四
帰りの車の中で、弥生は隣に座る橘の様子が気になって仕方がなかった。
チラリと横目で彼を窺う。
――どう見ても喜んでる、よね。
けれど、何がそんなに嬉しいのか、弥生にはさっぱり見当がつかない。
うますぎる話が詐欺や危険な裏があるものではなく、本当に本社からの援助であったことに安堵した彼女は、橘に対して気安くなっていた。
ついに我慢できなくなって、尋ねてしまう。
「橘さん……何だか嬉しそうですね」
「お判りになりますか?」
ふふ、と小さく笑いながら橘が首をかしげて弥生を見つめ返してきた。
「ええ、まあ」
「うちのぼっちゃ……あ、いえ、一輝様はですね、いつでもどこでもどんな時でも、鉄壁のような方なんです。お母様は一輝様が生まれて間もなく亡くなられて……お父様はお忙しい方でしたからね。三歳までは乳母がお世話したことはお話しましたよね。それからは家庭教師たちに囲まれて過ごされて。大人びたと言いましょうか、子どもらしくないと言いましょうか……私も長年一輝様のお世話をさせていただいておりますが、お怒りになったり動揺されたりなさるところを見た事がありませんでした」
それが今日は……と、橘はもう一度思い出したように笑みを漏らして続ける。
「まあ、大きな声を出されたり、取り乱して言葉を失われたりと、色々な一輝様を見させていただいて……この橘、これ以上嬉しいことは、ついぞありませんでした」
「でも、それって、一輝君にとっては、あんまり嬉しいことじゃないないような……?」
「いいえぇ。確かに、大口を開けて笑うところなぞ拝見できたら更に嬉しいものではありますが、ね。取り敢えずは、いつもと違うところを見せていただけただけでいいのです。弥生さん、これからも色々な一輝様を見させてくださいね」
騒がしい弟たちにいつも手子摺らされている弥生からしたら、『怒ったところを見られて嬉しい』と言われてもピンと来ない。けれども、今橘から聞いた一輝の話が『普通』の子どもの状況ではないことは充分に理解できた。
ふと、弥生は先ほどの一輝との会話を思い出す。
普通は、『好きな物は?』って訊いたら、何か出てくるよね……
弥生には、あの時、そんな簡単な質問にも答えられないことに一輝自身も戸惑っているように見えた。そして、何故か、恥ずかしそうにも。
不意に、弥生の胸がチクリと疼いた。
何だか、何をなのかは自分でもよくわからないけれど、とにかく「やってやるぞ」という気分になる。
「わたしができることなんて、おやつを差し入れするくらいですけど……頑張ってお世話させていただきます」
心の中で握り拳を作って、弥生はそう宣言する。
そんな彼女に、橘はふと微笑んだ。
「よろしくお願いします」
そう言って、遥かに年下の子どもに深々と頭を下げる橘は、半端な実の親よりも余程『親』らしいと、弥生は思った。
それからは、橘の思い出話が続いた。
一輝が生まれたばかりの頃はどれほど愛らしかったか。
その姿を思い出しているのか、橘はうっとりと中空を見つめて目を細める。
「それはもう、まさに玉のようなお子様で」
言葉をしゃべるようになればその利発ぶりを周りに知らしめ、普通であればランドセルを背負い始める年には学校に行く代わりに先ほどの執務室で父親と椅子を並べていたという。
そう語る橘は、誇らしげでいて、同時にどこか寂しそうだった。
そういう一輝君が自慢だけど、もっと違う過ごし方をして欲しいっていうことかな。
弥生は橘に相槌を返しながら、そんなふうに思う。
だから、彼は弥生にこの役割を振ったのだろう、と。
新藤商事の本社から家まで、道が空いていれば車で三十分間ほどの距離だ。
弥生には家族の世話をするという役目はあるけれど、一輝のもとに通うのも、やってやれないことはない。父や弟たちには不自由な思いもさせてしまうかもしれないが、弥生は一輝から『来るな』と言われるまでは、続けるつもりだった。
借金を払ってもらったという恩義は確かにある。それ以外に、一輝自身のことが気になるから、という気持ちもあった。
やんちゃな弟二人を持つ身としては、怒ったことが喜ばれるような男の子の境遇は納得がいかない。ましてや、弟の一人と同じ年頃だなんて。
もっと色々な表情を見せて欲しいと思う橘の気持ちには、弥生も頷けた。
達郎には本当のことを話しておくとして、睦月たちにはバイトを始めることにした、とでも伝えておけばいいだろう。
「では、明日からは学校の方へ迎えに参ります」
大石家に到着し、弥生が車を降りる時に橘がそう言った。
「わかりました。校門の前で待ってます」
車が最初の角を曲がるまで見送ってから腕時計を見ると、夕方の六時になる少し前だった。
これなら、弥生の不在を誰も気にしていないだろう。そう思って、気軽に家の中に入っていく。
が、しかし。
「ただいま」
いつもどおりに玄関の引き戸を開けると同時に、バタバタと騒がしい足音が響いてくる。
「姉ちゃん!」
「どうしたの、睦月?」
「『どうしたの?』じゃねぇよ! 何だよ、これ」
そう言うと、睦月は弥生が電話の脇に置いていったメモを突き出した。
「あ、ごめんごめん。驚かせちゃったね。もういいんだ、それ。何でもなかったの」
「訳わかんねぇよ」
「ごめんね」
もう一度謝りながら、弥生は少し背伸びをして睦月の頭を撫でてやる。
この弟は、小学校六年生ですでに百六十センチを超えていた。父親は百八十センチ以上あり、体格もがっしりしている――睦月の身体は、今はまだひょろりとしているけれど、きっと、父親と同じようなものになるのだろう。容姿も、ふんわりと可愛らしかった母親ではなく、ごつい父親に似ている。
時々、姉弟ではなく兄妹に間違えられることもあるのだが、弥生にとっては可愛い弟で、心配させるのは忍びなかった。とにかく『ごめん』で押し切る。
「まあ、何もないっていうんなら、もういいけどさ……」
内心全然良くないと思っているが、笑顔で『ごめん』を連発する弥生に、睦月が溜息をついた。母親代わりを自任しているこの姉は、何か問題が起きても弟二人にはそれを見せず、平気な顔で『大丈夫』と言うのだ。
そろそろ自分を頼ってくれてもいいのに、と睦月は思うのだが、悔しいことに、彼女はなかなかそうしてくれない。
「さあ、すぐにご飯の用意をするからね。今日は麻婆豆腐だよ。睦月のは辛口だよね」
何事もなかったかのように、弥生は睦月の横をすり抜けていく。
――もっと大きくなったら、頼りにしてくれるのだろうか。
だが、弥生にとったら、きっと、いつまでたっても自分は守るべき弟なのだろう。
睦月から見ても、父親の達郎は職人としては尊敬しているのだけれど、それ以外のことについては正直言って頼りにできない。
小さな姉の背中を見送って、彼はもう一度手の中の紙きれに目を落とすと、深い溜息をついた。