわきまえている。
「もうじきですねぇ」
澄ました声で、通り過ぎていった道路標識を見送りながら言った。
「そろそろ着きますからね」
橘が、皆に向かってそう声をかける。
その宣言どおり、程なくして閑静な佇まいの旅館が木々の間に見えてきた。
滞在先の温泉は、有名ではないが、知る人ぞ知る名湯である。橘が予約したのは、二、三家族が泊まれば満室になってしまうような、小さな宿だった。今日は彼らだけの貸切になっている。
車を降りた一行は、一輝、大石家三人、橘と運転手の三手に別れて部屋に向かう。
部屋に落ち着いた一輝の部屋に、じきに橘が訪れた。
「何かお困りのことはございませんか?」
「大丈夫だ。弥生さんたちはどうだ?」
「この後、伺おうかと」
「そうか」
一輝は部屋を見回し、特にすることもないことを確認する。
「僕も行こう」
そう言って、先に立って歩き出した。
大石家が泊まる部屋の前まで来ると、中から楽しそうな声が聞こえてくる。
「わあ、スゴォイ。お姉ちゃん、見て見て! このお部屋、お風呂付いてる!」
「葉月、ほら、早く片付けて。お散歩行けなくなっちゃうよ」
大石家はあまりこういった旅行に出かけることがないらしく、葉月は大はしゃぎのようだ。普段の弥生の生活を彷彿させる。
ポスポスと襖をノックし、一輝は一声かけた。
「弥生さん? 片付きますか?」
「あ、一輝君」
振り返った弥生が、彼を認めてパッと笑顔になる。
彼女は睦月や葉月にももちろんよく笑いかけるが、一輝に見せるものは、何かが違っているような気がする。
それを向けられる度、一輝の胸の中は温かかな綿が降り積もっていくような心持ちになった。
今この場に彼と弥生しかいなければ、すぐさま抱き寄せるのだが。
そんな想いを胸に押し込め、一輝は微笑む。
「片付きそうなら、少し外を散策しませんか? 少し寒いですが、夕食前にいかがでしょう」
途端に、部屋の中を探検していた葉月が弥生の腰にしがみついた。
「おねえちゃん、ぼくも行きたいなぁ」
弥生の弟二人はそれぞれ対照的で、上の睦月がどっしりとした大型犬だとすれば、下の葉月は甘えん坊の猫だ。
姉に抱きつき甘えた声を出しながら、少年の眼差しは一輝にジッと注がれている。
――この場で同じようにはできない一輝に見せつけようとしているわけではない筈だ。
きっと。
「まずは、片付けてからね」
弟と一輝の間に微かに散る火花に全く気付かず、弥生は柔らかく笑いかけながら弟を諭す。長年親代わりをしてきた姉が、躾に関しては決して引くことはないのが判っているのか、葉月は大人しく彼女から離れると放り出したものを拾い集め始める。
「いいお宿だね」
葉月が素直に片付けるのを見守りながら、弥生が一輝に笑いかけた。
「橘が手配してくれたんですよ。お気に召していただけたなら、よかったです」
そうやって、二人で目を合わせて微笑みあう。
「ちょっと、お二人さん。ここ、他のモンもいるってのを忘れないでくれよな」
と、それまで黙って座椅子に寄りかかっていた睦月が、初めて声を出した。
冷やかす弟に、心持ち顔を赤らめながら弥生は目を逸らしてしまう。このもう一人の弟は、葉月のように露骨な妨害はしてこないのだが、一輝と弥生の雰囲気を見透かして、いいタイミングで水を差してくる。
せっかくの旅行ではあるが、家族連れでは仕方がない。胸中で舌打ちしつつも、一輝は睦月に笑いかけた。
「悪いな、つい二人きりのつもりになってしまって」
そう、暗に二人だけの時の状態を示唆する一輝に、弥生の頬は更に染まる。当てられた睦月は肩を竦めて横を向いた。
だが、上の弟とのけりをつけたかと思えば、もう一方が勢力を増すのだ。
「おねえちゃん、片付けたよ!」
褒めて褒めてとばかりに声を上げ、再び葉月が弥生にしがみつく。
「はい、よくできました」
頭を撫でられて、まるで喉を鳴らす猫のように葉月は目を細めていた。弥生も、年の離れた弟が可愛くて仕方がないようだ。
もう、意識の全ては葉月に向けられている。
「じゃあ、お散歩に行こうか」
そう言って、弥生は葉月に上着を着せ掛けた。
*
旅館の周囲はちょっとした小道になっていて、宿の規模に比して広めな庭が綺麗に整えられていた。薄積りの雪が、そこに風情のある彩を与えている。
弥生は左腕に葉月を、右側に睦月を連れて、一輝の前を歩いていた。
「いいんですか?」
「何がだ」
「何がって、一輝様……」
平然と返す一輝に、橘が口ごもった。
「別に、彼女は楽しそうなんだから、いいじゃないか。普段家のことばかりで、のんびりする暇がない人なんだ」
負け惜しみではなく、楽しそうに寛いでいる弥生を見ているだけで、一輝は、六割方は満足だ。確かに、残りの四割は独り占めしたいという気持ちであることは、否定できないが。
「そうですか? ……せっかくの温泉なのに……」
もったいない、と言わんばかりの橘だ。だが、一輝は、秘書には取り合わずに三人の後をゆっくりと歩く。
不意に、クルリと弥生が振り返った。
陰も屈託も裏もない、綺麗な笑顔がそこにある。
普段、おもねる笑い顔ばかりに囲まれている一輝にとって、彼女が見せるものこそが『笑顔』だ。弥生だけが彼に与えられるものの、何と多いことか。
「綺麗だね、一輝君。雪なんてめったに見ないから、嬉しい。連れてきてくれて、ありがとうね」
「いいえ。僕も楽しいですよ」
笑いかけながらそう答えれば、彼女の笑みはいっそう深くなる。
むしろ、二人きりの旅行でなくて良かったのかもしれない。こんな弥生を見せられ続けていたら、一輝も自分の行動に自信が持てなかった。二人の弟は、いいストッパーになる。
この時期の日が沈むのは早く、空が赤くなったと思ったら、じきに暗くなり始めた。
のんびり庭を散策して冷えた身体を、一行は温泉で温めることにする。
葉月は弥生と入りたがったが、睦月が問答無用で引っ張っていった。
「では、また、夕飯の時に」
「うん、また後でね」
一輝は、ごくわずかな時間とは言え、本日初の二人きりをしみじみと味わう。もったいなくて、しばらくジッと見下ろしていると、弥生は少し身じろぎして目を逸らし、その頬をほんのりと染めた。触れてしまいたいのはやまやまだが、堪えられなくなりそうなので止めておく。
「では」
短くそう残して、一輝は立ち去ろうとする。が。
「あ……」
小さな弥生の声が、彼を引き止めた。
「何か?」
振り返って、首をかしげる。
――部屋に何か不備でもあったのだろうか。
だが、当の弥生は、口を『あ』のカタチのままにして、目を丸くしている。まるで、彼女自身、何故声をあげたのかが判っていないかのようだった。
「弥生さん?」
名前を呼ぶと、彼女は目をパチリと瞬かせる。そして、『ほんのり』赤かった頬を、更に染めていく。
――ああ、もう、反則だろう、これは。
そんな一輝の心中も知らず。
「な、何でもないよ。じゃあね」
弥生は、慌てたように身を翻して立ち去ろうとする。そんな彼女の手首を捕らえ、一輝は引き寄せた。
「何を、言おうとしたんですか?」
心持ち身を屈めて、彼女の耳元にそう囁く。その耳朶は真っ赤だ。
「何でもないよ、ホントに」
もう一度繰り返す彼女の鼓動は、まるで仔猫のように早い。
「まったく……せっかく、人が我慢していると言うのに……」
そう呟きながら、弥生の頬に手を添え、顔を上げさせる。
「一輝、くん……」
「目を、閉じてください」
一輝の言葉に彼女は目を見開き、数回瞬きをし、そして、目蓋を下ろした。
無防備な弥生の顔を少し見つめた後、彼はゆっくりと頭を下げる。
小さく柔らかな彼女の唇に、一輝のそれが触れ――ようとした、その時。
ドン、と軽い衝撃が二人を襲う。
「キャッ!?」
小さな声をあげて弥生が自分の背後を見下ろし、一輝の視線もそれを追った。
そこにあったのは――。
「葉月!?」
可愛らしい弥生の弟が、彼女の腰に抱きついて、無邪気な顔で見上げていた。
「おねえちゃん、ぼく……やっぱり、おねえちゃんといっしょがいいなぁ」
甘えた声をあげる弟に弥生が呆れたように微笑んで、その頭を撫でた。当然、もう、一輝の腕の中にはいない。彼女は弟に視線を合わせて、言い含めている。
「葉月ももう八歳なんだから、一人でお風呂に入れなきゃ。それに、今日はお家のお風呂じゃないんだからね」
「はぁい」
イヤに素直な葉月だった。きっと、戻ってきたのは他の理由からなのだろう。案の定、弥生の頭の中は、すっかり『母親モード』に切り替わっているようだった。
「あ、じゃあね、一輝君」
ニッコリ笑って葉月と去っていく弥生を見送って。
一輝は小さくため息をついた。