16
その日の業務を終えた一智は、卓上の書類を片付け始める。かつてはがらんとしていたデスク周りも、この二年の間に様々な書類で溢れかえるようになった。
デスクの上をキレイに片付け終えると、彼は引き出しを開けて、『ソレ』を取り出した。
片手に乗る、小さな小箱。
蓋を開ければ透き通った輝き。
準備は万端に整った。
二年前に買っておいた『ソレ』を、そろそろ本来あるべき場所に移しても良い頃だろう。
もう、これ以上彼女に『否』とは言わせない――もしもその答えが返ってくるようであれば、一智は彼女を掻っ攫って屋敷に閉じ込めるのも辞さない覚悟だった。
「なあ、水谷。俺はよくやっただろ?」
相変わらず生真面目な顔をしてデスクの前に佇む右腕にそう投げかけると、彼はニコリともせずに答えた。
「そうですね。あなたが二年も女性断ちができるとは思いませんでした。どんな人間でも、やればできるものだと実感しましたとも」
「……そっちかよ」
まあ、確かに、彼女に会いに行くたびに、何度手を伸ばしてしまいそうになったことか。
手を伸ばして、触れて、抱き締めて、キスをして、いっそ最後まで……。
一智は深々とため息をつく。
彼女に誓った以上、その諸々を実行することはできなかったが、頭の中では何度もシミュレーションした。
未熟な高校生の頃だって、妄想でそこまでやったことはなかったというのに。
そんな状態だったから、今になって思うと、彼女が京都に逃げてくれて良かったのだろう。
逢いに行くのに片道四時間以上もかかるとなれば、魔の差しようもない。
彼女に認めてもらう為には仕事の手を抜くこともできないから、逢瀬の時間も碌に取れず、彼女が働く小料理屋で彼女が作ってくれた食事を摂ってそのままとんぼ返りというのがせいぜいだった。
パタンと小箱の蓋を閉じ、一智はそれを握り締めた。
そして脳裏に彼女の笑顔を浮かべる。
主人と使用人という縛りを解かれたためか、一智が『節度を持った態度』を取るように死力を尽くしたことが功を奏したのか、彼女は屋敷では見せてくれたことのないような柔らかな表情を見せてくれるようになった。
時折こぼす笑顔の、何と可愛らしいことか。無防備に見つめられ、理性をかなぐり捨ててしまいそうになったことは数え切れない。
触れたくてたまらない相手が目の前にいるのに、触れてはならない――確かに、あの拷問の日々に耐えた自分は、褒めてやりたい。
「長かった、よな。けど、もういいだろう?」
呟いた一智に、水谷は当然の顔をして返す。
「まあ、もう一つの方に関しては、最初から信じていましたよ。あなたなら必ずやれると」
「そうか?」
「ええ」
頷いた水谷が、フッと笑む。
微かなそれは、とても淡いが確かに笑顔だ。
滅多に見せない秘書のその表情が、何よりも雄弁に、一智の成し遂げたことを認めていた。
この二年間で、一智は新藤商事の『お飾り専務』ではなく、『社を率いる指導者』としてなくてはならない存在になった。
それが、彼女に示してみせた彼の『誠意』だ。
自分の責任を果たすこと。
彼女が重視するのは、それだ。
企業という帝国を背負う者としては不純な動機かもしれないが、彼女を認めさせるために、彼は己の責務を果たしてみせたのだ。
「だけど、『お前の為にやったんだ』とか言ったら、アイツは怒っちまいそうだよなぁ。『やり直し!』とか言われたりしてな」
はは、と小さく笑った一智に、水谷が真っ直ぐに視線を返した。
「きっかけは彼女だったかもしれませんが、今は違うでしょう? あなたは気付いていなかったかもしれませんが、今のあなたは最初からあなたの中に存在していたんですよ。ただ、表に出るタイミングを計っていただけで。……きっと、今は彼女もそう思っています」
「……――そうか」
この秘書は、顔の筋肉一つ動かさずに言ってのけるのが小憎らしい。
一智は口ごもった挙句、ようやくその一言だけ漏らした。そして、小さく咳払いをする。
「まあ、取り敢えず、行ってくるぞ」
気合を入れ直して立ち上がった一智に、水谷は腰を折って深々と頭を下げた。
「はい。お車の準備はできています。頑張ってきてください。三日間は休みにしましたから」
静かな口調だが、水谷の中では最大限の応援をしているのだろう。
一智は執務室を出る前にもう一度鏡を見て、ネクタイを締め直した。そしてポケットに入れた小箱をしっかりと握りしめる。
「成功を祈っていてくれ」
半ば以上本気で切実な彼のセリフに、水谷は微笑んだだけだった。
エレベーターで地下に下り、待機していた車に乗り込む。
そうして、目を閉じ、口の中で何度も同じ台詞を繰り返した。
この二年間、考えに考えて、ようやく彼女に伝えるべき言葉を見つけることができたのだ。
その言葉で、絶対に間違いがない筈だ。
「百合……待ってろよ?」
一智は、遥か遠方の地にいる彼女に向けて、そう呟いた。