9
日曜日は絶好の行楽日和になった。とはいっても、回るのは屋内ばかりなので、天気はあまり関係ない。しかし、一智には、燦々と輝く太陽は、今日の成功を約束してくれるもののように思えた。
「よし、じゃあ行くか」
そう促して先に百合を車に乗せ、続いて一智も身を屈めて乗り込む。
動き出した車の中で、一智は窓の外を眺めている百合の姿を窺った。いつもはきつくひっつめたシニヨンだが、今日はふんわりとゆるくまとめていた。シンプルなデザインの淡いピンクのワンピースも良く似合っている。
いつものメイド仕様だと、実際の年齢よりも四、五歳は年長に見えるが、今日は年相応に――可愛らしい。
視線に気付いたのか、不意に彼女が振り返る。
「何か?」
眉をひそめて見つめてくる顔は相変わらず化粧をしていないが、そんなものは必要無いくらい頬はスルンと滑らかだ。そして、柔らかそうなその唇。
そう思考が進み、ハッと一智は我に返る。
「何でも。……似合ってるな、その格好」
「……ありがとうございます」
一智の台詞に、ほんのりと百合の頬が染まる。桃のようなそれを舐めてみたら、どんな味がするのだろう。
そんな考えが脳裏をよぎっていったが、まだ、一智の中では理性が勝った。
今からこんなふうではこれからの数時間がどんな苦行になるのかと先が思いやられはしたが、このまま頑張れと己を励ましつつ、意味のない会話で気を逸らす。
「いい天気で良かったよな」
「そうですね。外を歩きたい気分です」
寛いだ表情でそう言う百合に、自身の内面の葛藤はさておいて、このデート自体はなかなか幸先のいいスタートが切れたことを確信する。
「よし、じゃあ後で少し歩くぞ」
これから行く水族館の近くには、公園もあった筈だ。百合のことだから、水族館を回り終えれば「さあ、帰りましょう」ということになりかねない。散歩をネタに、取り敢えずは引き延ばしを図れた。
さしたる渋滞もなく比較的スムーズに水族館に到着すると、そこは家族連れでごった返していた。騒がしい子ども連れも多く、やはり貸し切りにするべきだったかと百合を見下ろしたが、彼女は別に気にしていないようで、むしろ楽しそうに見える。
――何がそんなに嬉しいんだ?
百合の『お楽しみポイント』が判らないまま、一智は彼女と連れ立って館内に入る。
内部を順路どおりに進んでいくと、魚の群れだけでなく、磯の生物、ペンギン、イルカ、クラゲなど様々な海洋生物が現われる。
百合は、その一つ一つに目を輝かせ、明るい声を上げた。
――まずい。
屈託のない彼女の様子に、一智の手が疼く。それを伸ばして、彼女に触れてしまいたくて、どうしようもなくなる。
百合から視線を引き剥がして理性と欲望の間で彼が戦っていると、不意に指先に柔らかく温かなものが触れた。そして、キュッと握りこまれる。
「一智様? 次に行きませんか?」
見下ろすと、漂うクラゲに釘付けだった百合が不思議そうに見つめていた。クイ、と手を引かれる。
「あ……ああ」
手を握られることがこんなにも心地良いものだとは、知らなかった。いったい、どんな拷問だよ、と思いつつも、彼女の手を振り払うことはできない。引っ張られるままに歩き出した。
やがて、二人はトンネル型の水槽に足を踏み入れる。
「わぁ……」
一智の隣から、小さな声が上がった。
「こういうの、好きなのか?」
「はい。水族館の中で一番好きです。何度見ても、毎回思わず声が出ます」
百合が、夢見るような声で返事をする。
そのまましばらく進んで、二人は真ん中ほどで立ち止まった。
ガラス張りのトンネルの中にいると、まるで海の底に佇んでいるようだ。大小さまざま、色とりどりの魚が群れをなして泳いでいく。時々、巨大なエイやサメのようなものがよぎっていくと、下から溜息のようなものが聞こえ、一智の指先を握っている百合の指先の力がわずかに強まる。
百合に気付かれないように横目で見下ろすと、彼女はうっすらと唇を開け、天井を一心に見上げていた。その様は、まるで子どものようだ。多分、幼い頃もこうやって父親の手を握って、同じように見上げたのだろう。
無防備なその唇にキスを落とすのは、容易なことだ。だが、一智は動けなかった。それよりも、何か強い感情が胸にこみ上げてきて、彼女と同じように視線を上に向ける。
――百合の過去も、現在も、未来も、自分のものにしたい。
溢れてくるその欲求、その感情の名前を、彼は知らない。だが、それはとても強く、抑えようもなく溢れ出してくる。
無意識のうちに一智は手の中の百合の指を一本一本親指で辿っていたけれど、彼女は全く気付いていないようだった。おとなしく、されるがままになっている。
どれほどの時間が過ぎた頃であろうか。一智の手がそっと引かれた。
「一智様……? そろそろ行きませんか?」
視線を下ろすと、首を傾げて彼を見上げている百合の視線と行き合った。
「ああ……そうだな」
そう答えて、ただ握られているだけだった指先に力を入れると、百合の手がピクリと震える。だが、振り解かれることはなかった。
二人はゆっくりと足を進める。
水族館を出ても公園を歩き、当たり障りのない、たあいもない会話を続けた。時折あがる柔らかな百合の笑い声を耳にするたびに、一智の胸は苦しさと紙一重の何かに満たされる。
笑顔で彼女に見上げられると、そのまま唇を重ねずにいることに、彼は理性と自制心を振り絞らなければならなかった。
夜は気取らないレストランで食事を摂る。
予約が一ヶ月先まで埋まっているような超有名レストランではなく、通りすがりに見かけた、イタリア料理店。
「ここ、おいしそうですね」
百合のその一声で、そこに決まった。
そして、終わり。
それは今まで一智が味わったことのない、穏やかで柔らかな時間だった。
いつものデートでは、一智にとってはそれからが『本番』だった。食事や観劇などは、女をベッドに連れ込む為の前座に過ぎない。
けれど、今、一智は絶世の美女と濃厚な夜を過ごした時よりも深い充実感を覚えていた。
やがて帰りの車は門をくぐり、二人の関係が元どおりの『雇い主とメイド』に戻る時がやってくる。
今日は『うまく』やれた。うまく、百合を喜ばせることができた筈だ。多分、明日からはまた、以前と同じような二人に戻れるだろう。
だが。
――以前と同じ?
果たして、自分は『それ』を望んでいるのだろうか。
少し前を行く百合の背中を見つめながら、彼は自問する。
それ以上考えることなく、一智は屋敷に入りかけた百合の腕を捉えた。
「一智様?」
見上げてくる眼差しは、ほんのわずかも彼を疑っていない。
一智の心の底からの願いが、口を突いて出ていた。
「キスしたい」
「え?」
百合の目が、メガネの奥で丸く見開かれる。
プツン、と彼の中で何かが切れる音が聞こえたような気がしたのは、多分気のせいではない。
返事は待たなかった。
「悪い」
そう声を掛けて硬直している彼女のメガネを外すと、そのまま頬を両手で包む。強引なことはしなかった。いつでも彼女が逃げられるように抱き締めることもせず、軽くついばむだけのものを、何度も繰り返す。
名残惜しくも最後に触れて唇を離すと、何かを探すような百合の眼差しが向けられていた。しばらく互いの目を覗き込み――先に目を逸らしたのは、一智だった。
「悪い」
もう一度繰り返し、扉を開けてエントランスへ百合を押し込んで、自分は外に残ったままで、扉を閉めた。
晩秋の冷たい空気の中、一智は佇む。
自分が何を望んでいるのかよく判らず、思わず溜息が零れるのを止められない。
ふと、彼は手の中に残るメガネに気が付いた。
*
百合は扉の内側にもたれてしばらく外の気配を窺った。けれども、ノブが回される気配は、ない。
小さく息をついて、扉から離れる。歩き出してからメガネがないことに気付いたが、仕方がない。少し心許ない足取りで自室へと向かった。
部屋に入ると、ノロノロとベッドに腰を下ろす。
――あのキスは、何のつもりだったのだろう。
以前のものは、怒りからのものであることが明らかだった。感情に任せてあんなことをした一智が、悲しかった。
けれども、今日のものは、さっぱり解らない。
朝は自分の気持ちがばれてしまう羽目になってしまわないかと不安だった。でも、ずっと、一智は穏やかに接してくれて――以前の子どもじみたところも全くなくて。
ただただ、楽しくて幸せだった。
無事に、一日を終われると思ってた。
なのに……。
最後に一智の目の中にあったものは、何だったのだろう。怒りとか、そういう激しいものではないことだけは、解ったけれど。
――いつも、女の人と会った時は、別れ際にあんなキスをするの?
優しくて、優しくて、優しい、キス。
大事に、特別に想われている、と、勘違いしてしまいそうな、キス。
百合には夢のようだったキスを、彼は当たり前のようにしてしまえるのか。
そう思うと、今更のように涙が頬を零れ落ちていく。
「なんか、もう、疲れたな……」
ポツリと呟くと、ドスンと心の中に何かが落ち込んだ。
それを追い出したくて百合は大きく息を吐いたけれど、何も変わらなかった。