13
彼の名前を何度もささやきながら、気を失うように眠りに落ちた百合の頬に、涙の跡が残っていた。
一智は彼女を起こさないように細心の注意を払って、そっとそれに触れる。
初めてだった百合に、きつい思いをさせてしまったかもしれない。
そんな考えがよぎると、こんなにぐっすりと寝ているというのに無性に彼女を抱き締めたくなる。彼はなけなしの理性でそれを堪えた。
懸命に一智に応えてくれた百合の身体は柔らかく、温かく、これまで抱き合ったどんな女たちからも得たことのない喜びを彼に与えてくれた。
初めて彼を受け入れて小さな悲鳴を漏らした彼女に、苦痛を与えてしまったという罪の意識をはるかに上回る満足感を覚えてしまった。
この彼女を知っているのは自分だけなのだ、という満足感。
そして込み上げてきた、それを他の誰にも味合わせたくないという強烈な独占欲。
身体の快楽よりも強い心の充足感で、彼の中ははちきれんばかりになった。
未だかつて感じたことのないそれに圧倒されて、慣れていない身体を大事に扱ってやらなければならなかったのに、彼は我を忘れて貪ってしまったのだ。
艶やかな黒髪を持ち上げ、そっと口付ける。
そこなら、彼女の眠りを妨げることなく触れられるから。
そうしながらも、瞼を閉じた百合の顔から目を離せない。
美人ではない、平凡な顔立ち。
けれど、一晩中でも眺めていたい。
彼女の寝顔を見ていると込み上げてくるこの想いは、いったい、なんなのだろう。
今までどんな相手にも感じたことのない、想い。
自分の中のこの気持ちを、百合に伝えたいと思った――いや、伝えなければならないと思った。
だが、伝えるための言葉が、彼には思い浮かばない。
――傍にいてくれ?
――手放したくない?
――お前が欲しい?
――お前は、俺のものだ?
どれも近いようでいて、何かが違う。きっと、百合には肝心な何かが伝わらない。
起きたら、必ず『何か』は伝えなければ。その言葉を探すうちに、トロトロと一智は眠りに堕ちていった。
*
ふと、百合は暗がりの中で目を開けた。腰の辺りに、何か温かく重いものが載っている。そっと指先で辿ってみたそれは、一智の腕だった。
小さく身じろぎすると、身体のあちこちが甘い痛みを訴える。
――ああ、そうだ。
闇に慣れると、目の前にあるのは、一智の胸。少し視線を上げると、薄っすらと無精ひげが生えた彼の顎。
初めて経験する人肌に包まれる感覚は、この上なく心地良い。
――自分は、彼に全てを許したことを、いつか後悔するだろうか。
そうは思わない。
今も全身に感じる温もりが、堪らなく愛おしい。
――ならば、このまま、彼の傍で、彼のために生きていこうか。
自分以外の美しい女性を傍に置くのも、その人に優しく愛をささやくのも、見てみないふりをして。
その考えは、すぐに頭を振って打ち消した。
――いいえ、きっと、無理。
一度手に入れてしまったものを失うのは、つらい。
それに、彼がどれほど愛おしげに優しく女性に触れるのかを知ってしまったから。
愛を交わしている間、まるで宝物のようにその人の名前を口にするのを、知ってしまったから。
彼の隣に新しい女性が現れるたび、彼女にそうしているのだと思ってしまう。
そんなふうに思いながら、何も感じていないようには振る舞えない。
今なら、まだ離れられる。
辛いけれど、まだ、そうできる。
半ば自分を言いくるめるように、彼女は胸の中でそう呟いた。
もう一度だけ涙をこぼし、百合はゆっくりと腰に絡みつく一智の腕をどけ、ベッドを下りる。
「お慕いしています、ずっと」
彼の耳元に、小さく、そう囁いて。
百合は静かに部屋を出た。
*
朝になって、姿が見えない百合を捜して一智が大騒ぎを始めるまでは、まだ数時間の静けさが残っている。