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ちょっと雰囲気を変えて、ラブコメ風味で。
その日、突然、弥生は一智に呼ばれた。
大学帰りのことである。校門を出た彼女にスッと寄ってきた車から、生真面目そうな初老の男性が降りてきたのだ。その人はきれいに四十五度腰を曲げ、顔を上げると、真っ直ぐに彼女を見つめながら弥生の名前を呼んだ。
「大石弥生様ですね? 私は新藤一智の秘書、水谷と申します。先日の件に関しまして、主人が是非とも貴女にお会いして謝罪させていただきたいと申しております。申し訳ありませんが、ご足労いただけませんでしょうか」
「一輝君のおじいちゃんが……?」
呟いた彼女に、水谷が頷く。
「はい。一智様はいたく反省しておりまして、すっかり消沈していらっしゃいます」
「そんな」
確かに一智のしたことで弥生はずいぶんと怖い目に遭わされたけれど、結局、あのことがあったから一輝と想いを通じ合わせることができたのだ。
「あれ以来、一輝様は一智様に口をきこうとされなくて、いっそう一智様は沈んでおられるのです」
「一輝君が?」
「はい……」
一輝からは、もしも祖父が甘い顔を見せて来ても絶対に信じるなと言われているけれど、弥生は落ち込んでいるという一智のことが気の毒になってくる。
だがしかし、この状況でお願いされて、断ることができる弥生ではない。
「わかりました。お伺いします」
――頷いた瞬間、きらりと水谷の目が光ったのは、気のせいだろうか?
小さな疑念が弥生の頭をよぎったけれど、それがはっきりとしたものになる前に、丁重かつ強引に、彼女は車の中に入れられてしまった。
――この車に乗っちゃっても、よかったのかな……。
高級そうなシートに身を沈め、ほとんどエンジンの音を立てずに車が走り出したのを腿の下に感じてからそう思っても、後の祭りだった。
このことが一輝に知られたら、無防備に知らない人の車に乗るなんて、と叱られるかもしれない。
走っている車から飛び降りるわけにもいかず、弥生はそわそわしながら早く目的地に着いて車が停まってくれることを祈った。
やがて、車は以前に見た事のある塀沿いに走り始め、目的地が近いことを知った弥生は小さく息をつく。
「……別に、取って食われたりは、しませんよ?」
その言葉は隣に座る水谷からのものだったが、口元を緩めることすらなく発せられたので、冗談なのか、真面目なのか、弥生には判断できなった。
「え……あ、はい……」
何となく、曖昧な返事をして、弥生は手元に視線を落とす。
車が門に入り、弥生は玄関で降ろされた。
「こちらへどうぞ」
水谷について、純和風の屋敷の長い廊下を歩く。通されたのは、前と同じ、広い和室であった。
「では、主人が参るまで、少々お待ちください」
水谷はそう残して部屋を出て行った。
ポツンと独り残され、弥生は一智のことを思い出していた。容姿は一輝によく似ていた。けれども、その時に彼から言われた内容の所為もあるのだろうが、怖い人だった、という記憶しかない。その印象が強すぎて、つい、ビクビクしてしまう。
――帰りたい……。
弥生がそう思ったときだった。
襖がスッと開かれ、和服を着た長身の男性が入ってくる。弥生の記憶が正しければ、彼が一智だった。
一智の視線が、弥生に向けられる。一瞬にして、蛇に睨まれた蛙のように、彼女の全身がピシリと固まった。
「あ……の、……こんにちは」
弥生は、何とかそれだけ口にする。
だが、そんな彼女に、正座になった一智が深々と頭を下げたのだ。
「え……?」
呆気に取られる弥生の前で、一智が身体は伏せたまま、顔だけを上げて彼女を真っ直ぐに見る。
「すまなかった」
「え、え……?」
何のことだか、弥生にはさっぱり解らない。
「この間は、きついことを言ってしまった。きっと、辛い思いをしたのだろう? しかし、それも全て、孫可愛さのため。この愚かなじじいを許してもらえないだろうか?」
苦渋に満ちた声。
弥生の中からは恐れも吹き飛び、彼女は大きくかぶりを振る。
「やめてください、そんな……だって、おじい様は一輝君のおじい様なんですから、ああおっしゃったのも当然です。わたし、もう気にしてませんから」
腰を浮かせて言い募る弥生に、一智がにじり寄った。
「そうか! おお、何と優しい……。一輝には過ぎた嫁だな。弥生さんに出会えたあの子は、幸せ者だよ!」
一部とんでもない単語が入っていたが、半ばパニックになっている弥生は気付かない。
「いえ、わたしの方こそ、一輝君に出会えて、とっても良かったです」
「そうか、そうか! これからも、愚孫をよろしく頼むぞ?」
「はい、こちらこそ」
はっきり言って、半分くらいは流れで受け答えしている弥生である。そんな彼女が冷静に考える余裕を取り戻す前に、一智が更に畳み掛けた。
「それでだな、今日、ここに来てもらったのは、あなたに謝る他に、一つ頼みごとをしたかったからなんだ」
「頼みごと、ですか……?」
一智にできなくて自分にできることがあるとは思えず、弥生が首をかしげる。
彼は姿勢を正して座り直すと、おもむろに切り出した。
「うちの孫――一輝は、まだ小さかった頃から働き詰めなことは知っているだろう?」
「あ……はい」
一智の言葉通り、一輝は本来ならまだ高校生で楽しく遊び暮らしているような年頃だというのに、殆ど休む間も無く総帥の職務をこなしているのだ。本人はさして苦もなくその生活に馴染んでいるようだけれど、弥生としては、もっと休ませてあげたいな、というのが本音だ。
「孫はな、休みをやろうとしても、いらんと言うのだ」
「そうですか……」
祖父である一智が言っても聞かないなら、弥生などが何を言ってもダメだろう。肩を落とす弥生をよそに、一智が続ける。
「それでだな、弥生さん、あいつと一緒に旅行にでも行ってきてくれないか?」
「は……ええ!?」
「あいつには、俺から休みをやるから、弥生さんから誘ってやってくれ」
「無理です、絶対、頷いてなんてくれません」
両手と首を振って拒否する弥生に、一智が力強く頷いてみせる。
「いいや、あなたから誘えば、絶対に堕ちる! ちょっと、こう、下から見上げるようにして『お願い』とでも言えば、一発だ。俺が保証する」
そんなことで一輝が首を縦に振るとは、到底思えない。承諾しかねている彼女に、一智は更に詰め寄った。
「あいつを休ませてやりたいと、思うだろう? まだ子どもなのに、何の潤いもない中年のおっさんみたいな生活は憐れだと、思わないか?」
――あれ?
弥生は、そこはかとなく違和感を覚える。一智の印象が、何だか……。
だが、その疑問はチラリとよぎっただけで一瞬にして消えていき、更に深める余裕は、その時の彼女にはなかった。
「あいつに、十六歳男児らしい楽しみを与えてやりたいとは思わんか!?」
「う……思い、ます……」
「だったら、頼む。試してみるだけでもいい。あなたから言っても聞かなかったら、俺も諦める」
キラリと切れ長の眦に光ったのは、涙だろうか?
弥生はこれほど必死に孫のことを想っている一智に、ほだされる。
「わかり、ました。一輝君がウンと言ってくれるかどうかわかりませんけど、やってみます」
「そうか! やってくれるか! よし、さっき言ったように、ジッと見つめて『お願い』だぞ? それなら、絶対、イケる」
「は……はい……」
目をらんらんと光らせて迫る一智に気圧されて、弥生は頷く。
と、廊下を荒い足音が近付いてきた。
「おお、着いたようだ。弥生さん、先ほどの件、頼んだぞ?」
そう言って、一智は弥生にウィンクを投げてよこす。
――……ウィンク?
思わず弥生は、大きく瞬きをした。
だが、戸惑う弥生が気持ちを整理するより先に、足音は部屋の前に到着し、襖がスパンと開かれる。そこに立っていたのは、話題の人物、一輝である。彼はニッコリと弥生に笑いかけ、次いで全く異なる笑顔を祖父に向けた。
「おじい様、何をなさっておいでで?」
――一輝君、怒ってる……?
同じ笑顔の筈なのに、祖父に向けたものは、明らかに怖い。
だが、一智も一智で、慣れているのか、そんな一輝の眼差しにもニコニコと応えている。
「いや、何。この間は悪いことをしたからな、謝っていただけだ。なあ、弥生さん?」
「え、あ、えっと……はい」
どこからどう見ても何かありげな弥生の応答に、一輝の目が細くなった。
思わず彼女は視線を逸らして畳の筋など数えてしまう。
少しして、フッと息を吐くような音が聞こえた。
目を上げると、いつの間にか一輝はすぐ近くに来ていて、弥生は少しドギマギしてしまう。
一輝は好々爺の笑みを浮かべている一智を冷たく一瞥すると、微笑みながら弥生に手を差し出した。
「さあ、帰りましょう、弥生さん。お送りしますから」
殆ど反射的にその手を取ると、グイと引き上げられた。そのまま、スタスタと歩き出した一輝に、小走りでついていく。一智には、「さようなら」と一言残すのがやっとだった。
廊下を歩く間、彼は一言も口をきかない。
玄関前には一輝の車が停められており、開け放たれた後部座席のドアの横には、橘が佇んでいる。
「あ、橘さん、こんにち――」
――挨拶を最後まで言い切ることは叶わず、弥生は問答無用で車中へと押し込められた。