12
門の外でタクシーを降りて、百合はうつむきがちに玄関へ向かう。
歩きながら見合い相手のことを思い返し、溜息をついた。
悪い人だったからではない。
むしろ、とてもいい男性だった。穏やかで、人の話をよく聞いてくれて、仕事ではそれなりの地位に就いているが、何よりも家庭を大事にしたいと言っていた。
そして、優しげな微笑みと共に言ってくれた――結婚を前提に交際したい、と。
彼と結婚すれば、必ず幸せにしてくれるだろう。
そう、信じさせてくれる男性で、穏やかで幸せな家庭を望む百合にとっては、願ってもない相手だった。
一智のことを、好きだ。
もしかしたら、愛しているといってもいいのかもしれない。
けれど、彼とでは、百合が憧れていた未来は全く描けない。きっと彼は一人の女性に縛られるような一生は歩みたくないだろうし、そもそも、不可能なのだ。
それは多分、力のあるライオンに一頭の雌だけで満足しろと言っているようなもので。
「ほんと、両手の指より多い数の女性をはべらしてる方が、よっぽど似合うわよね」
ポーチに立った百合は、そう呟いて苦笑する。
自分のようなパッとしない女は、一度お声がかかれば、それだけでも御の字というところだろう。
二回のキスだって、全然深い意味はない、気まぐれか挨拶のようなものに過ぎないのだ。
解かりきったことをくよくよと考えてしまう自分に、ため息がこぼれる。
このまま、一智の世話をして生きていくというのも、ありかもしれない。
時たま、そんなふうに思ってしまう自分がいることを、百合は否定できなかった。
そうなれば、いずれ色々な意味で彼に相応しい女性が現れ、彼の妻となるのを見ることになるのだろう。
もしかしたらその頃にはこの若い想いは熟成して、静かにその光景を受け止められるようになっているかもしれない。
――今は、とうてい無理だけれど。
時刻は遅く、玄関の鍵は閉められている。多分、起きている者もいないだろう。百合は合鍵を取り出した。
中は、当然暗い。かと言って、歩きなれた邸内で電気を点ける必要も感じられず、百合は暗がりの中を壁伝いに自室を目指した。
もう少しで着く、というところで、彼女は部屋の前の壁に寄りかかって佇む人影に気付いてギクリとする。シルエットでも、それが誰なのかは充分に判る――できたら、今晩は会いたくない相手だった。
「一智様……」
ゆらりと身体を起こした彼は、立ち止まった百合の元に歩いてくる。
「百合」
暗闇の中でも光っているような一智のその目に見下ろされると、身が竦んだ。
「ちょっと来い」
身体を硬くした百合をどう思ったのか、一智は彼女の腕を取って歩き出した。その行動に、百合は慌てる。
「待ってください、一智様。今日はもう遅いですから、明日……」
そう言い募る百合を彼は無言で見下ろしたが、足は止めない。引きずられるようにして、そのまま――彼の自室へと連れて行かれる。
部屋に着いても、しばらく彼は無言のままだった。三歩分ほど離れて、無言のまま、百合をジッと見下ろしている。
先に沈黙に耐えられなくなったのは、百合の方だった。
「一智様? あの……」
けれど、口を開いたはいいが、先は続かない。いつもと違う華やかな服装や、薄いとはいえ化粧をしていることが、何故か彼女をいたたまれなくする。
一智に黙って男性と会ってきたことに罪悪感のようなものを覚えているのだが、本来は彼に関係ないことなので、別に気にせず、平然としていてもいい筈だ。なのに、この居心地の悪さは何なのだろう。
更にまたしばらくの沈黙の後、ようやく一智が動く。
ギリ、と歯軋りの音が聞こえ、わずかに彼は足を踏み出した。
「百合……どうだったんだ」
何が、とは問えなかった。彼は、全て承知のようだ――話したのは、母だろうか。
「どうって――」
「ごまかすな。見合いだったんだろう?」
見下ろしてくる目が、怖い。その目から顔を逸らし、百合は呟くように答える。
「良い方でした」
視界の隅に映る一智の拳に力が込められたのが見えた。彼がゆっくりと息を吐く。
「結婚、するのか……?」
「そ、れは……」
「するのか!」
一歩近付かれ、一歩、後ずさる。だがそれぞれの歩幅は異なり、必然的に二人の距離は縮まった。
「お前は、そいつのものになるのか……?」
低く絞るような声での囁きが、かろうじて百合の耳に届く。ぞくりと悪寒のようなものが彼女の背筋を走り抜けた直後―― 一智の腕がさっと伸び、次の瞬間には、百合は彼の胸に頬を押し付けていた。
咄嗟にもがいた百合を押さえ込むように、彼女の身体に回された一智の腕に力がこもる。それは、痛みを覚えるほどだった。
「一智、さま……」
掠れる声でその名を呼ぶ百合の頭に被さって、一智の軋む声が届く。
「お前が、欲しい」
一瞬、百合の息は止まった。全身を強直させた彼女をどう思ったのか、一智が言葉を重ねる。
「お前を、抱きたい」
――ああ、そういうことか……。
一智が自分を求める気持ちと、自分が一智を求める気持ちとは、決定的に違う。その二つは、絶対に重ならない。
そう理解した瞬間、百合の頬を雫が転げ落ちていく。
――もう、終わりにしよう。
諦めにも似た気持ちが、百合の心を支配した。
胸元を濡らす彼女の涙に気付いた一智が、腕を放し覗き込む。
「泣くほど、イヤか?」
問いかけには、首を振って応えた。
「いいえ……いいえ」
「じゃあ、いいのか?」
半信半疑、不安げな一智に、百合は精一杯の笑顔を向ける。
「――はい。あなたのものに、してください」
その言葉を言い終えないうちに、百合の身体はフワリと抱き上げられる。
――これで、最後にするから。
一智の胸に顔を押し付け、百合は小さく息をついた。