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「この間なんだけどさぁ」
そう、唐突に切り出した主人に、今日の予定を告げていた水谷が口を噤む。
「はい?」
「ほら、日曜日の……俺って、どうしたいんだと思う?」
「はぁ?」
珍しく、生真面目な水谷が間の抜けた声を出した。
秘書がマジマジと見つめているのにも気づかず、一智は頬杖を突いて流れていく景色を車窓から眺めながら続ける。
「いや、結構うまくいってたんだぜ? ホント、家に入る直前までは」
「一度も叱られず?」
「そう。『必要以上に触らず』。女といて手をつなぐだけだとか、多分初等部以来だよ」
「そんなこと、全然自慢になりません」
たった二つ――『叱られるような非常識なことはしない』『必要以上に触らない』は、百合との外出に当たって水谷が一智に与えた最低限のアドバイスだ。まあ、『非常識』に関しては、一智にどこまで『常識』があるのか判らなかったので、実際のところ、忠告した水谷としても微妙なところだったのだが。
「良かったじゃないですか…………『家に入る直前までは』?」
「ああ。……最後の最後で、キスしちまった……」
ぼんやりとそう答えた一智に、水谷が呆れたような声を出す。
「何で、また」
「それが、解らねぇんだって」
そこで、一智は大きな溜息をつく。
「うまくいって、明日からはまた元通りだ、と思った瞬間、なんか耐えられなくなった」
「何に?」
「それが、解らん。ただ、前と同じじゃ嫌だと思ったんだ」
「で、キス……」
「ああ。よく解らねぇだろう?」
同意を求めた一智に、しかし、水谷は奇妙な眼差しを向けた。幼い子どもを憐れむようなその目で見られると、なんだか妙にバカにされている気がする。
「何だよ? お前にはこれがなんだか解るのか?」
「いえ、まあ……あなたがこれまで真っ当に成長してこなかったのだということが、よく解りました。人間、やっぱり子どもの頃には机に向かっての勉強だけではなく社会性を育むための勉強も必要なんですよね」
ため息混じりの水谷の台詞に、一智は眉をひそめる。
確かに、彼の子ども時代は家庭教師と共に机に向かう日々ではあったが。
「どういう意味だよ」
「それ、もう少し、ご自分で考えてみてください。他人が教えるものじゃないですから。――で、十五時からですが……」
一人心得顔で言うだけ言って、水谷はさっさと『本日の予定』に戻ってしまう。
取り残された一智はムッと口を曲げた。
学業成績は常に『優』だったし、お飾りに甘んじているとは言え、早々に職務にも就いた。経済界での交友関係は広いし、女との付き合いも入れ食い状態で並以上にこなしてきた。
そんな自分の何処をとって『成長していない』などとぬかすのか。
水谷の言うことがさっぱり解らない。
だが、解らないのは百合のこともだし、何よりも自分自身のことだ。
結局何の解答も得られないままで不満を募らせた一智を乗せ、車は本社ビルに入っていった。